2011年2月1日火曜日

順風満帆 (トラウマ)

2週間の出張工事が終了し、東京に戻ってきても、私はそのままとぼけてP.S.さんの所で仕事を続けました。 折角掴んだチャンスなのですから、そう簡単に手放せません。
「うちはそんなに忙しくありませんから。」
本当はそれなりに忙しいのですが、 忙しいと言えば自分の家を手伝えと言われるのは火を見るよりも明らかですから、「大丈夫です」の一点張りでした。 父は困っていましたが、確実にP.S.さんの所に「職人」として入り込めるようになるまでとしらばっくれていました。
ある日、訓練校の同級生から、忙しいから手を貸してくれと電話がありました。 私は、明日、P.S.さんに聞いてから返事をすると答えました。 電話を切ると、父が
「お前、うちはどうするつもりだ? 勝手にあっちこっち手伝いに行って、うちも仕事が溜まっているんだぞ!」
「暫くよそで仕事をして、仕事を覚えたいんだ。 P.S.さんみたいに特殊な仕事をしている人から声をかけて貰える事なんてそうはない事なんだから。」
「そう思っているんだったら、何故先に言わないんだ。 そういう事ならもう何も言わないよ。 せっかく声をかけて貰えたんだから、P.S.さんの所でしっかり仕事をおぼえて来い。」
父はそれだけしか言いませんでした。 理容師などは、跡継ぎであろうと数年間はよその店で働かないと免許が交付されないシステムだと聞いた事があります。 「よその飯を食う」なんて表現をしますが、「職人」にとっては必要な事でもありますから、いくら自分の仕事が忙しくても、認めない訳にはいきません。 それに父はまだ現役として1人で動ける年齢ですが、後になればなるほど、父も私が必要になるはずですし、私もよそで新しい仕事を覚えたくても出来なくなるのですから、出来るときにやらないといけないのです。 
翌日、P.S.さんに、友人が忙しくて手を貸して欲しいと言われたので、仕事を休ませて欲しいと言うと、
「忙しいときはお互い様だから行ってあげな。 終わったら、戻ってくるんだろ?」
その言葉で、P.S.さんからも当てにされている事が分かりました。 K.A.先生に家業を継ぐようにアドバイスをされた時、最初の目標は父の仕事を覚える事でした。 次の目標は腕によい職人に付いてそこで仕事を覚える事でしたから、目標の第2段階へ移ったわけです。 JA研究所でのトレーニングを受けてから4年とかかりませんでしたから、私としては出来過ぎといえるほどの順調さでした。

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