2010年11月30日火曜日

「冷めた目」の理由 (トラウマ)

ですが、プロポーズをした彼は、2人目の母親の話をした時、
「それが原因なんだろうな、お前がたまに『冷め切った目』をするのは。」
とあっさり言ったそうです。 その時S.S.は何でこの人はそこまで人の心が読めるんだろうととても感心したそうです。 話の前後から推測するに、それが彼に惹かれていくきっかけではなかったかと思われます。 私は、
「いや、その事には俺も気付いていたよ。」
と言いたくなりました。 でも、気付いていたのは「冷め切った目」だけで、そんな目をする理由を彼女の生い立ちには求めませんでした。 そんな目をされたので、私に気がないのだろうと、自分の事だけを考えていたのです。 プロポーズをした彼のように、S.S.の気持ちを理解してあげる事ができなかったのです。 これまでもS.S.と話をしていて自分が「子供」だなと思う事は何度もありました。 でも、これほど自分が「小さく」かつ「情けなく」感じた事はありませんでした。 「やっぱり俺とS.S.じゃ吊り合わなかったんだ。」そんな思いが重くのし掛かってきて、気持ちは深く沈みました。 せめてS.S.に気付かれないようにと表情を取り繕いましたが、恐らく表情にははっきりと出ていたはずです。 幸か不幸かこの日のS.S.は自分の世界に浸っていたので、私の表情なんかお構いなしに話し続けました。
誰だって失恋経験の1つや2つはあるでしょうが、私はこの日の出来事からいつまでも立ち直る事ができませんでした。 それは丁度、「片金」になってしまっても直ぐには実感が湧かずに、じわじわと私の心を蝕んでいったのと似ていました。 時間が経てば経つほど気力が萎え、S.S.の事が頭から離れなくなってゆきました。 学校は期末試験までまだ間がありましたが、受験を控えている3年生ですから、皆夏期講習の選択に忙しい時期でした。 進学を諦めた私は周りの目には1人で机に伏せて暢気に寝ているように映っていたと思いますが、実際は涙を見られたくないので寝ている振りをしていただけでした。 激しくは落ち込みませんでしたが「もうどうなってもいいや」と自棄になっている部分と、「このままじゃまるっきり負け組の人生じゃないか、なんとかしないと。」という意識の狭間で方向性を見出せずに時間を右から左にうっちゃるような日々がしばらく続きました。 期末試験が終わり、夏休みを迎え、2学期が始まりましたが、中途半端に落ち込んでいる事には何ら代わりがありませんでした。

2010年11月29日月曜日

そ、そんな・・・ (トラウマ)

余りに突然だったので、事態を把握できず、何をどう答えるかの前に、頭を整理する必要がありました。
「え~ッ! ちょっと待ってよ、唐突すぎて話が見えないよ。 その人の事、もうちょっと詳しく教えてよ。 いつ知り合ったの?」
S.S.は出会いから現在までを大まかに説明し始めました。 そう言えば、最近知り合った人で頭の切れる面白い人がいるから、そのうち紹介するねと言ってた事がありましたから、その男と交際していたのでしょう。 取り敢えず気を落ち着けて、彼女の話をきちんと理解しないことには対応のしようがありません。 必死に取り繕っていましたが、話を聞きながら頭の中の混乱を整理するのは容易な事ではありません。 ただ「聞き役」に徹するのが精一杯でした。 
「未だ早いよ。 俺ら18だぜ。」
絞り出してやっと口から出た言葉はこれだけでした。
「でもね、こんな私でもいいからって言って、貰ってくれる人がいるんだから・・・。」
そう口にするS.S.は、私が今まで一度も見た事がない、幸せそうな顔をしていました。 私はS.S.の笑顔が好きで、どうしたらその笑顔が見られるのかとばかり考えていました。 でもその彼女がこんな表情をするなんて、これまで想像した事もありませんでした。 初めて見た幸せそうなその顔に向かって、結婚を否定するような言葉はとてもではありませんが言えませんでしたし、まともに目を見る事ができずに俯きながら、相づちを打つ以上の事もできませんでした。 
「こういうのが『縁』なのかも知れないって思っているのよ。 みんな『未だ早い』って言うけれど、そんなのただ遅いか早いかの違いだけでしょ。」
S.S.は話を続けましたが、声は聞こえても上の空で何も考えられません。 どれだけ時間が経ったのでしょう、いつの間にか彼女は子供の頃の話をしていました。 何度か聞いた事のある、2人目の母親の話です。 S.S.とは中学校は同じでしたが、小学校は別でした。 小学校の写真は友人から卒業アルバムを見せて貰い、集合写真の中に小さく映った彼女の顔しか見た事がありません。 何度も家に遊びに来ているのですが、彼女のアルバムの類は一度も見せて貰った事がありません。 小学校低学年の時に撮した写真は全て、寂しそうな目をしているから人に見せたくなかったのだそうです。 無理もありません。 いくら弟を愛していると言ったって、小学校低学年が継母から露骨に差別をされても我慢していたのです。 高学年になった頃には精神的にもかなりタフになり、殆ど表情に出なくなったようで、私が生徒会で一緒になった中学2年生の頃にはそんな片鱗も見えませんでした。 また、これまで誰にもそんな事を指摘された事はなかったそうです。

2010年11月28日日曜日

告白 (トラウマ)

そんな生活を続けていくうちに私も高校3年になってしまいました。 S.S.に恋愛感情を抱いたのは中学校2年の夏休みからでしたから、気が付くと4年間も片思いを続けていました。 その間は常に、「自分がもっと成長して彼女に追いつかないと彼女とは釣り合わないし相手にもされない」そんな風に考えていたので、振られるよりは今の関係でいた方がずっとましだと思っていました。
この頃私は大学受験を諦め、就職するつもりでした。 国立大学は共通一次試験が導入され、とても対応できませんでしたから、私立大学受験しか道がなかったのですが、4年間の学費を考えると大きな無駄に思えたのです。 その4年間に仕事を覚え、収入を自己投資に回した方が自分の成長に繫がると考えたからです。
同時に、社会人になる事を目前に控え、いつまでも片思いのままではどうしようもないと思い始めました。 思い切って自分の殻を破らないと今の状態をダラダラと続ける事になるから、結果がどうであろうと打ち明けようという思いと、大人と感じる彼女との差がこの4年間で大きく開いてゆく一方の私なんか相手にしてくれる訳がないのだから、今のまま友達でいた方がずっといいという思いの狭間で気持ちが大きく揺れましたが、私が進学よりも就職を選んだ理由の一つに、早く社会に出て自分を成長させたいという思いもありました。 次第に、いつまでもこんな状態を続けても仕方ない、打ち明けるんだという思いが強くなり、ようやく決心が付くまでに4年もかかった訳です。
決心が付くなり、S.S.から電話がありました。 いつもの調子で、
「あたし。 どうしてる? 時間あるかな? 又いろいろ話したい事もあるんだ。」
いつものように彼女の家で会う事にして、いつものようにたわいのない話から始めました。 でも、S.S.は何か言いたい事があるのに言い出せないような雰囲気でした。 私は私でいつ話を切り出したらいいのか、そのタイミングを測っていましたので、いつもと比べるとちょっとぎこちない会話でした。 そんな雰囲気を破って話したい事を口にしたのはS.S.の方でした。
「実はね、今、『結婚してくれ』って言われてるんだけれど、どう返事しようか迷っているのよ・・・」

2010年11月27日土曜日

冷めた目 (トラウマ)

