2010年10月31日日曜日

見えてきた (世代間伝播)

セミナーが進行して行くにつれ、ある場面で真っ黒だった母の顔がぼんやりとですが見え初めてきました。 はっきりとは見えないけれどやはり笑顔なように感じます。 そしてその時の母の心は幸せに満ちていた事を感じ取ることができると、涙が止まりませんでした。 更に深く掘り下げて行くにつれ、ぼんやりとしていた笑顔が徐々にはっきりしてきました。 そしてようやく、思い出せる母の笑顔がもう一つ増えたのです。 「もう少しやってみましょう、お母さんの笑顔は今のあなたにとってとても大切ですから。」Y.S.先生にそう言われてさらに続けました。
何らかの前進があった瞬間は「やった、出来た。」そう思えるものですが、その結果を得るまでの過程は異常に苦しいものです。 「何でこんな思いをしながら『真我』なんか開発しなきゃならないんだ?」 そんな思いが頭の中をよぎるのは1度や2度ではありません。
私がこのセミナーで経験している事は、たった2日間で「カタルシス」とそこに至るまでの「葛藤」を連続的に繰り返しているのかも知れません。 そして、それに伴う疲労も相当なものです。 昼食と夕食はセミナー会場で取りましたが、味など殆ど分かりません。 そして食べ終わるなり作業を続けました。 会場にはお茶、コーヒー、飴などが用意してあり、疲れた人は適当にブレイクを取っていたようですが、私はそれすら殆ど手を付けませんでした。 「早飯早糞芸のうち」というように職人にとって当たり前の事で慣れているとはいえ、前回、前々回とも、セミナー終了と同時にどっと疲れが出て放心状態になりましたから、ある意味重労働です。 ですがその甲斐あって母に対する思いはかなり浄化されたようで、更に1コマ2コマ、母の笑顔を思い出しました。

2010年10月30日土曜日

あの頃の笑顔を思い出したい (世代間伝播)

私と母の間にはいくつもの諍いがあり、その度に溝が深まりました。 でもよく考えれば、それはあくまでも「きっかけ」にしか過ぎず、それよりずっと以前から、互いが気付かない間に心の深い部分では既に激しく憎み合っていたはずです。 何かのきっかけでたまたまそれが表面化してしまっただけで、遅かれ早かれ関係は壊れてゆくはずだったのです。 では、一体いつから憎み合うようになってしまったのでしょう。 親子の愛が、当人も気付かない間に「憎しみ」や「恨み」にすり替わってしまい、すり替わった事にすら気付かないというのはあまりに残酷な話です。 又、魂のレベルにまで染みついてしまった「歪んだ愛情表現」は、例えその事に気が付いたからといってそう簡単に治せるものではなく、気を常に張っていても僅かなほころびから表面化してしまうでしょう。 ましてそのことにすら気が付かなかったら、「当たり前」の事として「歪んだ愛情表現」をしてしまうはずです。
ですが私の母は祖母から受けたような仕打ちを我が子にはするまい、自分のような思いはさせまいと私を育ててくれたのです。 それなのに何故私は母の心の傷ばかり見ていたのでしょう。 本来見るべきなのはその傷の痛みに耐えながらも精一杯注いでくれた愛なはずなのに、当人も気付かないうちに向けるべき視点がずれ、問題がすり替わってしまったのです。 そう考えるととんでもない誤解と無駄な時間を過ごしてきた事が残念でなりません。 そう思えば思うほど、
「あの頃の笑顔を思い出したい。」
心からそう願いました。 それが失った大事なものを取り戻す最初の一歩のような気がしてならなかったのです。

2010年10月29日金曜日

微笑んでいる「真っ黒い顔」 (世代間伝播)

肝腎の「真我開発」は遅々として進みませんでしたが、別に彼女に釣られて泣いていたからではありません。 それ以外の時間は今まで以上に自分に集中できていました。
最初は前回の続きから始めました。 そしてあれほど心の奥深くから憎んでいた母に対し、素直に「ごめんなさい」「ありがとう」と言えるようになりました。 ですが、さらに深いレベルから言えるようになるために、かなりの時間を割いて母親を対象に真我開発を続けました。 ぼんやりと曖昧ですが母が笑顔だったはずのシーンをいくつか思い出すことができました。 残念な事に顔は相変わらず真っ黒です。 が、私を産み育てる事によって、それまで辛い事ばかりだった母の人生で初めて「幸せ」を実感することができた母の喜びに触れる事ができたのです。 私と一緒に過ごす時間が母にとってはかけがえのない時間であり、私は愛されていた、私を愛する事によって母は幸せを感じていたという事が分かってきたのです。 そして私も母といる時間は幸せだったのです。 真っ黒ではっきりと見えない顔ですが、それは微笑んでいるように感じてきました。 そうです、あのときの母は、今にも泣き出しそうに悲しみを湛えた顔ではなく、幸せに満ちた笑顔だったはずなのです。
真我開発講座は別に、「ごめんなさい」「ありがとうございます」を言う事が目的ではありません。 Y.S.先生によれば人の心は3層構造で、第1層目が「顕在意識」、 2層目が俗に言う「潜在意識」、 そして第3層目が「真我」で、ここに至るまでの手段として、特に第2層目の「ゴミ」を掘り起こす為に「ごめんなさい」「ありがとうございます」を使っています。 「真我」を体験した事がない者にとって「両親の愛」が「真我」に最も近いのだそうで、この両親の愛を実感するために「ごめんなさい」と己の非や過ちを認め、「ありがとうございます」と感謝する事で真我へ近づいてゆくのだそうです。 確かに「ごめんなさい」「ありがとうございます」と素直に言えるようになるに従って、内に抱えていたドロドロとした「怨念」の類が減っているようです。 減ってきたからこそ母の気持ちが分かってきたのだと思います。

