2011年2月28日月曜日

非常識 (トラウマ)

「ご免ね、今度からそうするから。」
と答え、ファミレスを出て、彼女をアパートまで送りました。 帰りの車の中、頭の中は 「嫌われた。」 という思いで一杯になり、その日は帰宅しても眠れませんでした。 目が覚めてもK.O.ちゃんの言葉が頭から離れず、ふと気が付けば落ち込んでいます。 ただ、不幸中の幸い、仕事だけはいつもと同じようにこなせました。 身体で覚えたものですから、多少上の空で仕事をしていても、我に帰った時にはやるべき事は終わっています。 この数年後には、発熱して頭がフラフラした状態で仕事をしなければならない事が何度かありました。 翌朝、体調は回復しても、前日何をしたのか殆ど覚えていないので、屋根に登って仕事を確認すると、全てきちんと終わっているのです。 多分、この頃既に、そんなレベルにはなっていたのに、まだ自分で気付いていなかっただけなのだと思います。 ただ、そんな状態で仕事をしていると、仕事の終了と共に身体も動かなくなってしまいます。 JA研究所へトレーニングに行っても、身体はぐったりしているし、頭は上の空の「廃人」状態でした。
「どうしたの?」
とトレーナーに聞かれても、
「疲れた。」
としか答えられませんでした。 身体の疲れなら休めば回復しますから、仕事がきつくて疲れたのではありません。 「生きることに疲れた」のです。 全てが灰色に見え、何もしたくないのです。 でも、いくら横になっても眠れません。 
そんな状態が1週間以上続きました。 ある日トレーナーが、
「そう言えば、K.O.ちゃんと連絡取ってる?」
と尋ねました。
「もう、来ないでくれって・・・」
「え、いつ?」
「先々週の日曜日。」
「じゃあ、先週ずっと元気がなかったの、そのせいだったの?」
「いえ、そうじゃなくて体調が良くないんです。」
そのせいで気が滅入っているのは分かっていましたが、何故かそれを認めたくありませんでした。 そして、何もしたくないのでそのまま横になったままボーッとしていました。
それからどれ位経ったでしょうか? 1〜2週間程度だったと記憶していますが、この頃の記憶はとても曖昧です。 突然K.A.先生が、
「おい、お前、いきなりK.O.ちゃんのアパートに押しかけて行ったんだってな! そんなことすれば、『来ないで』って言われるのは当たり前だろう! 本当にお前って奴は、女性の事が何にも分かっていないんだな! どうやって住所調べたんだ?」
「○○先生に頼んで、名簿の住所を教えて貰ったんです。」
「おい、○○! 奴に教えたのか!?」
「はい、手紙出すのかと思ったんです。 だって普通、いきなり女の子のアパートに行ったりしないじゃないですか! 非常識よ!
「最初、手紙出そうと思ったんですけれど、何を書いていいのか分からないから、逢った方が早いんじゃないかなと思って・・・」
「確かに非常識だ! お前は女の事だと、やることなすこと、みんな滅茶苦茶だな。 少し、自分の行動を振り返る必要があるな。 まあ、それだけ夢中なんだろう。 何とかしてやるから、少しは元気出せ! ゴロゴロ横になってばかりいないで、身体を動かせ。 動かしているうちに気持ちも変わってくるから、いいな!」
そう発破をかけられました。


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2011年2月27日日曜日

シースルー (トラウマ)

 K.O.ちゃんの話が途切れると、沈黙が訪れます。 「女性にとって、私のように緊張して自分から何も喋れない、女慣れしていないような男は、一緒にいても面白くないだろうな。」 そんな思いが頭をよぎると、この沈黙がとても重く感じ、何とかしよう、何か話をしよう、と焦るから、ますますぎこちなくなってしまいます。 そうなると、自分の視線はK.O.ちゃんの目を見詰めていればいいのか、少しだけずらした方がいいのか、他を眺めていた方がいいのかなんて、余計な事ばかりが考えてしまい、更にぎこちなくなってしまいますから 「完全な悪循環」 です。 ですが彼女はどちらかと言えばマイペースで余り周りを気にしない方らしく、暫く沈黙が続くと、また彼女の方から話を始めます。 その度に私はホッとさせられました。
 学生らしいアルバイトの話になりました。 実家に負担は掛けたくないけれど、最低限の仕送りだけでは友達との付き合いもサークル活動もろくにできないし、そうかと言ってアルバイトを始めれば、肝腎な美術の勉強が出来なくなるので、どうしても時給の高いアルバイトをやりたい訳です。 美術系の学校ですから、「絵のモデル」になるバイトがよくあるそうです。 ちょっとでも動くと怒られるので、結構きついのだそうです。 そして、着る服によって時給にはかなりの差があるそうです。
 「45分間絶対に動いちゃいけなくて、10分間だけ休んで、又45分間動けないんですよ。 何にもしちゃいけないって、逆に大変なんです。」
 「だろうね。 座禅組んでいるならまだしも、ポーズ取っているしね。」
 「それに、上も下も下着付けないで、薄いシースルーを1枚羽織ってるだけで、大勢に見られているから、とっても恥ずかしいし・・・。」
 「え、下着、付けないの?」
 「そう、下もなのよ。 下着付けると値段がうんと下がっちゃうのに、動けない事は一緒だから、同じきついなら時給が高い方がいいでしょ。」
 「じゃあ、殆ど裸と一緒?」
 「すごく薄い生地を羽織っているけれど、透けて見えちゃうから裸みたいなものです。」
 「へ〜、何処でやっているの?」
 「駄目、絶対教えない! だって教えると、住所調べて来ちゃいそうで怖いから。」
 「う〜ん、仕事が休みで、場所知っていれば行っちゃうかもな。 K.O.ちゃんのシースルーだったら、仕事なんか休んでも構わないな。」
 「でしょ〜!。 だから、絶対に、教えな〜い。」
 こんな事だけは自分から尋ねるのですから、女性から見たら私は 「スケベ」 なんでしょう。 ですが、そんな話を聞けば、嫌でも彼女がシースルー1枚だけを羽織って、大勢の前でじっとしている姿が浮かんできます。 目の前の彼女と、その裸同然の姿は嫌が応にも重なってしまいますし、1度でいいから生で見てみたいとも思います。 よく友人から、こういう話をすると「おまえは露骨に目つきが『いやらしく』なる」と言われた事を思い出したので、慌てて話題を変えましたが、多分間に合わず、心を「見透かされた」だろうと思います。
この話題になる前は「上がって」いました。 そしてこの話題の後はシースルー姿が頭から離れずに「上の空」でした。 だからこの話題以外は何を話したのか全く覚えていません。 ただ、なんとなく「幸せだな」と感じていた事だけは覚えています。