ラッキーパンチのように放った言葉以外にも、彼女にとってよかったことがあったようです。 彼女が自分でやると決めた仕事ですから、私が何を言っても辞める訳はないと思っていたので、「辞めなよ。」とはどうしても口にできなかった事です。 私にとっては何も出来ない自分の不甲斐なさに落ち込まされる事だったのですが、逆にS.S.にとってはそれが心地良かったようなのです。 彼女の友人は異口同音に
「辞めちゃいなよ、そんな仕事。」
と、ありきたりの返事しか返ってこないので、仕事の話を友人にしているとうんざりすることが多かった時に、私はそんな事を一言も口にしなかったので、言いたい事を気の済むまで話せたようです。
互いに求めるものや、見つめている所が違っていたようですが、それでも話の息は合っていて、会話のやり取りは楽しいものでした。 ですが私にとっては、彼女が大人に見えて自分との「差」がどんどん広がって感じる事以外に、もう一つ、悩みの種がありました。
彼女と話をしていると、たまにすごく冷たい視線を向けられるのです。 私が何かいやらしいことを事をしたとか、軽蔑されるような発言をしたとかではなく、何かの折に一瞬そんな目をするのです。 その冷たい視線はまるでアイスピックのように鋭く私の心を貫き、いくら話が弾んでいても、その目を見るとゾッとして一瞬言葉が止まってしまうほどでした。 出勤時間ギリギリまで話し込んだ帰路、その冷たい視線を思い出すと、「やっぱり俺なんかに惚れる訳ないよな。 惚れた相手にあんな目をする訳ないしな。」とがっくり肩を落としたものです。 この「冷めた目」が私に向けられたものなのか、何を意味しているのか、私には分かりませんでした。 何度も話題にしかけたのですが、その都度、触れてはいけない事のように感じて、結局黙っていました。
「久しぶりに会いたいな」と思い、彼女の笑顔を思い浮かべながら電話の受話器を上げた時、この「冷めた目」をしたS.S.の顔が浮かんできたので、ダイヤルを回さずに受話器を置いた事は1度や2度ではありませんでした。 いつも心の底から楽しそうに笑う顔が私を惹き付けて放さないのですが、その笑顔の裏に潜む、「冷めた目」は私を突き放し、決して近づけさせなかったのです。

2010年11月26日金曜日

無意識に (トラウマ)

ですが、医者が「充分な休養を取るように」と言うほど無理をしている時に、わざわざ私と連絡を取ってまで話しがしたいのですから、話題はそれだけではありません。 話を聞き終わった後で、何を言っていいか分からないほど考え込まされるような話題が必ずと言っていいほどありました。 どうしても自分で納得がいかなかったり、何をどう考えていいか分からなかったりした、彼女にとって「消化不良」な出来事についてです。 私にとっては彼女を私の方に振り向かせ、2人の「差」を埋める為にも「消化酵素」になるような気の利いた意見の一つでも言いたいところですから、必死に頭から言葉を絞り出しました。 今考えればろくに人生経験もないくせに、人生相談で「すっきり解決」できるような名解答をしようとしている訳で滑稽もいい所です。 ですが彼女は何度かに1度、私の言葉に俯いて何も言わなくなるほど考え込む事がありました。 ですが、本当に「消化酵素」になったような言葉は、決して意識して出したものではなく、反射的に口をついて出てきたような言葉の中にあったようです。 後でS.S.に言われても、「そんなことを言った気がするな」程度の記憶しかない言葉ほど、彼女の記憶には深く残っていました。 何年も後で彼女の口から、「辛かった時期にあなたの言葉で随分と救われたのよ」と言われた事がありましたが、当然、実感は全くありません。 ボクシングに例えるなら、ろくな練習もせず、試合ではクリーンヒットでのポイントを全く稼げなかったのに、「ラッキーパンチ」を放ってダウンを奪ったようなものです。
彼女だっていつもそんな事だけを期待していた訳ではないと思います。 同年代の友人と話をする機会は殆どないので、同い年のたわいもない生活の一端に触れ、日常生活で溜まったものを吐き出せればそれだけでも充分だったのかも知れません。 ですが私はラッキーパンチを放つことばかり考え、思うようにならない事を悔しがってばかりいました。

2010年11月25日木曜日

2人の会話 (トラウマ)

S.S.と親しくなったきっかけは生徒会活動でした。 クラス代表として話し合ったり、放課後に学校行事の準備をする際、一緒にいる時間が多く、S.S.と私は話が合ったのでいつも一緒にしゃべっていました。 私はS.S.の笑顔が好きでした。 本当に楽しそうに、心の底から笑っている彼女の顔を見ることができれば、他には何も要らないといつも思っていました。 彼女の方も、私との会話は楽しくて飽きないと言って、暇があれば話しかけてきました。 後にも先にも、私の事をこんな風に思って、自分から話しかけてくる女性はこの子だけでした。 彼女の笑顔が見たくて、彼女が喜びそうな話題をいつも考えていましたし、話題として使えそうなジャンルの本を選んで読みました。
中学校時代には気が付きませんでしたが、ただ話が面白いから話をしたがっていただけではなかったようです。 私もよく理解できないのですが、私はたまに「深く考え込まされる」事を話すのだそうです。 恐らく彼女の「琴線に触れる」ような言葉を発する回数が多いのだと思います。 S.S.が水商売を始めて会う機会が減っても、定期的に連絡を取っていたのは、どうもそんな会話をしたかったみたいです。 そうは言っても、私の方は平々凡々で変化のない高校生活を送っていましたから、目新しい話題などは殆どありませんでした。 その逆にS.S.の方は水商売なのですから、理不尽な話、馬鹿馬鹿しい話、笑わされる話、腹の立つ話、身につまされる話、泣かされる話と話題に事欠きませんでしたから、私はどうしても「聞き役」に回らなくてはなりませんでした。 そして、そんな世界で毎日働くS.S.に「今の仕事を辞めて欲しい。」と常に思っていましたが、彼女が自分で選んだ道ですし、私の言葉で辞めるくらいなら、彼女自身が考えて、とっくに辞めています。 会う度に、何も出来ない自分の不甲斐なさを責めて落ち込んでいました。

2010年11月24日水曜日

大人になれない (トラウマ)

中学の時に兄弟で差別をされた事は聞いていましたから彼女の話を聞いていると、苦労というものを知らずに何も考えずに「のほほん」と育って来た自分はとても小さな「子供」に感じ、「苦労」を乗り越えてながらもそんな振りすら見せないS.S.がとても「大人」に見え、とても手の届かない存在に感じていました。 自分がもっと成長しないと、とてもS.S.と釣り合わない、そんな思いが常にあり、彼女を大人にした「苦労」というものに意味もなく憧れていました。 親が子供には自分と同じ苦労をさせまいと必死になって育てているのに、「苦労知らずに育ってしまったので精神的に成長ができない」からと、「苦労」に憧れるなんて皮肉なもの、というよりただの馬鹿だったと思います。 ですが、何かのきっかけでS.S.の苦労話を聞かされると、黙って聞く以外何もできない自分がもどかしくて仕方なかったのです。 何か気の利いた慰めの言葉とか、そんな苦労話をさりげなく笑い話なりこれからの糧に変えられるような機知すら持たない自分が、情けないやら、苛ただしいやらで、彼女の家を出て自宅に向かう道程はずっと自分の不甲斐なさを責めていました。 
S.S.は高校を1年で中退し、知人のお店を手伝い始めました。 飲み屋だったので、どうしても時間が合わなくなり、会う機会は以前に比べかなり少なくなってしまいました。 16、17歳ですからいくら二日酔いしていても、仕事が始まる時間までに体調はある程度回復していましたが、話を聞いているとかなり無茶な生活を送っていて、医者からもかなり厳しく注意されていたようです。 私には、何故その知人のためにそこまで身を犠牲にしなければならないのか、さっぱり理解ができませんでした。 ですが、何かのきっかけで彼女のやることを深く追求すると、必ずと言っていいほど、彼女が最も辛かった時期、家族から与えて貰えなかった「愛情」を家族以上に与えてくれた人達で、ある意味「お礼」のようなものでした。 そう言った「人間関係のしがらみ」を見せつけられると、彼女は中学時代よりも更に「大人」になり、私との差は一方的に開いていくような気がして何も言えませんでした。

2010年11月23日火曜日

S.S.の家庭 (トラウマ)