2010年10月28日木曜日

もらい泣き ? (世代間伝播)

今回隣の席だったM.I.さんは私に負けず劣らず書きまくるし、頻繁にY.S.先生に見て頂いていました。 そしてとてもよく泣きました。 ここまでは私と同じようなものですが、 多少勝手の違うことがありました。 彼女の泣き声です。 突然子供が泣き出すようにとても高い声で始まるその独特の泣き声が耳に入った途端、私の鉛筆の動きは止まってしまい、彼女に釣られて激しく泣き出してしまうのです。 彼女の泣き声が耳触りだとかそう言う訳ではありません。 ただ今回は迷いがあったためなのでしょうか、それとも対象がはっきりしないためなのでしょうか、M.I.さんの泣き声は彼女の人生の「辛さ」や「悲しさ」が高濃度に凝縮され、強く激しく私の心を抉るのです。 それはまるで、これまで2回の受講で感じた辛さなど、これから始まる本番に備えるためのプロローグに過ぎなかったのではないかと感じてしまうほど激しくつよいものでした。 いくら自分のことに集中していても、1度M.I.さんの泣き声が聞こえると、彼女が泣き止むまで私の涙も止ままらず、作業は何も出来ない始末です。 不思議な事にその泣き声が止むと、泣き声を聞く直前の作業から集中して再開できるのです。 まるで彼女の泣き声は時間を切取るナイフで、私の心は時間ごと切り取られて持って行かれたかのようでした。
後日、Y.S.先生に何故深く自分に集中しているのに、M.I.さんの泣き声を自分の事以上に苦しく感じるのかと尋ねたことがありました。 
「似たような境遇だったから、真我のレベルで共鳴するものがあるんだろうね。 真我は元々一つで、自分や他人の区別なんかないんだから。」
とのことでした。

2010年10月27日水曜日

コツ (世代間伝播)

過去2回のセミナーでは、隣に座った人の顔もろくに覚えていないくらい自分の世界に浸り切り、一つでも多くのゴミを吐き出そうと自分に集中して全く手を止めずに書き続けていましたが、それがよかったのかも知れません。 セミナー中、Y.S.先生は度々説明して下さるのですが、「真我開発講座」にはちょっとしたコツがあって、それをどこまでできるかはセミナー受講の成果を大きく左右するのだそうです。 そのコツとは、とにかく書いて書いて書きまくることです。 この「書く」という作業が「真我」に近づき、開発してゆくための効率的手段なのだそうで、鉛筆の動きが止まったら直ぐにY.S.先生に見て頂き、アドバイスに従って又書き続ける。 これは字が汚くても構わないからスピードを持って書く事が肝要なのだそうですが、書いているうちに「自動書記」とか「お筆書き」に近い状態になるのだろうと考えられますし、会場の独特な雰囲気もその状態に拍車をかけているように感じます。 逆にここで悩んだり考え込んでいるようではなかなか前に進めません。 ゴミが普通の人より多かったからだと思いますが、私は殆ど手を止めずに書き続ける事ができましたし、書く事によって意識は次第に変化して行きました。 変化があったからこそ、母への「恨み」「憎しみ」を徐々に消してゆけたのだと思います。 これまで2回の受講者中では、書いた量もY.S.先生に見て頂いた回数も、私はセミナー最多だったのではないかと思います。

2010年10月26日火曜日

「すごく感覚的よね~」 (世代間伝播)

