2011年2月20日日曜日

抜き足 差し足 忍び足 1 (トラウマ)

私の仕事は立ったり座ったりしゃがんだり、歩いたり足場の昇降をしたりと、一日中動いていますが、その度にパンツと擦れるので、猫のようにそっと歩いていました。 敏感な先端部が特に痛むので、せっかく「むけて」いる皮をわざわざ引っ張って以前のように被せて「包茎」状態にして、頭が顔を出さないように絆創膏で止めてみました。 ちょっと「つれる」のですが、先端部の痛みを考えれば何て事はありません。 「これならなんとかやり過ごせる、我ながら名案だと。」と自画自賛しました。 ですが、そうは問屋が卸しませんでした。 たまたますれ違ったミニスカートを見るなり、大きくなってしまったのです。 日焼け同様に赤黒くなり、皮がはがれる直前のヒリヒリする箇所に絆創膏を貼ったのに、息子が暴れ出してその絆創膏を力一杯引っ張るのです。 痛いけれど道路上では対応する訳にゆきません。 まずトイレを探し、誰にも見られないという「保証」の元でないとこの緊急事態には対処できないのです。 そして、こんな時に限って近くにトイレなんてないのも世の常です。 走れば更に痛むので抜き足差し足忍び足でトイレを探している様は、他人にはお漏らしをした子供のように映っていたかも知れません。 浅はかでした。 ヒリヒリと痛むのでこの数日、「排泄処理」を行えなかったので「溜まって」いたのです。 少し考えれば、こうなる事は予想出来たはずです。 やっと見つけたトイレで絆創膏を剥がしにかかりましたが、こういうときに限って「しっかりと」貼り付いて、そう簡単には取れませんし、無理に剥がそうとしても痛くてできないのです。 せめて「わがまま息子」が落ち着いてくれれば、冷静に対処出来るのですが、なだめればなだめるほどぐずり出します。 かなり手こずりましたが、絆創膏を剥がし終えると、剥がした所も痛みます。 このままでは仕事にならないので、応急処置としてトイレットぺーバーでグルグル巻きにしてみました。 袋までくるむのはちょっと難しいものがありましたけれど、擦れる痛みを多少は抑える事が出来ました。
こんな状態でしたから、JA研究所でのトレーニングも積極的に出来ませんでした。 時、人、場合にも依りますが、K.A.先生はこういった事を平気でみんなの前で話してしまいます。 この頃、ある化粧品販売のグループが入れ替わり立ち替わりにトレーニングを受けに来ていました。 この日はたまたま、ほぼ全員、10名近くの女性が集まったその前で、K.A.先生はシンガポールでの国際交流や消毒薬で大事な所を「火傷」してしまった事に脚色をして、面白可笑しくみんなに話してしまいました。 普段の私なら、ちょっと恥ずかしい程度で余り気にも留めない所なのですが、この日は以前から気になっていた子も来ていました。 そのグループが帰った後、私はK.A.先生に
「何でみんなにばらしちゃうんですか!」
と文句を言うと、その一言だけで察したみたいです。
「誰だ? そんなに気になるのがいるのか、あの中に?」
とあっさり見抜かれてしまいいました。
「いえ、そうじゃありません・・・」
「誰だ、言えよ。」
「いえ、別に・・・」
「何だよ、折角、間に入ってやろうと思ったのに、嫌なら自分で何とかしろよ。」
これまで何年も身近に見てきましたが、K.A.先生が間に入ると話が上手くまとまったケースが殆どでした。 ですが、その後で仲人をしたり、喧嘩の仲裁をしたりで時間ばかり取られるからと、あまり自分から動こうとはしません。  もし間に入ってくれるなら、千載一遇のチャンスです。
「あ、あの・・・K.O.ちゃんです。」
「ああ、あの子か。ああいうのが好みなのか? 前に連れてきたK.K.さんとは随分違うじゃないか。」
K.K.さんはお爺さんが亡くなった後、そのショックで一時的に精神不安定になっていたので、私がJA研究所でのトレーニングを勧めて1ヶ月ほど通った事がありました。 K.K.さんの性格と私の性格を見て、
「お前さんじゃ、手に負えないよ。 振り回されるだけだ。 どうしてもと言うんなら、もっと成長して包容力を身につけてからだな。」
とはっきり言われた事もありますが、私はなかなかあきらめが付かなかったので。 ですがこの頃、K.K.さんは知人の会社に就職し、プータロウ時代のように頻繁に会う事も出来なくなり、電話の数も減っていました。 元々彼氏の事しか目に入っていない上、会う機会も殆どなくなり、ようやく彼女を諦め始める事ができたのもこの頃でした。 



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