 話し込んでしまったのでかなり遅くなってしまい、どちらからともなく、もう帰ろうという事になりました。 「もう少し、自然に話せるようにしないと駄目だな。」と思いながら席を立とうとすると、K.O.ちゃんが言いました。


 「あっ、それと、これからは、直接、アパートには、来ないで貰えますか。」


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2011年2月26日土曜日

待ち伏せ (トラウマ)

 1週間毎日会えたにも拘わらず、距離を縮められなかった私にK.A.先生は呆れ果てていました。 自分でも情けないなとは思いますが、相手の話す事に答えるだけで精一杯で、それ以上の事は何をどうしたらよいのか全く分からなくなってしまうのですからどうしようもありません。 「インポテンツ」に悩まされた時も、1度焦ると焦りが焦りを生み、自分で自分をコントロールできなくなっていましたが、構造的には同じようなものだと思います。 折角「インポテンツ」を克服出来たし、仕事に関しても徐々に成長してきたのに、「女性コンプレックス」は以前のまま何も変わっていなかったのです。 K.O.ちゃんと1週間連続して会う事が出来た後、又以前のように会えなくなると、逢っても何も話せない癖に逢いたくて仕方なくなりましたが、彼女のアパートには電話がないそうなので連絡の取りようもありませんでした。 私はトレーナーに頼み込んでこっそり住所を教えて貰い、日曜日に仕事が終わると地図を頼りにアパートを探しに行きました。 表札や住所表示が余りない、閑静な住宅街の中にそれらしいアパートが数軒ありましたが、全部「留守」のようだったので、最も可能性の高そうなアパートの前で車を停めて、K.O.ちゃんの帰りを待ちました。 ですが彼女が口にしていた終バスの時間が近づいても戻ってくる気配はありません。 アパートが違うか、友人の家に泊まっているのかもしれないなから、今日は諦めて帰ろうと思っているうちに、うとうとししてきて眠ってしまいました。
ハッとして目が覚めたのは外階段を上る音が聞こえたからです。 音のする方に目を向けると、K.O.ちゃんが外階段を登っている所でした。 クラクションを鳴らしても関係ないと思ったのか、そのまま登り続けて2階に到着してしまいました。 もう一度クラクションを鳴らしながら車の窓を開けて顔を出すと、やっと気付いてくれたようで、こちらを見て驚いた顔をしています。 私が車から出ると、彼女も階段を降りてきたので、近所のファミレスでお茶でもしようと誘いました。
何度か遊びに来ている友達でも道に迷う事がある位変化のない町並みなので、住所だけで辿り着いた事にとても驚いていました。 私だって散々あちこちとグルグル回って、やっとそれらしいアパートを見つけただけで、逢いたくなければとっくに諦めて帰っています。
逢いたくて仕方がないからやって来てた、なんとかファミレスに誘えたのに、そこでまた何を話していいのか分からなくなり、今回も相変わらずの聞き役です。 来る迄に、話のネタを考えてはいたのですが、大部分は頭から飛んでいますし、いくつか覚えているものでもどう切り出すかのタイミングが掴めないのです。


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2011年2月25日金曜日

バイク事故 1 (タイの日常生活)

 2月24日の朝、寮から会社に向かう途中、珍しく渋滞していました。 こんな時は先ず間違いなく事故で、今日はバイクがタンクローリーの後部に衝突したようです。 バイクの運転手は虫の息、周りは野次馬が集まり、私設救急隊(クーパイ)が到着していました。

 救急車は病院が所有していますから、病院を出発して現場で患者を収容し、又病院に戻らなければなりません。 最寄りの病院が遠く離れている場所で事故を起こしてしまえば、間に合わない可能性は充分にあります。

 そんな時、この私設救急隊(クーパイ)の登場です。 彼らはボランティアでやっているそうです。
ただ、「頼りになる」強い味方かと言えばそれはそれで、色々な問題があります。 その辺はいずれ機会があればお話ししようかと思います。

 車の列はノロノロと前に進んでゆき、事故現場の横を通り過ぎました。 事故現場を見て私は 「?????」 と疑問を感じました。





 事故現場の道路は双方通行で片側1車線です。 街道側からタンクローリーがやって来て、街道に向かってバイクがやって来たと思われます。





 事故現場は、駐車場に入りかけているタンクローリーの後部にバイクが衝突しているのです。 反対の道路側にある駐車場に向かって、タンクローリーが急に右折したのなら、出会い頭の衝突になるはずです。 所がバイクはタンクローリーの後部に衝突しているのです。 もしバイクが前を見て走っていたなら、少なくとも中央車線から駐車場内に移動するだけの時間がかかっていますから、目の前を横切るように右折したタンクローリーを見てからバイクの速度を弛めるまでの時間は充分にあったはずです。
バイクが前方からかなりのスピードで向かってきているにも拘わらず、未だ距離がかなりあるからとスピードを読み誤ったタンクローリーの運転手が右折し、バイクの運転手も前方のタンクローリーが右折した事に気が付かずにボーッとしていたのでしょうか?