中学校時代の友人とは卒業と同時に疎遠になってしまいましたが、1人だけ、定期的に連絡を取っている友人がいました。 片思いだったS.S.です。 中学校の中ではかなりきれいな方だと私は思っていたのですが、「美人投票」の類に名を連ねたことはありませんでした。 納得がいかなければ自分の意見を押し通す気の強さや、女子中学生っぽい女々しさがなく、他の女の子とは興味の対象がかなり違っていましたので、男子からは「変わった女だ」と思われていた事も原因の一つかも知れません。
中学校を卒業後、学校が別になったので会う機会が減ったとは言え、1~2ヶ月も会わなければどちらからともなく連絡を取っては会っていました。 彼女の父親はとても仕事ができる人みたいでしたが、女にだらしなかったので、彼女には母親が3人いました。 1人目は当然生みの親ですが、彼女を産んで直ぐに姿をくらましたそうです。 その後2人目の母が来て、弟を産みました。 この人は自分の子供と先妻の子供を露骨に差別する人だったそうです。 ですが、弟がかわいくて仕方がなかったので、そんなことは気にもならなかったそうです。 中学校2年の夏休み、S.S.は手術の為に暫く入院していました。 たまたま私もクラブ活動の無理が祟って右肩に「亜脱臼」を起こして同じ病院に通院していました。 S.S.に気があった私は「ついで」と言いながら毎日のように見舞いに行ってたので、何度かこの2人目の母親に会っています。 とても社交的で話していても楽しい人でしたので、S.S.の口からこんな話を聞いて考え込まされました。 中学3年の時に3人目の母親が来たのですが、お祖母さんとは反りが合わず、実家の近くにアパートを借りて父親と住んでいました。 父親が出て行ったので、3人目の母親ができてからの彼女は、実家にお祖母さんと2人で暮らしていました。

2010年11月22日月曜日

高校生活 (トラウマ)

友人との人間関係が壊れてしまった私にとって、中学の思い出は暗いものとなってしまったので、高校では同じ徹を踏まないように努力しました。 離れていった「親友」達以上の関係を築きたくて、必死で自分をアピールしました。 ですが、中学校時代のように「何でも腹を割って話し合える」関係は、まるで「青春ドラマ」のようで「重苦しい」「うっとおしい」と感じる者が多かったように思います。 できることなら余り深く考えたりせずに、楽しくやりたい、そう考える同級生を私は「薄っぺらく」感じる事が多かったですし、逆に友人からは「うっとおしい奴」くらいに思われていた事でしょう。 いくら友達ができても心の中では中学時代の友人以上の関係を望む事は「無い物ねだり」であり、人が離れてゆくだけだと気付き始め、次第に現実からしかものを考えなくなりました。 「~であるべきだ」「~ならいいのに」といった発想を可能な限り排除して、「今は~だから、選択肢は~と~しかない。」と選択可能なものしか視野に入れず、その選択肢の中で最良のものを選び取ることだけに専念しました。 新しい選択肢を探し出し選び出すには、広く深い知識が必要だからと、新聞や本を読みました。  逆に、「役に立たない」「必要ない」と思ったことは一切やりませんでした。  社会構造そのものが情報化してゆき、「学歴社会」が急速に崩壊してゆくという未来予測に触発され、それに関係する書物を読み始めれば、学校の勉強などは近い将来全く役に立たなくなるからと、学期末テストがあろうと全く勉強しませんでした。 でも、そんな情報を発信している人達の学歴とか情報源まで調べると、逆に高学歴な人達のネットワークに属している事が分かり、そういったグループに入り込めなければ良質の情報は得られないはずだと方向修正をして、今度は突然狂ったように受験勉強を始めました。 挙げ句の果てには自分の学力では結局ろくな大学に入れやしないからもっと別な道を探した方がいいだろうと、大学の通信講座を受けながら就職する道を選んだりしました。
又、「片金」となってしまった事も関係して、自分の身体の弱さも「コンプレックス」となっていました。 自分を「男らしく」したくて、極真空手にも通いました。 ですが、当時「ウォーミングアップ」は知っていても、「クールダウン」を知らず、冬になっても稽古が終わるとさっさと帰路についてしまっていた為でしょうか、膝を痛めてしまい、一時は歩く事さえ辛くなり、整形外科や鍼灸・マッサージにも通いましたが、毎年冬になると膝が痛むようになってしまいました。
その時その時で、自分なりに精一杯考えて進むべき道を選んだつもりでしたが、狭い視野でしか物事を見つめられず、中途半端に得た知識に振り回されてしまった3年間でした。 言っていることもやっていることも頻繁に代わり、しかも口先ばかり偉そうなことを言う私は周りとの溝を作ってしまい、高校卒業時には仲の良い友人も数人しかおらず、卒業と同時に疎遠になってしまいました。 結局私は、中学校と同じ徹を踏んでしまった訳です。

2010年11月21日日曜日

卒業 (トラウマ)

この頃テレビでは武田鉄矢の「金八先生シリーズ」の第1回目が放映されていた時です。 土曜日の話題は「金八先生」一色になり、みんな「理想の教育」とか「学校のあるべき姿」を口にしていましたし、年齢も多感な時期です。 私の発言は友人達から強い怒りを買い、皆の態度が急によそよそしくなりました。 私は「当たり前のことを言っただけなのに、現実を受け入れられないなら、ほとぼりが冷めるまで暫く離れていよう。」と距離を置くと、
「あの野郎、俺たちを無視して1人で受験勉強していやがる。 友達を蹴落としてでもいい学校に行きたい奴だからな。」
と陰口を叩かれました。 友人の1人が心配して、
「出来る限り一緒にいた方がいいよ。」
と言ってくれたのでなるべく一緒にいるようにしたが、嫌われながらそのグループのメンバーと一緒にいるという事はかなりのプレッシャーです。 中間試験を受け損ない、退院して間もなく、私は受験のプレッシャーで胃炎を起こし、医者から消化のよい物だけを採るようにと言われていました。 期末試験は不利を挽回する為のプレッシャーとの戦いでした。 テストの結果はかなり良かったのですが、胃炎はかなり悪化していました。 そこへ駄目押しのように、いつも一緒に行動していた友人達との仲違いが起こり、消炎剤を飲んでも常に胃酸がこみ上げてくる状態が続きました。
その間に何度か友人達と腹を割って話したつもりです。 「誤解だ。 話せば分かる。」と思ったからです。 ですが、話し合う機会を得れば得るほど、関係は悪化してゆきました。 後になって分かってきた事ですけれど、この言葉を訴える人は、例え話し合う機会を得たとしも、本当にその誤解を解き、分かり合えたケースなんて殆どないのです。 この言葉は人間関係を築く事が下手な者の「失敗宣言」なのかもしれません。
高校受験も終わり、卒業の準備をする頃になっても、友人達の態度は変わりませんでした。 登校が苦痛になり、神経性胃炎の通院日は午後を指定して、早退するようになりました。 放課後、友人達と顔を合わせたくなかったのです。 こんなこじれ方をした中学高校時代の人間関係は修復が難しいものです。 中学校時代の親友達とは卒業を境に、全くと言っていい程連絡がなくなりました。

2010年11月20日土曜日

他人を蹴落として (トラウマ)

「片金」と「受験失敗」にさらに追い打ちをかけるように、仲の良かった友人達からも嫌われてしまいました。 きっかけは1人の友人との会話でした。 内申書の成績が非常に悪かった私は、担任や両親と相談して私立高校も受験する事にしました。 入学試験当日にいくら良い点を取ったとしても、志望した都立高校の学校群に合格する可能性はまずないからです。 万一、私立高校受験での得点が低かった時のことを考えたからだと思います。 模試テストなどの結果から担任の先生が推薦した学校は私が志望した所より一ランク低かったのです。 全国模試テストの結果は右肩上がりに伸びていましたから、志望校をさらに一ランク上げようと考えていたのですが、同時に「滑り止め」の都立高校学校群のランクがかなり低かった為に、実際には「滑り止め」にもならず、思い切る勇気もありませんでした。 そうでなくても落ち込む事ばかりだったのに、併願によるリスクヘッジも取れないことが強いプレッシャーになったのです。 悩んだ挙げ句、担任の薦める高校に決めました。
私の通っていた中学は全国模試の学校平均点が学区の中で最下位グループに属していました。 その上、下町にあったので「滑り止め」の都立高校学校群も「本命」の私立高校も友人達の中では高い方でした。 しかも、学費の高い私立高校を「第一志望」とする者の数も少ない為、志望校を決める際はちょっと目立ち、友人達からかまわれました。
「第一志望に安牌な私立高校を選んでおいて、どうせ行きもしない都立高校を滑り止めに受けたら、お前が受験したせいで1人確実に不合格になるんだぞ」
友人の中にはこの都立高校学校群が第一志望の者が何人かいました。 ですが、受験前から半分受験を失敗している私にとっては「冗談」を言える問題ではなく、かなり真剣になっていました。
「受験なんて他人を蹴落としてでも自分がよい点数を取るものじゃないか。 合否ギリギリのラインを受験して自分より成績のよい者を非難するなら、受験校のランクを落とすべきだ。」

