2011年4月6日水曜日

殺気を帯びた視線 (トラウマ)

私の楽しみである絵画に対する母の異常な反応に頭を痛めているのを見て友人が、
「何なら俺のアパートに絵を置けよ。 どうせ日曜日に気分転換で帰って来るだけで生活している訳じゃないから。」
と言ってくれました。 彼は当時、JA研究所でトレーナをしていましたが、トレーナーになる前に借りていたアパートです。 日当たりも良く、閑静な住宅街の中にあるので、休みの日にここでゆっくりするために「別荘兼物置」として使っていたので、有り難く使わせて貰いました。 その後、彼はJA研究所を辞め、友人のバイト先で半年ほど一緒にバイトをする事になりました。 この時、彼はこのアパートを引き払う事にしたのです。

 この頃は母はテーブル顔を伏せて塞ぎ込む事が多くなりました。 ですが、気が触れたように取り乱しながら干渉してくる事が少なくなったので、私にとっては「有り難い」事でした。 見ていると気の毒に思う事もありましたが、元気になれば訳の分からない事を喚き散らして干渉してくるので、「可哀想だけれどこのままずっと落ち込んでいて欲しいな」と思っていました。 元々母は性格的に「無意味な心配」ばかりする方で、「心配性」と言うよりは「悪く考えないと気が済まない」のですから、「性格」ではなく「趣味」の範疇だと思います。 趣味なら人に迷惑をかけない範囲で、納得のいくまで「不安」になればいいのだし、気の済むまで「落ち込んで」いればいいと捉えていました。 何を言っても「私の話など聞き入れる訳ない」、と言うよりは、私の言う事やる事なす事「全てが気に入らない」のです。 もし1つ言う事を聞けば、次の聞かなければならない事が出てきます。 私は母の操り人形ではありません。 「触らぬ神に祟りなし」ではありませんが、向こうから拘わってこないなら、そっとしておくのが「最善策」です。

 預けていた絵画を全て引き取らなくてはならなくなり、自宅の物置に仕舞う際の事です。 その日も母はテーブルに顔を伏せていました。 私が絵画を3階の物置に運び込む為に階段を昇降しているので母は顔を上げました。 最初は生気のないやつれた顔をして私を眺めていましたが、次第に目付きが変わってきました。 私は構わず絵画を運び込みます。 母の目は次第に「怒り」を帯びてきたので、又何か言い出すだろうと思ったので、私は無視しながらも、腹の中では「もしも今日文句言ってきたら、2度と口を利きたくなくなるまで徹底的に言い負かしてやるぞ。」と構えていました。 ですが珍しく母は何も言いませんでした。 身体の自由が利かないのでしょうか、病人のように力なく座っています。 ですがその視線だけは生気なく、ぐったりと座っている者のものとは思えない「殺気」を帯びています。 私は母の前を通る度に構えていましたが、「一体何が起きたのだろう?」と思うほど、母は口を開きませんでした。 そして、口を開かない分、「目」が訴えていたのです。 何度も階段を昇降し、あと2〜3往復で運び終わるという時、母と目が合いました。 そして急に膝が震えだしたのです。

 私は膝が震えて足腰に力が入らなくなる事がたまにあります。 一番多いケースは「空腹」です。 夕食も摂らずに残業をしていると、突然膝に力が入らなくなり、端で見てても急に動きが悪くなるのです。 ですからY.U.さんには、必要なら幾らでも残業するけれど、夕食だけは摂らせてくれと話を付けてあります。 出来たらちゃんと食事をしたいのですが、現場や状況によってはそんな事も言ってられません。 忙しければコンビニでにぎりめしを3つほど買って来て貰い、ポケットに突っ込んで囓りながら仕事をすることもよくありました。
もう一つのケースは「恐怖」です。 「やくざ」とか「無法者」に絡まれたとき、こうして膝が震えました。 小学校の頃、近所のいじめっ子の姿を見るだけで怖くて膝がガタガタ震えたものです。 そしてこの日、別に空腹でもないのにガタガタと膝が震えたのは、恐らく母に「恐怖」したのだと思います。 ですが私はどうしても納得がいきませんでした。 幾ら殺気を帯びた目をしても、母は「恐怖」するような存在ではありません。 絵画を全て運び込み、珍しく何も言わないのをこれ幸い、私は2階に上がってゆっくりと休み、この事はそのまま忘れてしまいました。 この事を再び思い出すのは約20年後です。

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