 それとも、駐車場からバックで出てきたタンクロールが、後方不注意でバイクに気付かなかったのでしょうか? 駐車場周辺は見晴らしが良いので、バイクが気付かないということは考えづらいです。 駐車場は朝なので駐車してある車もありませんし、タンクローリーがぐるっと一回り出来るほど広いのですから、わざわざバックして出て行くとは考えづらいのです。


一つはっきり言える事は、バイクもタンクローリーも、
双方とも相当「不注意」だったのは「先ず間違いない」と言う事です。

もっと困った事に、こんな事故、別に珍しくはないのです。

2011年2月24日木曜日

分離帯 (タイの日常生活)



 私が住んでいるのは、タイのある地方都市にある工業団地です。 近くには高速道路入口があります。
登り方面を 陸橋の上で撮影しました。 道路左側が高速登り口、右側が一般道です(日本と同じで車は左側通行、右ハンドル)。 






 反対側、下り方面です。 日本と比べると、高速道路入口の割に、分離帯の長さも幅も充分とは言えません。






 分離帯の手前側に、赤いポールが3本あるのが分かるでしょうか? 真ん中のはちゃんと立っていましたが、右側のは傾いていました。 左は完全に倒れていました。 ちゃちなプラスチックのポールを、アスファルトの道路に直接アンカー止めしているんですから、壊れるのは当たり前です。




 この分離帯に路線バスが停まりました。 ツーマンバスのドアが開いています。 この直後に車掌が出てきて陸橋の上にいる私に向かって大声で、「乗るのか?」と尋ねてきました。
この分離帯は、地元の人もバス会社の人も、「バス停」として利用しています。 時間に追われたバスが分離帯に乗り込むのですから、ちゃちなポールなど目に入りません。 設置後数日で壊されてしまっても何の不思議もありません。



 今度はワゴンバスです。 ひっきりなしに車が停車しているので、分離帯は何度塗り直しても、タイヤの跡で直ぐに色が薄くなってしまいます。
日曜日に撮影したので交通量は少ないですが、普段はかなりの量です。 その切れ目を縫って分離帯まで走ってゆかないと、バスの昇降は出来ません。






「危ないじゃないか。」




日本人ならそう思うでしょう。




いつも危険と隣り合わせの、とっても 「スリリング」 なタイの交通事情の一コマです。





2011年2月23日水曜日

きっかけ (トラウマ)

こんなやり取りがあってから間もなく、K.O.ちゃんはまたJA研究所に来ました。 よく来ている化粧品販売グループの中では最も若かった事もあり、リーダーからも可愛がられていたようです。 このリーダーはちょっとヒステリックで自分勝手な所がある女性でしたが、面倒見がいいのか口が上手いのか、部下からは慕われているようでした。 このグループの人間に言わせると「人望」があるからなのだそうですが、端で見ている人達の中で、それに心から相づちを打つ人はいなかったように思います。
JA研究所の料金体系はちょっと変わっていました。 基本料金は年々上がっていました。 この基本料金というのは、初めてトレーニングを受ける人の1ヶ月分の料金です。 25日にトレーニングを始めたら、翌月の24日までのトレーニング期間に、朝10時から夜10時まで都合のよい時間にトレーニングを受ければよいのです。 私が初めてトレーニングを受けたとき、13万円だった基本料金はこの時28万円まで値上がりしていました。 需要があっても、供給が間に合わないので、敷居を高くする事で客の数を制限しているのです。 ただ、常連は旧料金のままだったりもして、そこいら辺はK.A.先生が判断します。 この当時、私は確か18万円だったと記憶していますから、精一杯の「先行投資」だった訳で、投資が「回収」でき始めたのもこの頃です。
K.A.先生はよく、「『酒、女、麻雀』を覚えて、何の役にも立たない『卒業証書』を貰うだけで何千万も大学に払ったり、治りもしない『名医』の治療を何年も受け続けて、何百万、何千万も払う事を考えれば、うちはちっとも高くない。」と言っていました。 ですから、JA研究所のトレーニングを受けようと思う人は、その価値観を受け入れられた人だけだと思います。 
基本料金は28万円でしたが、どうしても払えない人や、地方から短期でしか来られない人の為に1週間コースなどもありました。 余り利用者はいませんでしたが、10万円以上していました。 私が10万円分を負担し、K.O.ちゃんが残りを自分で負担して、その1週間コースに通う事でいいかとK.A.先生が尋ねてきたので、二つ返事でOKしました。 とにかく、何でもいいから「きっかけ」を作らない事にはどうにもなりませんし、中途半端なプレゼントよりは「一生役立つ」プレゼントの方が喜ばれるはずです。 自分の体験からも自信を持って役立つ事を保証できます。
仕事を終え、夕食も採らずに急いでJA研究所に行っても、終バスに間に合わなくなるのでK.O.ちゃんはトレーニング終了時間間際です。 トレーニング中もろくに話は出来ませんでしたから、駅まで送る時間だけが、唯一まともに話をする事が出来る時間でした。 最初、K.O.ちゃんはとても済まなそうにしていました。 ろくに話をした事もない男から、いきなり10万円もするプレゼントを貰えば、当然かも知れません。 ですが、当時のバブル経済日本を席巻していた「ルイ・ビトンのバック」や「カルチェのリング」などに比べれば、遙かに価値のあるものだと思っていましたし、5万円の豪華で役に立たないプレゼントよりは、10万円だろうが20万円だろうが、役立つものを人に贈るべきだ常に思ってから、その事だけは伝えました。 この点は彼女もそう考えていたようで、話が合いました。 ですが他の事は、一緒に食事をしたときと同じで、彼女が一方的に話を振ってきて、私はただそれに答えるだけでした。 そして駅で別れた直後でも何を話したのか、殆ど思い出せないほど毎回「上がって」いました。 せっかく作った「きっかけ」を殆ど生かせないまま、あっという間に1週間が過ぎてしまいました。
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2011年2月22日火曜日