会場には開始時間よりかなり早く到着したのですが、かなりの数の受講生が既に到着していました。 スタッフの方の案内で席についてちょっと驚きました。 なんと、M.I.さんの隣です。 ですがこの時、私の頭の中は今気付いたばかりの事で一杯でした。 席に座り、準備をしようとした瞬間、「うわっ」と何かが胸に込み上げて来て、セミナー受講中のように大声で泣き出してしまいました。 ですが今回は再受講生が多かったので驚く人はあまりいなかったようです。 泣き止み、気持ちが落ち着いたので一旦外の風に当たろうと出口に行くと、M.I.さんと目が合いました。
「すごく感覚的よね~。 未だ始まってないのに、席に着くなり泣き出しちゃうなんて、もうすっかり自分の世界に入り込んでるんですね。 この調子なら、今回はきっと大きな成果がありますよ。 お互い頑張りましょうね。」
そう話す彼女には、初めて会ったときのような輝きこそありませんでしたが、前回Y.G.塾で会ったときのような「迷い」がなく、強い決意で臨んでいる事は言葉からも表情からもにじみ出ていました。 それとは対照的に私は、今朝気付いた事実に打ちのめされ途方に暮れており、それは、間もなく始まるセミナーを象徴するかのようでもありました。
自分だけでなく周りも同じような問題を抱えた人達ばかりだという事実は、母に対して「ごめんなさい」と言うためだけに1回、「ありがとう」と言うためだけに1回のセミナー受講を必要とした私にとっては残酷な現実でした。 母親以外の人達との関係改善のためにも、母同様の苦労をしなければならない可能性があると思うと、「なんて業の多い人生なんだろう。 いつになったら全て精算できるのだろう?」と、セミナーへの意気込みは大きく挫かれていたのです。 セミナー会場に到着するなり泣き出したのは、「自分の世界にすっかり入り込んでセミナーの準備ができている。」というよりはむしろ、「いくらセミナーを受けても解決できないかも知れない。」と、絶望感に呑み込まれてしまったからだったように思います。

2010年10月25日月曜日

残酷だ (世代間伝播)

そう気が付いてから、これまで私が経験した事を振り返るとはっきりと見えてくるものがありました。 私は当時36歳でしたが、結婚どころか彼女すら出来た事がないほど女性には無縁でした。 そして数少ない女性の友人の大部分は、何らかの形で私と同様「世代間伝播」の問題を抱えていたのです。 ただ、気丈夫な女性ばかりでそんな事を表には出しませんでしたが、よく見ればそのトラウマが様々な形で性格に反映されています。 それを表に出すまいと無理を重ねるから負のエネルギーを内に向けることになり、体調を崩したり1人になると激しく落ち込んだりしています。
セミナーを初めて受講してからこの1ヶ月間、「何故自分だけこんな思いをしなくてはならないのだろう」という思いに捕らわれていましたが、私の周りはこの問題で溢れ返っていて、誰もこの問題に気付いないだけだったのです。 たまたま私が「真我開発講座」に参加した事で問題がはっきりと見え、自分の「魂」がずっと苦しみ続けていた事にも気が付いただけだったのです。 恐らく彼女達も自分の魂が激しく悶え苦しんでいるとは思ってもいないはずですが、そのカルマが現実の人間関係など投影された「カルマの影」との葛藤に苦しんでいるのです。 つまり気付くのが早いか遅いか、又はずっと気付かないかの違いだけだったのです。 Y.S.先生が似たようなカルマを持った人達は互いに引き合って近づくと仰った言葉の意味がやっと分かりました。 
自分と母の間だけでもどうにもならないほど辛いのに、親しくしている女性の大部分が私と似たような問題を抱えていると考えると、絶望的な気がしてきました。 何て残酷な人生なのだろうと自分の運命を呪いました。 そしてもう、喧嘩したとか過去に何があったかとかどうでも良くなってきました。 こんな苦しみを抱えていながらも皆必死に頑張っている、そう考えると悲しいやらいとおしいやらで頭の中がぐちゃぐちゃになってきました。 でももし、自分がこの場所から抜け出せたなら、彼女たちも抜け出せる可能性があるかも知れない。  そんな事をあれやこれやと考え始めたとき、セミナー会場のホテルに到着しました。

2010年10月23日土曜日

同じだ (世代間伝播)

その顔が浮かぶと同時に、数日前に浮かんできたY.S.先生の言葉が又、浮かんできたのです。 「似たようなカルマを抱えた人達は互いに引き合って近づき、互いのカルマを刺激し合って顕在化するのでどちらも酷い目に遭って離れて行くことになってしまう。」 それは私と友人の関係でも言える事だったのです。 私達は互いにどこか似たものを持っていたからこそ親しくなり、互いのカルマを刺激し合って喧嘩別れしてしまったのです。 それは一見、私と母の関係とは全く別の問題に見えても、本質的には同じ問題であるはずです。 そして今、私が苦しんでいるのと同様に、彼女も苦しんでいて、根本的問題は何ら違いがないはずです。
ですが「何故この二つの問題の根本が同じなのか」と問われても、他人が納得できるような説明はできません。 世代間伝播と無縁の人がこの問題で苦しむ人に「何故実の親をそこまで憎むのですか」と尋ねても、過去にされた酷い仕打ちを一つ一つ説明する以外に方法はないと思いますし、それに対して「それはあなたを『躾ける』ためにやった事じゃないんですか」と再び尋ねれば、後は互いの水掛け論で終わってしまう事と似ていると思います。 ですからやはり、「気付いた人が取り組む」以外には解決の手段がない問題なのだろうと思います。 前回のセミナー受講中、一瞬で母の愛に気付いたように、友人と自分が同じ問題を抱えている事に気付いたのもやはり一瞬の出来事でした。 