2010年11月19日金曜日

片金 (トラウマ)

退院当初は副睾丸炎が残っており、腫れも完全には引いていないので怖くて触れませんでしたが、右側の見かけの大きさは半分以下になってしまい、左右の玉は位置も大きさ「ちんば」もになってました。 炎症も治まった頃、恐る恐る触ってみると、陰嚢の中に「臓器の残骸」らしきものが残っていましたが、まるで「いかわた」のように軟らかくてはっきりした形はありません。 形を失ったものが陰嚢の中に残っているので大きさが小さくなって見えますが、もう「玉」ではないのです。 既に「臓器」としての形も機能も失っているはずですが、神経までは死んでいないようです。 生きている神経がむき出しになっているのでしょうか、そっと触れても場所や角度によって強い痛みを感じます。 座っているときに脚を組み替えたり、自転車を漕いでいるときに、右の睾丸の位置がちょっと動いただけでも場合によっては激痛が走るようになり、痛みを避ける為には日常生活の中で常に、右の睾丸を意識しなければならなくなったのです。
自宅療養も終わり、再登校の初日、これまでになかったほどクラスメートの視線を意識しました。 皆、私がお多福風邪が悪化して「金玉」が腫れたので入院したと知っているのです。 丁度思春期の、最も「性」を意識する年代にとって、「片金」になってしまった事は表現のしようがないほどショックな出来事ですが、自分でも思ったほどに「落ち込み」はしませんでした。 この時は未だ「実感」がなかったからだと思います。 「実感」が湧いてきたのは、後ろの席の女の子が、
「大丈夫なの?」
と声をかけて来たので、
「もう大丈夫だよ。 大丈夫だから退院してきたんだから。」よ答えると、
「え、でも~」
そう口にした後、「あ、いけない!」という顔をして会話をはぐらかしてそっぽを向き、席を立ってから他の女の子とひそひそ話を始めた時です。
「やっぱり、みんな、そういう風に思っているんだよな。」
そう思うと胸に突き刺されたような痛みが走り、やりきれない思いで一杯になりました。
この頃、よそのクラスに私が片思いだったS.S.さんがいました。 結構気が合っていて、会話はいつも弾んでいました。 いつもだったら私が暫く登校して来なかったのですから、一目散にやって来て暫く話し込むところなのでしょうけれど、その子も最初に何て声をかけていいか分からなかったんでしょう。 目が合うと、
「あ、出てきたんだ、今ちょっと手を離せないから、後でゆっくり話しようね。」
と言って、向こうに行ってしまいました。 その翌日も翌々日も、まるで避けられているかのように顔を合わせることはなく、普通に話しをしたのは1週間近く経ってからでした。 この2つの出来事は、いつまでも頭の片隅に残り、女性と話をする時にはいつも浮かんでくるようになり、次第に女性との会話が苦手になってゆきました。

2010年11月18日木曜日

犠牲 (トラウマ)

ですが、たった一度の喧嘩だけで兄弟が互いに「しかと」をする程の不仲になることは、普通ならありえないと思います。 「先祖からの因縁」を断ち切る為に、妹の代わりに因縁を受け継いだのだとU.S.さんに言われた時、口には出しませんでしたが「妹の代わりに『犠牲』になった」という思いが頭をよぎりました。 それはこんな事があったからです。
中学3年の2学期のことです。 妹が流行性耳下腺炎に罹りました。 中間試験を間近に控えていただけに、私はとても嫌な予感がしました。 もし感染して発症した時期が一致すれば試験を受けられません。 当時の都立高校入試は中学3年の2学期の内申書に5割、入試試験の結果に5割のウエイトを置き、内申書の合計点と入試試験結果を縦横に段階分けした「判定表」内の上位にいる者から募集定員までを「合格者」としていました。 内申書は中間テストと期末テストで9割方が決まってしまいます。 1点を争う入試に於いて、総合点の22.5%を失ったら不合格は決定的です。 どこか近くにアパートでも借りて妹の症状が落ち着くまで別居でもすれば良かったのですが、そうこうしているうちに妹は治り、私も別に発症しませんでした。 子供の頃、お多福風邪にかかった友達と遊んでいてもうつらなかったので、「あの時、発症しなかっただけで、一緒に遊んでいる間に抗体でもできたんだろう」なんて素人判断して油断していました。 その数日後、私は発熱しました。 病院での診断は「流行性耳下腺炎」でした。 やはり同じ家に住んでいたらば感染してしまうのでしょう。 ちょっと潜伏期が長かっただけだったのです。 最初はあまり深刻に考えていませんでしたが、次第に睾丸が腫れあがり、結局入院することになりました。 入院しても睾丸の腫れは治まるどころか悪化してゆき、トイレに行くにも一歩一歩確かめるようにゆっくり歩かないと響いて痛みました。 回診の際、腫れ上がった私の睾丸を見て「かわいそうに」という看護婦の言葉が逆に私をみじめにしました。 投薬の効果が余りなかったので、腰の辺りに半円形の「籠」を被せ、上から氷嚢を吊して患部を冷やしましたが、ちょっと動いただけでもずれてしまうので効果はありませんでした。 「このまま『無精子症』になっちゃって、結婚もできないんだろうな。」と、朧気ながらに考えていましたが、実感が湧きませんでした。 あるのは腫れた患部の痛みだけです。 タイミングの悪い事に、丁度中間試験と重なってしまい、私は内申書に最も大きな影響があるテストを受けることが出来ませんでした。 期末試験は狂ったように勉強した為、殆どの教科は学年でも10位以内に入る成績でしたし、いくつかの教科は学年最高でした。 担任の先生は「他の先生達も試験を受けられなかった事は考慮してくれるから心配するな」と言ってくれましたが、冬休み前に手渡された通知表は希望校『不合格』を通知する散々なものでした。

2010年11月17日水曜日

馬鹿にしないでよ (世代間伝播)

これが妹には面白くなかったようです。 教えてもふてくされて真面目にやろうとしません。 何をふてくされているのか聞くと、
「私は中学3年よ、小学校3年じゃないの、小学校3年の問題何かやりたくないわよ。」
と言い出すのです。 私は腹が立ってかなりきつく怒りました。 
「その小学校3年の問題すらまともに解けないで、どうやって中学校3年の問題を解くんだ。」
すると、
「だからちゃんと解いているじゃない。」
と言うのです。 さっき答え合わせをしたばかりの小学校5~6年生用のグラフの問題は、X軸Y軸の数字が相変わらず不等間隔に刻まれており、数字と棒グラフの位置や長さもトンチンカンで、「歪んだ空間」を通して見ているようなしろものなのです。 
「どれ一つ合ってないじゃないか。 これで「解いた」なんて胸を張っているから小学3年辺りからやり直さなくちゃならないんだぞ! おまえがちゃんと勉強しなきゃ、入る高校だってないじゃないか。 偏差値が一番下の学校だって今のままじゃ合格できないんだぞ、分かっているのか!」
「もう嫌よ、私の事馬鹿にして小学校の問題やらせるんだから。」
「自分の事分かっているのか! 今まで9年間、全然勉強せずにサボってきた結果じゃないか。 真面目にやってこなかった奴が、15歳になったからって自動的に中学校3年の問題を解けるようになる訳無いだろ! 小学校5~6年の問題集だって何一つ合ってないじゃないか!」
「いいわよ、自分で勉強するから。」
「解答集を見たって正解か不正解かも分からないような奴が、自分で勉強したら逆効果だぞ! 益々馬鹿になって、小学校1年の問題だって解けなくなるぞ! 馬鹿にされるのが嫌ならば、少しは真面目に勉強して見ろ。 努力してみろ。 1時間まともに机に向かって集中することもできないじゃないか。 ふざけるのもいい加減にないと終いにゃひっぱたくぞ! この馬鹿!」
「ひっぱたいてみなさいよ! あんたなんかに頭の悪い人間の気持ちなんて分からないのよ!」
私はこの時、余りに腹が立って、妹を叩いてしまいました。 母が直ぐに止めましたが、このことがあってから妹は私を避けるようになり、私も余りの馬鹿さ加減に相手にする気がなくなりました。 その後、私と母の仲が悪くなり、諍いがエスカレートしたときだけ、妹が母をかばって私を非難するために口を開くような関係になってしまいました。