この胸の苦しみ (トラウマ)

そう言われてJA研究所から車で10分もかからない店で食事をしました。 K.A.先生は簡単に言いましたが、私にとっては「試練」でした。 言われた通りにこれまでの事を思い浮かべようとしたのですが、時系列に狂いが生じているのです。 前後関係が混乱してしまい、話がうまく組み立てられません。 まるで悪戯した事がばれた子供が、慌てて言い訳をすればするほど辻褄が合わなくなり、しどろもどろになっているみたいです。 それでも、JA研究所のトレーニングを受けたり、講演会に出席した際、たまにK.A.先生が私を例に挙げて話をした事があったたでしょうか、彼女の方で私の事を多少は知っており、口が重い私の代わりにあれこれと尋ねてきました。 私にとってはまさに「渡りに舟」でした。 たどたどしかったけれど気まずい「沈黙」が続くような事はなかったのです。 聞かれた事に答えているうちに食事が終わり、コーヒーも飲み終え、気が付くと結構な時間になりました。 アパートは立川駅からかなり離れており、終バスギリギリの時間が近づいたので近くの駅まで送り、まだ時間的に余裕があるのでもう一度JA研究所に戻る事にしました。 この時、何となく胸に圧迫感を覚え、息苦しくなりました。
JA研究所に戻った時には、この圧迫感は更に強くなり、立っている事が辛いので、横になりました。 夜11時頃までやっていましたから、まだ数名トレーニングを受けており、忙しい状態でした。 いつまでも胸の苦しさが治まらないので、トレーナーの1人に尋ねました。
「さっきから胸の圧迫感で息苦しいんです。 胸の周りを弛めて貰えますか?
「あら、そんなに具合が悪いの? 折角、K.O.ちゃんとデートしてきたのに。 緊張しすぎたんじゃないの?」
トレーナーは笑いながら胸の周りを弛めてくれました。 私は気管支が弱く、ちょっと風邪をひくとするに気管支炎にまで発展してしまいました。 そんなときは胸の周りの筋肉をほぐす事で、咳はかなり落ち着きます。 特に腋の下から乳首に向かう太い筋と、脊柱の隣を平行に走る太い筋の肩胛骨下端を結ぶ高さの2箇所が堅くなっていると咳が激しくなります。 この日の症状はそれと似ていました。
「おい、どうしたんだ?」
K.A.先生がトレーニングルームに入ってきて、私を見るなり言いました。
「何だか、胸が苦しいんですって。」
と、トレーナーが答えました。
「緊張のしすぎだよ。 呆れた奴だな。 で、どうだったんだ? ちゃんと話せたか?」
「向こうから色々聞いてきたから、それに答えてたら結構時間経っちゃってて・・・ 駅に送っていきました。」
「何聞いてきたんだ? K.O.ちゃんは。」
「えっ?・・・ あまりよく覚えていません。 何話したか。」
「何だ、頭の中が一杯で、何も覚えていないのか? で、次は?」
「次って?」
「次のデートの約束だよ。 ちゃんと取り付けておいたんだろうな。 まさか、駅まで送って『さようなら』で別れてきたのか?」
「あっ、そういうものなんですか・・・」
「そういうものなんですかじゃないよ! 全く、いい歳こいて! 明日にでも電話掛けて、次のデートの約束取り付けておけ!」
「電話番号、知らないんですけれど・・・」
「あ〜ッ! 電話番号も聞かなかったのか? 本当に、1つ1つ世話の焼ける奴だな! おい、少し投資する気はないか?」
「え、何にいくらくらいですか?」
「K.O.ちゃんにトレーニング代出してやるんだよ。 学生だから金がなくて、前も1週間コースしか受けられなかっただろう。 それでも又トレーニングを受けたくて、ちょくちょく顔を出しているんだ。 今のところうちだけだろ? 2人の接点は。」
「別にそんなのは構いませんけれど・・・」
「じゃあ、又今度来たときに、俺が話を付けてやるから、ちょっと待ってろ。」
私は何となくホッとしました。
「それよりどうだ、さっきの胸の苦しみは?」
「えっ? あっ、治まっています。」
「当たり前だ、別に具合が悪くなった訳じゃなくて、慣れない緊張をしただけだ。 何とかなりそうだって安心したから、治ったんだ。」


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2011年2月21日月曜日

一皮も二皮も剥けました (トラウマ)

