2010年11月18日木曜日

犠牲 (トラウマ)

ですが、たった一度の喧嘩だけで兄弟が互いに「しかと」をする程の不仲になることは、普通ならありえないと思います。 「先祖からの因縁」を断ち切る為に、妹の代わりに因縁を受け継いだのだとU.S.さんに言われた時、口には出しませんでしたが「妹の代わりに『犠牲』になった」という思いが頭をよぎりました。 それはこんな事があったからです。
中学3年の2学期のことです。 妹が流行性耳下腺炎に罹りました。 中間試験を間近に控えていただけに、私はとても嫌な予感がしました。 もし感染して発症した時期が一致すれば試験を受けられません。 当時の都立高校入試は中学3年の2学期の内申書に5割、入試試験の結果に5割のウエイトを置き、内申書の合計点と入試試験結果を縦横に段階分けした「判定表」内の上位にいる者から募集定員までを「合格者」としていました。 内申書は中間テストと期末テストで9割方が決まってしまいます。 1点を争う入試に於いて、総合点の22.5%を失ったら不合格は決定的です。 どこか近くにアパートでも借りて妹の症状が落ち着くまで別居でもすれば良かったのですが、そうこうしているうちに妹は治り、私も別に発症しませんでした。 子供の頃、お多福風邪にかかった友達と遊んでいてもうつらなかったので、「あの時、発症しなかっただけで、一緒に遊んでいる間に抗体でもできたんだろう」なんて素人判断して油断していました。 その数日後、私は発熱しました。 病院での診断は「流行性耳下腺炎」でした。 やはり同じ家に住んでいたらば感染してしまうのでしょう。 ちょっと潜伏期が長かっただけだったのです。 最初はあまり深刻に考えていませんでしたが、次第に睾丸が腫れあがり、結局入院することになりました。 入院しても睾丸の腫れは治まるどころか悪化してゆき、トイレに行くにも一歩一歩確かめるようにゆっくり歩かないと響いて痛みました。 回診の際、腫れ上がった私の睾丸を見て「かわいそうに」という看護婦の言葉が逆に私をみじめにしました。 投薬の効果が余りなかったので、腰の辺りに半円形の「籠」を被せ、上から氷嚢を吊して患部を冷やしましたが、ちょっと動いただけでもずれてしまうので効果はありませんでした。 「このまま『無精子症』になっちゃって、結婚もできないんだろうな。」と、朧気ながらに考えていましたが、実感が湧きませんでした。 あるのは腫れた患部の痛みだけです。 タイミングの悪い事に、丁度中間試験と重なってしまい、私は内申書に最も大きな影響があるテストを受けることが出来ませんでした。 期末試験は狂ったように勉強した為、殆どの教科は学年でも10位以内に入る成績でしたし、いくつかの教科は学年最高でした。 担任の先生は「他の先生達も試験を受けられなかった事は考慮してくれるから心配するな」と言ってくれましたが、冬休み前に手渡された通知表は希望校『不合格』を通知する散々なものでした。

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