2010年11月16日火曜日

妹の高校受験 (世代間伝播)

妹との仲が悪くなり、口を利かなくなったのは妹が高校生になり、私が働き出した頃で、母が私に対してヒステリックな干渉をするようになった時期とほぼ一致しています。 高校の受験勉強の事で一度、妹と激しい喧嘩をした事があり、それがきっかけになったようにも思います。
妹の学習理解度は、それは酷いものでした。 特に数学に関しては小学校3~4年レベルの問題すら満足に解けないのです。 グラフの問題が分からないというのでノートにグラフを描かせた時、余りにもデタラメなので事態の深刻さに気が付きました。 グラフの原点が「0」で、横軸の一番右が「10」であれば、「5」は当然「0」と「10」の中間地点なはずですが、そこに「5」を書き込めずに、「3」でも「8」でも、自分の思いつた数字を入れてしまうのです。 逆に「5」の位置がどこかと尋ねても、原点から「3分の1」の辺りだったり、「7」の直ぐそばだったりします。 びっくりして数字を打っていない物差しを読ませましたが、正解率は5割強といったところです。 「等間隔」 「目盛り」 「位取り」等の概念への理解が非常に曖昧で、「多分こんな感じ」で答えているのです。 ですから、指定通りの図形を描く事は「不可能」に近い状態でした。 国語でも穴埋め問題で助詞を入れさせると、「て、に、を、は」の使い方ですら満足な点を取れないのです。 全国模試での偏差値は確か30~35程度でしたから、公立高校受験は無理で、私立でも合格する可能性があるのは2~3校しかありませんでした。
当時の都立高校受験では、3年の2学期の内申書の成績が50%の比率を占め、残りの50%が入試試験でしたが、丁度2学期の中間試験の時に私が入院してしまい、期末試験の成績はかなり良かったにも拘わらず、平均すると散々な評価であったために私立高校しか受験できませんでした。 もし妹も私立高校に進学したら、学費がかなり高額になってしまい家計が火の車になってしまうので少し勉強を見てくれと両親に頼まれて面倒を見始めたのですが、見れば見るほど基本からやり直す必要性を感じました。 それはそうです。 小学校3~4年レベルの内容すら曖昧なので、中学生の問題になると「質問の意味」すら分からないのです。 当てずっぽうに答えている「択一問題」だけが得点源という余りにもどうしようもない学力に困り果て、取り敢えず小学3年生の問題集を買ってきて、一から復習する事にしました。 何を教えるにしても結局はこの辺りまで立ち戻ってやり直していたので、基本から固め直さないと結局は遠回りになってしまうと判断したのです。 時間的余裕もあまりないとは言え、確実なのはかけ算九九までという小学校低年の学力では高校受験などとてもおぼつきません。

2010年11月15日月曜日

しかと (世代間伝播)

互いに「無視」する関係というのは「喧嘩」をする関係以上にやっかいなのかもしれません。 「喧嘩」はどこかで相手と引き合っている訳ですし、相手の存在が何らかの形で「気になる」から起きる行為ですが、「無視」は相手の存在自体を「否定」する行為です。 子供のいじめの中で最も陰湿なものは「しかと」だそうですが、私と妹は互いに、この「しかと」を家庭内でしていたのです。
初めての受講で両親を対象に真我開発を始めた際、あまりに激しく母親を憎んでいたので「母との関係」ばかりに気を取られていました。 当時既に延べ5,000名に及ぶ真我開発を通じて人の心の奥深くを見つめてきたY.S.先生ですら、「これほど実の母親を憎んでいる人は滅多にいませんよ。」と驚くほどでしたら、やはり私はかなり「異常」なのだと思います。 そして、それ以上妹をも憎んでいる自分の「異常」さを、薄々は分かっていましたが、母との関係が改善されれば、祖母の同様に何とかなるだろうと簡単に考え過ぎていました。 しかしよく考えれば、母を「無視」することはありましたが、祖母を「無視」した事はありませんでしたし、そこまでする気にはなれません。 母に対しても「かわいそうだな、やり過ぎたかな」とその度に思いました。 ただ母は、落ち込んで塞ぎ込むぐらいにきつい方法を用いない限り、決して自分を振り返る事ができない性格でした。 同時に、そこまでやらなければ私の方が精神的に参ってしまいますから「正当防衛」のつもりで「しかと」しました。 でもそんな方法を妹に対しては「当たり前」にしていたのです。

2010年11月14日日曜日

今までとは全く違ったものになると思いますよ (世代間伝播)

確かに今まで身体に「のし掛かっていた」重苦しい気持ちが軽くなり、とても楽になりました。 ですが、こんな話をされても、私には全く確かめようのない話です。 確かめようのない夢か幻のようなU.S.さんの話より、突然からだが軽くなった事と、「眼底検査用の瞳孔を開く目薬」とまでは言いませんが異常と言えるほどに目の前が明るくなった事の方が気になってしかたありませんでしたので、何が起きたのか尋ねてみました。
「それは今まで憑いていたものが取れたからですよ。 あなたは今日まで、それだけ重いものを背負って生きてきたんです。 でももう大丈夫ですよ。 原因がなくなったのですから、あなたの人生はこれから少しずつ良くなってゆきますよ。」
言われた事は今一つ信じがたいことですが、身体が軽くなった事と目の前が明るくなったことは事実なので、妙に説得力がありました。 話している最中に身体の力が抜け始め、頭がポヤーッとして来て、風呂上がりにマッサージでも受けたような気分になり、この後の会話の記憶はかなり曖昧です。 帰り際にはっきり覚えているのは別れ際に、
「明日のセミナーは今までとは全く違ったものになると思いますよ。」
そういって私を励ましてくれました事ぐらいです。
その翌朝、セミナー会場に着いた頃には、私の意識は「受講モード」に入っていて、前日のオカルトめいた出来事などすっかり忘れていました。 U.S.さんが別れ際にくれた励ましの言葉とは裏腹に、前回のセミナーでの苦しさが霞んでしまう程、今回のセミナーは苦しいものでした。 妹への憎みは母と同等かそれ以上のものがありました。 確かに母以上に妹とは仲が悪かったです。 ですから母同様に苦労すると覚悟はしていましたが、まさかここまで恨んでいるとは思っていませんでした。 「ごめん」の一言への拒絶は母に対するものよりも遙かに強く、ゴミ出しの最初の段階から面喰らいました。 何で私は肉親ばかりをここまで激しく恨むのでしょう、自分の心の醜さに絶望的な気分になり、途方に暮れるスタートでした。

2010年11月13日土曜日

天に帰りました (世代間伝播)