雑菌感染である事が分かり、一先ずホッとしたものの、ヒリヒリとした痛みは暫く続きました。 おしっこをした後、洗う前に手を見ると、ゴミが付いています。 「何だろう?」と思ってよく見ると、それは「日焼けで剥けた皮」のようでした。 消毒薬で焼けてしまった皮膚が、ついに剥け始めてきたのです。 びっくりして今度は「大」に入り、ズボンとパンツを下ろしてよく見ると、所々の皮が剥けているので「まだら」になっています。 とても「見られた」ものではありません。 排泄処理を控えているので大きくなったり、落ち着いて小さくなったりをいつもより頻繁に繰り返すので、先端に近い方が剥がれるのは早いようです。 袋も伸びたり縮んだりはしますが、中に入っている「玉」の重さで垂れ下がっているだけで余り無理な力がかからない分、皮が剥がれて来るのは遅いようです。 ですが、焼けてしまった皮膚には柔軟性がない為に、縮こまっているいるときの「皺」の目がいつものように細かくなく、「粗目」のまま縮こまっているので、梅干しのように見えました。 最も敏感な先端部は「粘膜」ですから、他の部分に比べて回復がとても遅く、やっと赤黒さが落ち着き始めたとはいえ、傷口に塩でも塗られたような「染みる痛み」が常にありました。 何を塗ったかまではよく覚えていませんが、メンソレータムは刺激が強すぎて使えなかった事だけは覚えています。
数日後には亀頭部も皮が剥がれましたが、剥がれるというよりは細かい「垢」のような感じで取れてゆきました。 やっと新しい顔が現れた時、包皮がむけて「大人になった」と感じた頃の事を思い出して、1人感慨に浸りました。
そんな痛みが治まった頃、たまたまK.O.ちゃんがJA研究所に遊びに来て、K.A.先生と話をしていました。 彼女は美術系短期大学生で、目がクリッとして、笑顔が地顔なのかと思うほど笑顔を絶やさない可愛い子でした。 人と話していても、関心がない事に対してはそっぽを向いていますが、関心を持つと目を輝かせ身を乗り出して話をしてきます。 そのギャップが余りにも大きいので端から見ると「ちょっと変わっている」と映るようですが、私にはただ単に「好奇心旺盛」だと映っていました。 私もその傾向があるので、「変わっている」とは思わなかったのかも知れません。
K.A.先生から、
「おい、K.O.ちゃんに話を付けてやったから、一緒に食事でもして来い!」
突然そう言われ、嬉しい以上に戸惑ってしまいました。
「え、いきなりですか?」
「いきなりって、何もホテルに行く訳じゃないだろう! なにをびびっているんだ?」
「いえ、そうじゃなくて、何を話していいのか全然分からないんです。」
「呆れた奴だな、よく考えてみろ、お前があの子位の歳だったとき、うちに来たんだろ? その後何をしたからここまでできるようになったんだ? 食べ物を変えて、身体を作り変えながら、仕事を覚えたんだろう? 最初に自分の親父から基本を習ったけれど、その間に自分で伝統工芸的な技術も勉強して、訓練校の卒業制作は全国で1番になったんだし、P.S.さんのような腕のいい職人にも見込まれた。 そこでの仕事をある程度覚えたから、今度は人を使って大きな仕事を出来るようになろうとしている。 その間に収入だってかなり上がっただろう? Y.U.さんの所で働けば、日給3万円になるんだろう? K.O.ちゃんも美大系なんだから、お前の経験は参考になるはずだ。 絵だって好きで何枚も買っているんだから、話題なんていくらでもあるだろう? くだらない事考えてないで、さっさと行ってこい。 女性をあんまり待たせるな。」


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2011年2月20日日曜日

誰もいない海〜♪ (タイの日常生活)

 18日の万仏節の夜は、読経し、蝋燭を持って仏像のを3周しましたが、それまでの時間が手持ち無沙汰だったので、仲間とお寺からそう遠くない海岸に遊びに行きました。 今年の冬は例年になく寒いと感じましたが、それも明け方だけで、日中は海水浴するのに充分なほど気温も上がります。 ですが、この日は「暑い」と感じるまで気温が上がらず、海に入るのをちょっと躊躇ってしまいました。 海水に入って遊んだのは子供達だけでした。
私は年甲斐もなく砂を掘り、山を作りましたが、たった2時間ちょっと動いただけなのに、翌日は全く動く気になりませんでしたし、今日も身体中が痛くて仕方ありません。 おまけに指先の皮が薄くなっており、パソコンの入力が満足に行えません。「歳を取ったな〜」と痛感します。

タイは国土の広さの割に海岸線が少ないので、日本ほど海に遊びに行く機会がありません。 それに、海に行っても寂しいのです。 1年中海水浴できる環境なのに、海岸には「水着姿」の若い女性が全然いないのです。 そんな格好をしているのは「外国人観光客」だけです。
誰に尋ねても、「恥ずかしくて、あんな格好出来る訳ないじゃない! 西洋人や日本人じゃないんだからね、私達は!」と返事が返ってきます。水着(ほぼ間違いなくワンピースです)を買っても、その上から短パン履いて、Tシャツを着ていますから『全く無意味』です。 折角Tシャツが濡れたのに、透けて見えるのは黒いワンピースの水着ですから風情が有りません。

私が初めてタイに遊びに来たのは約20年前。 その10年ほど前から急速な工業化が進み、欧米や日本、最近では韓国などの文化もかなり入っていますが、何故かこの辺の文化は取り入れようとしません。 海に行く度に、その事をぼやく私は、いつも非難の対象です。
素朴でのんびりしたタイは好きですが、海岸だけはもう少し『華やかさ』とか『彩り』が欲しいものです。





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抜き足 差し足 忍び足 1 (トラウマ)

