私と母の関係が修復不可能なほど決定的に悪くなったのは私が絵画を購入するようになってからですが、20歳以前はそれほど干渉されませんでした。 私がJA研究所に通い、食事を切り替えてから私に対して「文句」や「愚痴」が増え始めたのです。
ですがそれまで私はむしろ父と仲が悪く、余り口をききませんでした。 はっきり言えば私は父を「馬鹿にしていた」のです。 中学を卒業後、建築板金職人として働いていたので、「教養」を感じる事はありませんでした。 自分がまともに教育を受けていなかったから、読みたい本があれば買ってくれましたし、習い事でをしたいと言えばさせてくれました。 子供の頃、病弱だったので、治療代にかなりかかったようです。 下駄を預けた親方の元で15〜16年働き、独立してからは夜明けと共に「朝飯前」の仕事を片付け、夜仕事が終わり銭湯に行くと、閉店間際で客はほとんどおらず、12時前に寝た事はなかったそうです。 そんな苦労を殆ど理解できず、父と父の仕事を馬鹿にしていました。 それを指摘してくれたのがK.A.先生でした。
K.A.先生のアドバイス通り、家業を継ぐつもりで仕事を始める事でやっと、父がどんな思いで働いてきたのか理解できました。 そして、馬鹿にしていた仕事を何一つ満足にこなす事はできませんでした。 喋っていようが、よそ見していようが、少しぐらい体調が悪かろうが、「体で覚えた仕事」というものは「当たり前」にこなしてゆけるものですが、「当たり前」になるまでには数え切れない基本の反復があります。 スポーツや武道の「基本」「型」と同じであり、腕の良い人ほど基本がしっかりしています。
そして、その馬鹿にしていた仕事をコツコツとやりながら、私を育ててくれたのです。 真面目にやり始めた最初の1年は、己を恥じ、情けないやら、悔しいやら、有り難いやらと複雑な気持ちでした。 そして1つ1つ仕事を覚えていく中で、いつの間にか父と自然に会話が出来るようになり、そのうち特に会話を交わさなくとも気持ちが分かるようになりました。 父も私が考えている事を完全には理解は出来なくとも、黙って「見守って」くれていました。 だから家の中では母も妹も弟も、私の事を決して良く思っていない中、私に対する理不尽な干渉だけはさせないようにしてくれたのです。
1度父の足の古傷が急に痛み出し、何とか歩けるものの梯子の昇降が満足にできなくなったとき、父は病院に行かずにJA研究所に行くことにしました。 私は家でJA研究所のトレーニング内容やK.A.先生の事を殆ど話しませんでしたが、JA研究所に通うようになってからの私の変化を見て何かを感じたのでしょう。
JA研究所に通う人の大部分は、私と同様、K.A.先生から「考え過ぎだ」「頭が固い」と言われ、「下手な考え休むに似たり」と諭されていました。 ですが、父はそういった事は言われなかったそうです。 例え疑問に思っても、やれと言われれば言われた通りにやり、できなければやりたくなくてもできるようにしていたそうです。 父に言わせれば、
「金を払って治しに行ってるんだから、言われた通りやるしかないだろう。」
と、それ以上でもそれ以下でもなく、淡々とこなしていたそうです。 ですが、K.A.先生によれば、人からものを教わるときは、つべこべ言わず、余計なことを考えず、言われた通りにやるのが一番早く覚えるのだそうです。 この頃、私は未だよく分かっていませんでしたが、「親方が黒と言ったら、白いものでも黒」という事を、理屈ではなく体で覚えていたから、JA研究所でトレーニングを受けたときでも自然とそうした態度が取れたのかも知れません。
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