U.S.さんは先ほどと同じように私の手を取り、再び私に目を閉じるようにと言いました。
私の思考パターンにはない突拍子もない話をされた為か、この時の私は「思考停止」に陥り、殆ど何も考えられない状態でした。 言われるままに目をつぶっている間、時間の感覚も消えていました。 1分ほど経った頃だったと思いますが、もっとずっと経過していたかも知れません。 突然身体が宙に浮いたのかと思うほど「フワッ」と軽くなりました。
「はい、目を開けてくださって結構ですよ。」
そういわれたので目を開けると、まるで別世界にいるように周りが明るくなって見えました。 「思考停止状態」から「私は誰?、ここは何処?」になった訳です。
「あなたのご先祖様は天に帰りました。 普通、ここまで現世に遺恨を残すと天に帰ることはまずできません。 又、天にはいくつもの階層があって、どの階層に帰るかは予め決められています。 ですが私の力でその階層より2段階上の階層に上がる事ができたので、私にとても感謝していましたよ。 そのときのご先祖様の姿は、さっきの掛軸の中の幽霊のようなおどろおどろしい姿ではなく、長い髪が女性らしくきれいにとかされている、とてもきれいな人でしたよ。 私の事を『女神様』なんて呼んで。 私は普通の人間だっていくら説明しても『私には分かります、あなたは女神様です。 本当にありがとうございます。』って何度も繰り返すんです。 『私へのお礼はもういいですから。 これまであなたは、あなたの子孫をずっと苦しめてしまったのですから、これからはその分彼を助けてあげて下さいね。 彼が気付かなかったら、あなたが私に会う事もできなかったのですよ。』って言うと、『はい、分かりました。 これからは彼をずっと助けてゆきます。 本当にありがとうございました。』って、ずっとお礼を言い続けて、いつまでも天に帰らないんですよ。 普通、天に帰れなかった人を帰してあげると、直ぐに帰ってゆくんですけれどね。 それだけ喜んで貰えたんでしょうね。 今まで随分多くの人を天に上げてあげたけれど、こんなに感謝しくれた人は初めてですよ。」
U.S.さんは私にそう伝えました。

2010年11月12日金曜日

必ず解決します (世代間伝播)

そう言われてみればいつからでしょう、高校の頃はさほど意識していた記憶はありませんから、多分働き始めてからだと思いますが、親戚との「思い出」が何となく「薄暗い」のです。 別に日当たりの悪い北向きの狭いボロアパートに住んでいたとか、性格が「陰気」だとかいう訳ではないのですが、どこかに表現のしようがない「影」が付きまとっているのです。 祖父と祖母は再婚同士で、直接「血」が繫がっていないとは言え、父方にも母方にも「共通」している事なのです。 「もしかしたら先祖の問題が絡んでいるというこの話は、案外本当かも知れないぞ」と思ったが最後、U.S.さんの言葉を一概には否定できないような気になってきました。 それに確かめようはありませんが、セミナーに参加してこの問題に気付いた時から、これは「母と祖母」の代より以前から続いて来たはずだと、確信に近いものを持っていただけに、その思いは尚更強くなります。 U.S.さんは続けてこう言いました。
「この問題は必ず解決します。 最後まで決して諦めないで下さい。」
この一言はこの数ヶ月、自分の理解を超えた訳の分からない世界に振り回され続けていた私にとってはとても力強い励ましで、言葉では言い尽くせないほどホッとするものがありました。 更に続けて、
「ですがこの問題は人間界の力だけで解決することはできません。 Y.S.先生は人間界では最も力を持った方ですけれど、直接霊と話したり天に上げる事は得意ではないようですね。 これから私があなたの先祖を天に帰します。」
もうここまで言われると、驚くとか、否定するとか、あれこれ考えたり、力一杯引くなどのリアクションが全く取れないものです。 ただ呆気に取られて「はい」としか答えようがありませんでした。 まるでコミカル系オカルト映画の主人公にでもなったような気分です。

2010年11月11日木曜日

先祖 (世代間伝播)

暫くすると彼女は
「分かりました」
と言い、私に目を開けさせ、それから話を始めました。 その話は私にとって、にわかには信じ難いものでした。
「あなたは今、5代前の先祖、あなたのお祖母さんのお祖母さんに取り憑かれていまする。 その方は非常に苦しんで亡くなりました。 恐らく婦人科系の病気だと思います。 昔の掛軸に描いてあるような白装束で足が消えていて、ボサボサの長い髪に青ざめて「恨めしい」顔をした恐ろしい姿が見えたとき、私も子宮の辺りがすごく痛くなりましたから。 その苦しさを訴えたくてその方は自分の娘に憑いたそうです。 その娘は若くして亡くなってしまいました。 その娘の子があなたのお祖母さんです。 自分の娘が早くに亡くなったので、あなたの先祖は次にお祖母さんに憑きました。 苦痛を訴えたかったの誰にも理解してもらえず、代を追うごとにその苦しみは増してゆき、「怨念」へと変化してしいました。 お祖母さんだってそんな事情は分かるはずがありませんからかなり苦しんだのですよ。 そしてご先祖様はお祖母さんが生きている間にお母さんに取り憑きました。 あなたとあなたのお母さんの仲が悪くなったのはそれからです。 そして本来であればこの問題は、お母さんから妹さんへと受け継がれるはずだったのですが、もしそうなると「女性の怨念」が5代に渡って続いてしまい、とても解決のできない根の深いものになってしまいます。 この因縁の鎖を断ち切るのは女性には無理なのは分かりますよね。 ここでこの因縁を断ち切ることがあなたの今世の使命なのです。 だからあなたが、妹さんの代わりにお母さんの怨念を受けることになったのです。 あなたは一族にとっては「救世主」なんですよ。 名誉な事だと思って下さい。 そうだとは思いませんか、誰でもできる事ではないのですよ。」
その言葉に私は、「こんな苦しい思いをする名誉なんて欲しくない、ただ普通に暮らしたいだけなのに。」そんな思いしか湧いてきませんでした。

2010年11月10日水曜日

つい (世代間伝播)

「では何があったのかを聞かせて下さい。」
と言われたので、これまでの経緯を話しました。 20歳頃から母との折り合いがとても悪くなり、ヒステリックに干渉してくる事。 母がそばに来るとまるで脳味噌をかき回されるような激しい混乱を起こし、気が狂いそうになる事。 次第にエスカレートするヒステリックさに「取り殺される」と感じて家を出たこと。 半年ちょっと前から次第に感情の余韻が無くなってきたこと。 友人が紹介してくれた知人と電話で連絡を取ると、「このままでは危険だ」と感じてY.G.塾を紹介されたこと。 そのセミナーを受講して、母を異常なまでに恨み憎んでいる事に初めて気付いた事。 知人にたまたま「世代間伝播」の問題解決に取り組んでいる人がいた事。 この問題を抱えた人達と症状は似ているが、幼少期に「虐待」などの「トラウマ」となる具体的な事はされていない事。 一緒に遊んでくれたはずの母の笑顔を思い出せない事。 母も自分の母、つまり私の祖母を非常に恨み憎んでいる事。 妹とも仲が悪い事などを一つ一つ説明しました。 レジに近い為、店員の視線がありましたが、堪えきれずに何度も泣きじゃくってしまい、説明にはとても時間がかかりました。 その間彼女はずっと黙って私の訴えに耳を傾けていました。
一通り私の話が終わると、U.S.さんは
「あなたの「取り殺される」という言葉がこの問題をそのまま象徴しています。」
と答えました。 私は慌てて
「つい口をついて出た言葉ですからちょっと表現が大げさだったかも知れません。」
と返答しましたが、
「『つい』出た言葉だからこそ、本音が表現されているのです。 そして、あなたの抱えている問題の根の深さを物語っているのですよ。」
と畳み込まれました。 それから彼女は掌を上に向けて机の上に置き、その掌の上に私の掌を被せさせ、私に目を閉じるように言いました。 「何だかどこかのうさん臭い占い師みたいだな。」そんな思いが頭をよぎりました。

2010年11月9日火曜日

駅前通りの喫茶店 (世代間伝播)