私の仕事は立ったり座ったりしゃがんだり、歩いたり足場の昇降をしたりと、一日中動いていますが、その度にパンツと擦れるので、猫のようにそっと歩いていました。 敏感な先端部が特に痛むので、せっかく「むけて」いる皮をわざわざ引っ張って以前のように被せて「包茎」状態にして、頭が顔を出さないように絆創膏で止めてみました。 ちょっと「つれる」のですが、先端部の痛みを考えれば何て事はありません。 「これならなんとかやり過ごせる、我ながら名案だと。」と自画自賛しました。 ですが、そうは問屋が卸しませんでした。 たまたますれ違ったミニスカートを見るなり、大きくなってしまったのです。 日焼け同様に赤黒くなり、皮がはがれる直前のヒリヒリする箇所に絆創膏を貼ったのに、息子が暴れ出してその絆創膏を力一杯引っ張るのです。 痛いけれど道路上では対応する訳にゆきません。 まずトイレを探し、誰にも見られないという「保証」の元でないとこの緊急事態には対処できないのです。 そして、こんな時に限って近くにトイレなんてないのも世の常です。 走れば更に痛むので抜き足差し足忍び足でトイレを探している様は、他人にはお漏らしをした子供のように映っていたかも知れません。 浅はかでした。 ヒリヒリと痛むのでこの数日、「排泄処理」を行えなかったので「溜まって」いたのです。 少し考えれば、こうなる事は予想出来たはずです。 やっと見つけたトイレで絆創膏を剥がしにかかりましたが、こういうときに限って「しっかりと」貼り付いて、そう簡単には取れませんし、無理に剥がそうとしても痛くてできないのです。 せめて「わがまま息子」が落ち着いてくれれば、冷静に対処出来るのですが、なだめればなだめるほどぐずり出します。 かなり手こずりましたが、絆創膏を剥がし終えると、剥がした所も痛みます。 このままでは仕事にならないので、応急処置としてトイレットぺーバーでグルグル巻きにしてみました。 袋までくるむのはちょっと難しいものがありましたけれど、擦れる痛みを多少は抑える事が出来ました。
こんな状態でしたから、JA研究所でのトレーニングも積極的に出来ませんでした。 時、人、場合にも依りますが、K.A.先生はこういった事を平気でみんなの前で話してしまいます。 この頃、ある化粧品販売のグループが入れ替わり立ち替わりにトレーニングを受けに来ていました。 この日はたまたま、ほぼ全員、10名近くの女性が集まったその前で、K.A.先生はシンガポールでの国際交流や消毒薬で大事な所を「火傷」してしまった事に脚色をして、面白可笑しくみんなに話してしまいました。 普段の私なら、ちょっと恥ずかしい程度で余り気にも留めない所なのですが、この日は以前から気になっていた子も来ていました。 そのグループが帰った後、私はK.A.先生に
「何でみんなにばらしちゃうんですか!」
と文句を言うと、その一言だけで察したみたいです。
「誰だ? そんなに気になるのがいるのか、あの中に?」
とあっさり見抜かれてしまいいました。
「いえ、そうじゃありません・・・」
「誰だ、言えよ。」
「いえ、別に・・・」
「何だよ、折角、間に入ってやろうと思ったのに、嫌なら自分で何とかしろよ。」
これまで何年も身近に見てきましたが、K.A.先生が間に入ると話が上手くまとまったケースが殆どでした。 ですが、その後で仲人をしたり、喧嘩の仲裁をしたりで時間ばかり取られるからと、あまり自分から動こうとはしません。  もし間に入ってくれるなら、千載一遇のチャンスです。
「あ、あの・・・K.O.ちゃんです。」
「ああ、あの子か。ああいうのが好みなのか? 前に連れてきたK.K.さんとは随分違うじゃないか。」
K.K.さんはお爺さんが亡くなった後、そのショックで一時的に精神不安定になっていたので、私がJA研究所でのトレーニングを勧めて1ヶ月ほど通った事がありました。 K.K.さんの性格と私の性格を見て、
「お前さんじゃ、手に負えないよ。 振り回されるだけだ。 どうしてもと言うんなら、もっと成長して包容力を身につけてからだな。」
とはっきり言われた事もありますが、私はなかなかあきらめが付かなかったので。 ですがこの頃、K.K.さんは知人の会社に就職し、プータロウ時代のように頻繁に会う事も出来なくなり、電話の数も減っていました。 元々彼氏の事しか目に入っていない上、会う機会も殆どなくなり、ようやく彼女を諦め始める事ができたのもこの頃でした。 



2011年2月19日土曜日

仏歴2554年の万仏節  (タイの日常生活)

 これから、「タイの日常生活」も不定期に書いていこうかなと思います。 飽くまでも私の経験を通じて感じた事で、私の「私見」として書いていますから、語弊などがあるかと思います。 その辺を差し引いて読んで頂けたらと思います。


昨日は「万仏説」でタイは祝日でした。
 3大仏日の1つでもあり、タイ仏教にとって最も大切な日でもあります。
 この日は、
 1. 満月の日に、
 2. 釈迦のいるウェールワン寺院に六神通(神境通, 天耳通, 他人通, 宿命通, 天眼通, 漏神通)を持つ「阿羅漢果を得た僧」1,250名が偶然一堂に会した。
 3. その僧は全員が釈迦の元で出家した「直弟子」であった。
 4. 仏教の神髄とも言われる「オーワートパティモーク」(悪い事をしない、善い事をする、心を純粋に保つ)を初めて語った。
 と4つの偶然が重なった記念すべき日なのだそうです。
 又、釈迦が入滅3ヶ月前に自分の「入滅を予見」した日でもあるそうです。

 私が泊まった小さなお寺は、一昨年の12月に起工式が行われた、できたてのお寺ですが、近所の人達が数十名来ていました。 皆、「熱心な仏教徒」ですが、「熱心」さが日本人のそれとはちょっと違います。 日本で「熱心な信者」というと、ちょっと社会とずれているイメージがありますが、国民の9割以上が仏教徒である「仏教国」だからという以外に、タイ上座仏教の持つ穏やかさそのままに、非常に自然な形で宗教が生活の中に溶け込んでいます。
 この日集まった人達は、1時間半近くもお経を上げ、その後仏像の前に蝋燭を灯し、法話を聞きますが、日本の「セミナー」のようにメモを取る訳ではありません。 親から物語りを聞かせて貰う子供のような素直さで法話に耳を傾けています。
 法話が終わると、数多くの人が、様々な心配事を相談していました。 タイ人にとっては、とても身近な「カウンセラー」が近所にいる訳です。 

国際交流始末記 (トラウマ)

シンガポールから戻って1ヶ月と間を開けず、今度は北海道へ行きました。 その直前、私には大きな「心配事」がありました。 『排尿痛』 です。 別に膿が出るなどのやばい症状はありませんでしたが、場所が場所だけにそのままにしておけません。 たまたまJA研究所でトレーニングを受けていた時期だったので、K.A.先生に相談しました。 詳しい事は知りませんが、性病にかかると「会陰」の奥の方に「腫れ」「しこり」などがあるそうです。 たまに性病にかかった人がトレーニングに来ると、K.A.先生は必ずと言っていいほどうつ伏せさせ、足でこの会陰の部分を強く押して刺激を与えます。 異常がある人は皆、叫び声を上げていますから相当痛いようです。 いくら痛くても、放って置いたら痛いでは済まない大事にもなりかねません。 私は例によってうつ伏せになり、会陰をグッと強く押されました。 痛みがあると言えばありますが、叫び声をあげるほどではありませんでした。 
「どうせシンガポールで、悪さしてきたんだろう?」
「え、でもちゃんとゴムつけてましたよ。」
「ゴムをつけても、口からだって感染するんだぞ。」
「あッ・・・」
「言わんこっちゃない、ゴムつければ安全だって訳じゃないんだぞ! おい、消毒薬持って来てくれ。」
そう言ってトレーナーに小瓶を持って来させ、私に手渡しながら、
「いいか、北海道に言っている間、ちゃんと消毒しとけよ。 じゃないと、どうなっても知らないからな。 風呂で身体を洗った後、消毒薬で洗ったら『暫く放置して乾かして』、その後洗い流せ。 毎日ちゃんとやれば心配いらないから。」
そう言われたので毎日風呂で消毒をしましたが、旅館の共同浴場では、仲間や他の宿泊客がいると、とてもやりづらい行為です。 1度早めに入り、「風呂が好きだから」と夜遅誰もいない頃を見計らって再び入浴したりしましたが、そうなると、消毒しただけでさっさと出てくる訳にもいきません。 仕方がないので2度3度と湯船につかるものですから、のぼせてしまい眠れなくなったりしました。 それでも消毒の甲斐あってか、排尿痛は治まり、ホッとしました。
所がです。 出張最終日前日から、何となくですがヒリヒリし始めました。 最初は気のせいかなと思っていたのですが、次第にその感覚が強くなってくるのです。 最終日にはおしっこをするためにつまむと、軽い痛みを感じます。 よく見ると少し赤黒くなっています。 もしかして「第2期症状」に進行してしまったのかも知れません。 そう考えると不安が募ります。 道具を目一杯積み込んだディーゼルワゴンのスピードをこんなにもどかしく思った事はありません。 北海道から東京までの道程が実際の何倍にも長く感じました。 サービスエリアでトイレに向かうとき、パンツとこすれるだけでもヒリヒリとするほど症状は悪化しています。 よく見ると赤黒さも増して来ていますから、一刻もはやくJA研究所に行きたいのに、暢気にお土産を探し、お菓子を頬張っている親方の息子に腹が立ちました。
東京に到着すると一目散にK.A.先生に会いに行き、症状を伝えました。
「はぁ?、お前、一体何したんだ??? ちょっと待てよ、おい、どうやって消毒したか、ちゃんと説明して見ろ。」
「え、言われた通り、毎日風呂で身体を洗った後、消毒薬で洗って『暫く放置して乾かして』、その後で洗い流したんですよ。」
「馬鹿、俺は『乾かせ』なんて言ってないぞ! どれ位乾かしていたんだ?」
「え、10分くらいですよ。 だって先生、洗った後で『暫く放置して乾かして』、それから洗い流せって・・・」
「いいか、強い菌でも殺す消毒薬を、粘膜や薄い皮膚に塗って放置してみろ、焼けちまうだろう。 赤黒くなったのは日焼けと同じで「火傷」の一種だ。 そのうち皮がはがれて来て元に戻るから心配するな。 暫くヒリヒリと痛いだろうけれど自業自得だ。 我慢しろ。 ちょっとお灸を据えてやろうと思って脅かしただけなのに、最近は随分とましにはなってきたけれど、馬鹿は相変わらずだな。」
「え、お灸って、別に病気だった訳じゃないんですか?」
「あんなのは雑菌感染だよ。 小便するときに仕事で汚れた手で触れば雑菌が付く可能性はいくらでもあるだろう! 第一考えてみろ! もし性病に感染していたら、外から消毒しただけで済む訳ないだろう! 今まで何人も、感染した人達に俺が何をしたか見てただろう!? あんまり調子に乗ると痛い目を見るだろうから脅かしただけだ!」
取り敢えず、感染していない事が分かり、ホッとしました。

2011年2月18日金曜日

2倍 (トラウマ)