駅から1分ほど歩くと広い喫茶店があるので、入って道路側の席で待って下さいと言われました。 いつもなら喫茶店で人と待ち合わせれば、漫画を読みながら時間をやり過ごすのですが、さすがにこの日はそんな気にはなれませんでした。 早く到着した分がそのまま待ち時間になった訳で、ただ窓の外を眺めながらU.S.さんがやってくるのを首を長くして待ちました。
この喫茶店は大きな窓を使用しているのでとても明るい店でした。 出入口の正反対、店の奥にレジがあり、壁を背にした照明は奥に行くに従って暗くなっているために大きな店内は実際以上に奥行きを感じさせます。 約束の時間よりちょっと遅れてU.S.さんがやってきました。 席について辺りを見回してから奥の席に移ろうと言いました。 地下鉄とは言え一応駅前通りに面した店ですから、道路に面した席はちょっと落ち着かないなと私も思っていた所でした。 周りの席に人がいなくなったので多少は気持ちを落ち着けることができました。
「本当は自宅の方が落ち着いて話せるのだけれど、まだここに引っ越してきたばかりで部屋の片付けもろくにできていないので、申し訳ないけれどここで我慢して下さいね。」
とU.S.さんが話しを切り出しました。
「私の方こそ、予定がころころ変わって済みませんでした。 今日はたまたま仕事が早く終わったので会う事ができましたけれど、昨日はまさか今日こうして会えるとは思ってもいませんでした。 残念だけどセミナー受講の後になるなと思ってましたから。」
「あら、私は最初から今日会えると思っていましたよ。」
K.A.先生もY.S.先生もそうでしたが、何かが「見えている」人にとっては起きる事が「必然」なのでしょう、物事をさらっと受け入れます。 彼女の話し方に私がお世話になった2人の先生と共通のものを無意識に見い出したから、訳も分からず近付いて会って貰う約束を取り付けたのかも知れません。

2010年11月8日月曜日

不思議なほどに「会いたい」 (世代間伝播)

できる事なら直ぐに会いたかったのですが、翌日の仕事がかなり手間取り遅くなってしまったのでそれは叶いませんでした。 その翌日、つまり4回目の真我開発講座受講前日の仕事の予定は、私の家から現場へ向かう方角とU.S.さんの自宅へ向かう方角が全く反対方向で、しかも遠方だったために電話で理由を告げてセミナー受講後に改めて約束をすることにしました。 ですがこの時、私はU.S.さんに会って欲しくて仕方がありませんでした。 彼女がどんな人物で何をしているのか、会って何をするのかなど、何一つ知らないにも拘わらずです。 1度しか会った事のない人に何故これほど会って欲しいと思うのか自分でも不思議なほどでした。
翌日の仕事は現場に到着するなり「がっくり」とさせられました。 他業者の先行作業が終了したと聞いていたので行ったのに、実際には殆ど何も終わっていなかったのです。 予定した作業の3分の1もこなせず、午後には現場を引き上げざるを得ませんでした。 中途半端な時間だったので2時間以上かけて会社に戻っても直ぐに仕事終了の時間になってしまいます。 親方から電話で「今日はこれで上がっていいよ、ご苦労様でした。」と直帰を言われたので、慌ててU.S.さんと連絡を取り、夕方会って貰う事になりました。 待ち合わせをした駅は歩いて20分程で会社に到着する最寄りの駅でした。 駅までの中間時点にアパートがあるのでシャワーを浴びに寄りましたし、事故がないように気をつけてバイクを運転したにも拘わらず、予定した時間よりずっと早く到着しました。 殆ど信号に引っかからなかったのです。 いつもなら気持ちよく走ったでしょうし、不思議にも感じた事でしょうけれど、この時私の頭の中はU.S.さんと会う事で一杯だったので、そんな事に気付いたのは駅について電話をかけると「あら、随分早く着いたのね。」と言われたからでした。

2010年11月7日日曜日

U.S.さんと会う約束 (世代間伝播)

その女性はいつからか常に身体のどこかに、大抵は掌からだそうですが数片の「プラチナ粉」が出るようになったそうです。 その話を聞くとY.S.先生は、
「僕も出るよ。 この仕事をするって決めた頃は、掌から腕一面に隙間なく『ブワーッ』っと出た事もあったよ。」
「そんなに出たんですか ?」
「うん、そんな話をすると真我からずれちゃうし、ただでさえオカルトとか宗教と勘違いされるから普段は言わないけれど、本当はそういう不思議な経験は一杯あるよ。」
「神託」を受けたり、「聖人の生まれ変わり」だと自称する新興宗教の教祖の中にはこういった現象を「売り」にする者が多々いるようですが、以前JA研究所のK.A.先生からそのからくりをいくつか教えて頂いた事があったので、私はこういった話を全て「眉唾」と疑って聞く週間がついていました。 例えば殺陣役者が切られたときに血糊を吐く演出をする為に口に含む道具があるそうですが、G教団の先代教祖はこれに金粉を仕込み、クライマックスに達したときに信者の前で口角沫を飛ばしながら法話をすると、唾が金粉に代わり、「○○様は唾でも金の価値がある、ありがたや。」と信者を増やしたのだそうです。 その後継者である娘の著作物はSF作家を雇ったなどと言われてますが、その父の著作物も戦国武将「狸親父」の一生を描いた作家の「山O□八」をゴーストライターとして雇って書いたものなのだそうです。 K.A.先生は出版社に知人が多く、こういった裏話にも詳しい人でした。 ですがこの2人の会話からはどう聞いてもそういった嘘・まやかしは感じられませんでした。
「過去に何度か瞑想中に部屋のイメージが浮かんできたことがあったんです。 今日ここに来てびっくりしたんですよ、それがこの部屋なんです。」
「導かれたんだろうね、多分真我に目覚めなさいって言う事なんだろうと思うよ。 あなたの持っている不思議な力も、真我に目覚めたらもっと強くなるはずですよ。」
「そうですか、じゃあ、今はちょっと金銭的に厳しいですけれど、いずれそのうちお願いします。」
2人はかなり話し込んでいましたが、頭がボーッとしていたので覚えているのはこの程度です。 そして2人の話が終わると、私は無意識に彼女に近付き、気が付いたときには数日中に会ってもらう約束をしていました。 この女性はU.S.さんという名前でした。 

2010年11月6日土曜日

1人の女性 (世代間伝播)

セミナーが終了し、次のセミナーまでの日々は毎回苦しいものでした。 特に今回のように何ら方向性を見出せずに次の受講日まで過ごす時間は異常に長く感じます。 ただ救いは、Y.G.塾が頻繁に無料セミナーを開催してくれていたことです。 頭がボーッとしていますから話の内容など全くといっていいほど覚えておらず、ただY.S.先生の生の声を聞くだけですが、身体はかなり反応をしています。 いつも最初は胃に強い嘔吐感が現れ、「オエッ」っと何度も「空げろ」を繰り返します。 突然涙がこぼれて止まらなくなります。 感情も何かに揺り動かされているかのように不安に襲われ、恐怖感に怯え、悲しみに覆い尽くされ、罪悪感に苛まれ、無力感に打ちのめされてと激い変化を繰り返します。 それはセミナー中の反応とよく似ているように感じます。 Y.S.先生の声は真我を引き出すエネルギーがあるのだそうですから、こういった反応も「好転反応」や「ゴミ出し」と考えれば当然なのかも知れません。
今回参加した無料セミナーではそれらの反応が今までよりもずっと激しかったと思います。 Y.S.先生が講話中に私を例に挙げた事もあり、人目も憚らずに泣き出してしまう事が数回ありました。 それは確か4回目のセミナーを3日後に控えた6月下旬の事でした。
ここで私は不思議な女性に会いました。 その無料セミナーが終了した後、初参加した1人の女性が佐藤先生と会話しているのを少し離れた所からボーッと聞いていました。 何でもこれまでの人生で不思議な出来事がいくつもあり、いつしか何の説明を受けなくとも人の心の痛みを感じ取れるようになったそうです。又、Y.S.先生が私の話をしたときに、その女性は胃が指し込むように痛くなり、とても悲しくなったそうです。 その話を聞いたとき、私は自分でも「???」と思うほどその女性のことが気になり、2人の会話に耳を傾けました。 

2010年11月5日金曜日

時間切れ (世代間伝播)