私がP.S.さんの元での仕事に嫌気が差し出した原因はP.S.さんの息子でした。 彼への不満は一緒に仕事を始めた直後からあり、半年も経たないうちにかなり高まっていました。 丁度そんな時期、シンガポールでの仕事をする数ヶ月前の事です。 P.S.さんの家から30分程離れた現場に天文台の仕事がありました。 いつもと違っていたのは「複合鋼板」と呼ばれる複数の異なった金属を張り合わせた新しい板金を用いての工事だった事です。 実はこの現場、天文台以外に、プラネタリウムの外装工事もあり、P.S.さんも見積を入れていました。 設計段階でその「複合鋼板」を用いる事が決まっていた為に、ステンレス鋼板メーカーと何度も話し合って、ギリギリの値段で出した見積もりでしたが、競合会社に落札されてしまいました。 噂では半値で見積が入っていたそうです。
その現場の天文台外装工事中、仕事の絡みもあって、そのプラネタリウムの外装工事業者と何度か話をしました。 親方が人見知りをするので、主に私が話をしていた為に結構親しくなりました。 天文台はプラネタリウムの屋根と比較すれば小さいものですから、工事は数日で終わり、現場を引き上げました。 ですが、いくつかの残工事があったので、後日、私が処理をしに行きました。 プラネタリウムの外装工事業者は未だ工事が終了しておらず、そこの社長Y.U.さんが私に話しかけてきました。
「あんな安く仕事を請け負っちゃ駄目だよ、安くすればするほど叩かれて、折角の技術が台無しだよ。 腕がいいのに勿体ないじゃなか。」
この業者がとても安く請け負ったと聞いていたので、私はちょっと戸惑いました。 ですが、この業者の話では、入札価格はP.S.さんの入れた額の2倍以上でした。 聞いていた話と逆なのです。
「そんな値段で請け負ったら、手間だって大して貰えないだろう? いくら貰っているんだ?」
「1万5千円です。」
「だろうな、どう計算しても、あんな安い見積もりを出していたら、それ以上の手間を出せる訳ないよな。 ずっと仕事を見ていたけれど、相当腕がいいじゃないか。 お前なら今の2倍の手間払うから、一緒にやらないかい?」
そう誘われました。 ですが、この業者の仕事は「お世辞にも上手いとは言えない」のレベルではありません。 呆れるような酷い仕事を堂々としているのです。 連絡先こそ貰いましたが、正直、この業者で働く気にはなれませんでした。 仕事を終えて戻り、お茶の時間に、見積価格の事をP.S.さんに話したのですが、
「そんな馬鹿な話があるか、何で役所の入札で、値段の高い方が落札するんだ? あの会社は材料を自社生産しているから、材料代を原価割れで入札下に違いない。 うちの2倍じゃなくて、うちが2倍の聞き間違いだろう!」
と、私が聞いてきた話の内容を認めず、普段は気の合わない親子が珍しく気を合わせ、私が聞き間違えた事にされてしまいました。 ですが後日、Y.U.さんから電話がかかってきた時にもう1度入札価格を確認しましたが、やはり親方の「勘違い」でした。 ずっと後になって分かった事ですが、この業者は「特殊建材」の開発が上手く、「設計事務所」を抱き込み、設計仕様にその「特殊建材」を指定させ、類似競合品が出ると「設計事務所」や「ゼネコン」が立ち会いで材料試験を行わせるのですが、そこは先発会社、いくつかの試験データ結果が抜きんでていたり、特許を申請中だったりして、ライバル会社を引っ込ませる駆け引きに長けているのです。
バブルも弾け、親方の倅が手伝うようになってからは日曜日の仕事も徐々に減っていたP.S.さんに対し、Y.U.さんの会社は未だに毎晩9時頃まで残業し、日曜日も仕事をしても間に合わないほど忙しい状態でした。 もし日曜日に仕事が休みだったら、Y.U.さんの所でアルバイトをさせてもらうようになりましたが、言った通りに1日3万円くれたので、私の気持ちも多少揺れました。 K.A.先生にY.U.さんから誘われている事を相談すると、仕事先を移るように勧められました。 「技術」も大事だけれど、それ以上に大事なのは「人の使い方」で、P.S.さんのような「職人気質」の元で働いていては肝腎な「人の使い方」がいつまでも覚えられない上、「馬鹿息子」をまともな職人に出来ないのだから、「人を育てる」事も出来ない人なはずだ。 そろそろ「自分でする」仕事ではなく、「人にさせる」仕事を覚えた方がいい時期に来ていると言われたのです。



関連記事 「親方の倅」

2011年2月17日木曜日

自信 (トラウマ)

部屋には時計もないので、どれ位時間が経ったか全然分かりません。 服を着るとき、急にその時間が気になり出しました。  『あっという間』に終わってしまったような気がしてきたのです。 部屋の外では親方を始めとする仕事仲間が待っています。 「あれ、もう終わっちゃったの?」と冷やかされそうで、気が気でならなくなりました。 急に動作が鈍くなった私を見て
「どうしたんですか? 何かあったんですか?」
と尋ねられましたが、ちょいの間なのに、「早く終わっちゃったから、恥ずかしくて出て行きたくない。」とも言えません。
「いや、何でもないよ。」
そうは言ったのですが、着替え終わっても出て行こうとしない私を見て変な顔をしています。
「お友達が待っているんでしょ?」
彼女はそう言って私の手を引きドアを開けました。 「そのお友達と顔を合わすの、もうちょっと後にしたいんだけど・・・」 と思ったときにはドアの外に押し出されてしまいました。 仕方がないので「ゆっくり」と待合室まで歩いてゆくと、私と一緒に部屋に入っていった親方の倅も席に座って私を待っていました。 溜まっていた上に異常に興奮して、「あっという間に終わった」訳ではなかったようです。 私はホット胸を撫で下ろしました。
「じゃあ、帰ろうか?」
そう言って、みんなが席を立つと、例の中国人らしい男が、
「あと2人、大丈夫ですよ、直ぐに準備できますから、うちはみんな『いい子』ですよ! 折角来たんだから!」
と熱心に説得を始めました。
「馬鹿言うな!」
1人が捨て台詞を吐き捨てて入口のドアを開け、さっさと出て行き、他の者もその後を付いて出て行きました。
「日本じゃこんな安くできないよ! うち、とっても安いね! 又来てね!」
本当に困ったオヤジです。
この時、私は普通にセックスができていた事に気付きませんでした。 以前のように「起たなかったらどうしよう」「中折れしたらどうしよう」なんで全く考えませんでした。 又、3年近く前にトルコ風呂に行ったときには、クンニリングスというものをしてみたくて仕方がなかったのですが、頼む勇気もありませんでした。 この日はただ、目の前にいた女性を見て興奮し、勢いと本能のままにしたいようにしただけでした。 
この3年間に何があったかと言えば、「インポテンツ」とか「女性コンプレックス」の事など殆ど忘れ、ひたすら仕事に打ち込んでいただけだったように思います。 勿論、食事には気を付けていましたし、マスターベーションもしていました。 ですが、そのマスターベーションも、以前のように勃起を維持する為にあれこれ工夫したりしていた訳ではなく、急にムラムラして何も手に付かなくなるから、仕方なしに「処理」していただけで、大小便の「排泄」と似たようなものでした。
ただ一つ、大きく変わった事は、仕事に対してだけは「自信」を持った事です。 本来、腕によい職人になるには、10代前半の頭の柔らかい時期に、考えたりせずに「身体で覚える」ものです。 私が真面目に覚えようと決意したのは20歳の時でしたから、遅いスタートでした。 それでも5〜6年続ける事で、自信を持てるレベルにまでは到達できたのです。 「インポテンツ」が治った直接の理由ではないかも知れませんが、全くの「無関係」ではなかったと思っています。



関連項目