ですが母に対して時間をかけ過ぎたせいで、今回は時間切れになってしまいました。 前回、前々回とも苦しく遅々とした前進でしたが何かしらの得るものがありました。 ですが今回はこれまでとは比べようもないほど辛くて苦しいセミナーだったにも関わらず、収穫らしいものは何もなく、ただ泣き疲れて終わってしまいました。 得られたものは回数も量も過去2回の受講とは比較にならない程流れ出た涙くらいのものです。 これまでのセミナーでも私は異常に目立つほど泣いていましたし、隣の席に座っていた人の顔も名前も覚えていないほど、「自分のこと」で精一杯でした。 そんな私が今までとは比較にならないくらいに激しく泣いた上に、隣のM.I.さんに引きずられて泣いていた為に、3~4人分は泣いていたはずです。 恐らくセミナー中泣いていない時間の方がずっと少なかっただろうと思います。
途方に暮れながら、以前友人に言われた言葉を思い出しました。
「お母さんとも妹さんとも仲悪いのね、女の人と上手に付き合うの苦手でしょ。」
その時は余り深く考えませんでしたけれど、この言葉は私の人間関係そのものでした。 「奥手」とかそう言う問題ではなく、最も身近な女性を心の奥底で恨み憎んでいたのです。 他の女性ともいい人間関係を築けないのも当然だったのです。
とにかく、原因がはっきり分からない以上、今できる事は心の中の「ゴミ」を吐き出してゆくしかないはずで、やることはこれまでと変わりありません。 どんなに苦しくとも、「気付いた者が取り組む」以外に解決の道はないのです。 疲れ切った重い足取りでトイレに入り、鏡を見つめると前回よりもほんの僅かですが目の濁りが取れていたことは、私が辿っている道程は決して間違ってはいないと告げているようで、今回の受講のたった一つの救いでした。
余談ですが、この時一緒に受講したT.T.さんは、2日目の朝食時にY.S.先生から「この間の無料セミナーでの『真我を人に伝える』話し方はとても上手だったね」と誉められていました。 そして後日、Y.S.先生から「うちに来ないか」と誘われたそうで、現在は代表を務めています。 

2010年11月4日木曜日

上滑り (世代間伝播)

妹の旦那はとても愛想の良い人ですが、私にはただ「調子がいい」だけで「信念」や「努力」といったものとは無縁の「根無し草」にしか感じられなかったてので、社交辞令の挨拶以上の会話をした事はありませんでした。 何度か旦那の家族と食事を一緒にしようと誘われた事もありましたが、毎回仕事の手が離せない忙しいときに、前もって誘われた訳ではなく、当日たまたま実家に顔を出したから「ついで」に声をかけられただけだったので「遠慮」していました。 そんな私の態度も仲の悪さを加速させた一因かも知れません。 とにかく私は妹の「家族」とも付き合いがないくらいに仲が悪いのです。
ですが考えてみれば、あれほど「嫌だな」と感じた祖母でもさほど苦労をせずにY.S.先生からOKを貰えたのですから、「産むよりも案ずるが易し」かも知れません。 とにかく今は一つ一つ虱潰しに原因を探って行くしかないのです。 自分にそう言い聞かせながら妹に取りかかりました。 便箋に書き殴った文字は、母に対してゴミ出しをした時と同様に文句から始まりました。 予想通り、ゴミが大量に出てきます。 それは母の時と同等か、それ以上でした。 ただ、母との違いは、母に対しては恨む原因になるような記憶がなかったのに対して、妹に対してはいくらでも文句を書く事ができる事です。 それは、母のように激しい恨みではなく、口喧嘩の台詞を便箋に書き付けているとような「上滑り」の感が否めません。 不思議な事に、この「上滑り」がとても「苦痛」に感じるのです。 母のように核心に近づくから苦しいのではなくて、ずれているから苦しいのです。 「何かが違う」そう感じながらも妹に対するゴミだけは出てきますから、作業をそのまま続けました。

2010年11月3日水曜日

次は妹さんでやってみましょう (世代間伝播)

「じゃあ、次は兄弟でやってみましょう。 弟さんと妹さんがいるんですね。どちらにしますか?」
そう言われたので先ずは弟でやりました。 父ほど簡単ではありませんでしたが、母のように苦労をせずに弟にもこれまでの非を詫び、そして愛を与えてくれた事に感謝する事が出来ました。 私が家業を継ぐと決心したのは20歳からですが、それから母との関係が急速に悪化し始め、それに伴い弟も私とは余り口を利かなくなりました。 ですが、子供の頃は仲がよく、楽しかった思い出が沢山あったことが良かったのだと思います。 久しぶりに童心に帰る事ができました。 こうやって両親から兄弟、そして身近な人に対して1人ずつ過去を詫び、そして感謝できるようになってゆくことで真我はさらに開いてゆくようです。
「では次は妹さんでやってみましょう。」
そうY.S.先生に言われたとき、祖母の時に感じた以上に「嫌だな」と思いました。 妹とは母親同様に仲が悪く、もう何年も口を利いてはいませんし、話すとしても、どうしても伝えなければならない最低限のものか、互いの非難を口にするだけですから、ある意味母以上に悪い関係なのかも知れません。 お互い視野に入っただけでも気分を害しますが、実害はないので無視をしていたのです。 妹が結婚をして家を出てから間もなく私も家を出た為に、顔を合わす事も精々年に1~2回あるかないかです。 

2010年11月2日火曜日

対照的 (世代間伝播)

隣の席のM.I.さんはやはりお父さんとの関係で苦しんでいたようです。 頻繁に独特の高い声を上げて泣きながら作業を続けていました。 セミナーのプログラムもかなり進んだ頃突然、「やった~ !!」と周りが何事かと思うほど大きな歓声を上げました。 「お父さん、ありがと~う!」と言う声が続いたので、前回以上の深いレベルで父親の愛を感じたのだろうと容易に想像がつきました。 その後は書けば書いただけ父の愛に触れ、以前のような張りのある声に変わっていきます。 Y.S.先生に見ていただく為に席を立つすれ違いざまに見えた彼女の表情は、初めて見たとき以上の輝きを放っていました。 そしてその姿に憧れて受講した私は、せっかく母と和解できたにも拘わらず、多少気持ちが楽になった以外の大きな変化は得られず、底辺をさ迷い続けているのです。 セミナー受講前にM.I.さんと話をしたときに感じた事がそのまま実現してしまったのです。
母を恨み憎む事が自分の心を苦しめている事が分かり、必死になって負の感情を取り払ってきたにも拘わらず、苦しみは相変わらず続いているという事は、母以外にも何か原因があるに違いないのですが、それが何であるのか分かりません。 ですが、母の時と同様に醜い負の感情が引き起こしている事は間違いないと思います。 自分を掘り下げても掘り下げても何も得られず、辛さや苦しさからも解放されずに、答どころかヒントすら見つかりません。 考えれば考えるほど、自分自身が嫌になりましたが、為す術もありません。 ただただ、「人間本来の感情を取り戻したい」 「普通の生活が送れるようになりたい」と、祈るような気持で作業に取り組み続けました。

2010年11月1日月曜日

では、お祖母さんです (世代間伝播)

「もうお母さんはいいでしょう、今度はお母さんのお母さんでやってみましょう。 あなたのお祖母さんです。」 
Y.S.先生にそう言われたとき、取り敢えず母親に対して「OK !」 をもらえた事は嬉しかったのですが、それ以上に「嫌だな」と感じたのが正直な所です。 祖母に対しては元々あまり印象が良くない上、セミナーを受けてからというものずっと苦しんだ母との関係の「元凶」な訳で、母以上に苦労しそうな気がしたのです。 実際その感覚通りで、最初から「ゴミ」がこれでもかと出てきました。 それは自分でも「うわ~先が思いやられるな。」と思うほどでした。 母の時と変わらないかもしれません。
ですが一通りゴミが出たのでしょうか、自然と気持ちに変化が表れてきました。 夏休みと正月以外は滅多に会う機会がなく、一緒に過ごす時間が少なかったせいでしょうか、母のように「恨む」「憎む」レベルにまでは至らなかったようです。 表面のゴミは多めだったかも知れませんが、ゴミを出せども出せども「恨み辛み」が増す事はあっても減る事がない母のような状態にはならなかったのです。  母や叔母に辛く当たったとはいえ、旦那に先立たれ女手一つで戦後の混乱期を生き抜いて行かなければならなかった祖母の心中には毎日かなりのプレッシャーがあったはずです。 もしかしたら、祖母も曾祖母から似たような経験をさせられたのかも知れません。 祖母だって母親の優しい愛を知らずに育ったとしたら、自分の子供に対する愛情表現は自然と自分の経験を通じたものになってしまうはずだと考えると、哀れに感じてきたのです。
それから祖母に感謝できるまでにはさほど時間がかかりませんでした。