2010年10月22日金曜日

1人のタイ人女性 (世代間伝播)

アパートと会場の中間地点を通過し、あと20分もあれば会場に到着というとき、ふと1人のタイ人女性の顔が浮かんできました。 私はタイが好きで多い年には年末年始、ゴールデンウイーク、お盆と年に3回はタイに行っていましたし、いつも近所のタイ料理で食事をしていたので会う機会も多く、食事を奢ったり奢られたりしていました。 私がタイへ遊びに行くときには彼女の友人を紹介して貰ったり、日本で彼女が日本人の手を借りないと上手くいかないときには手助けたりしているうちにすっかり仲良くなっていました。 タイ人は日本人からみればその日暮らしで「明日は明日の風が吹く」を地でいくような楽天的な民族で、悪く言えば「ずぼら」で「いい加減」なのですが、彼女はあまりタイ人特有の欠点があまり目立ちませんでした。 よく相手の事を考えながら行動しますし、互いの「夢」を語り合えるような良い友人でした。 日本で働いてお金を貯め、タイに帰ったらあくせくせずにゆっくり暮らしてゆけるように必死で働いていました。 私も将来はタイに移住するつもりでしたが、心から信用できる友人、困ったときに相談に乗ってくれる友人がいなかった為に彼女を大切にしていました。
彼女がタイ料理屋を開店するに当たって結構お金を貸したのですが、お店がトラブル続きで思うように軌道に乗らないために、なかなか返せませんでした。 別にお金を返さない事には腹を立てていませんでした。 お金を貸すならあげたつもりで貸さなくてはならないと思っていましたから。 ただ、返せないのに「お店が上手くいかないんだから仕方ないでしょう」と開き直るその態度に私がつい腹を立て喧嘩になってしまってからは連絡を取っていませんでした。 ですが、いつもどうしているかと気にはなっていたのです。

2010年10月21日木曜日

セミナー直前 (世代間伝播)

いくら原因を探しても見つからないし、ゴミ出しをしても今一つ集中できない、そして支出だけは確実に増えてゆくもどかしい日々が続きました。 セミナーを数日後に控えたままいつものように考え込んでいると、ふっとY.S.先生の言葉が浮かんできました。 「似たようなカルマを抱えた人達は互いに引き合って近づき、互いのカルマを刺激し合って顕在化するのでどちらも酷い目に遭って離れて行くことになってしまう。」 もしそうだとしたら、私が今まで出会い仲がよかった人、身近な人達も私と似たようなカルマを抱えているんじゃないだろうか。 ですが、世代間伝播やそれに類する話を友人や周りの人達から聞いた事はありません。 そんな深い話をするほど付き合いが深くなかったのか、言いたくなかったのか、未だ気付いていないのか、とにかく他人の事を考えている余裕などありません。 今は自分の事に集中するべきだと、自分の過去の思い出を一つ一つほじくり返してはあれこれと検証しているうちに受講当日を迎えてしまいました。 前回のセミナー会場への道程も気が重いことは同じでしたが、少なくとも母との和解という「目標」がはっきりとあった分、楽だったような気がします。 何故原因もはっきり分からないのにこれほど苦しいのか、母との関係がある程度解決できたはずなのに苦しさが以前と殆ど変わらない事が余計な不安を煽ります。 「私は他にも似たようなカルマを何十何百と抱え、母との問題はほんの一つに過ぎなかったのだろうか?」 そんな事を考えながらバイクで会場に向かいました。

2010年10月20日水曜日

解決の糸口が・・・ (世代間伝播)

受講を決意するきっかけになった人と一緒に受講できる事は、次回のセミナーへの大きな励みとなりました。 Y.S.先生によれば世代間伝播で最も多いパターンは、彼女のように父親と娘の関係だそうで、次いで同性同士、私のように母親と息子の関係は非常に少なく、しかもどんな「トラウマ」が原因で関係が悪くなったのかはっきり分からないにも拘わらず、ここまで強く親を憎むパターンは非常に珍しいそうです。
1回目の受講を終え2回目の受講までの間もかなり気が滅入るものがありましたが、今回はそれ以上でした。 原因がはっきりしないということは、どうにもこうにも手の打ちようがないものです。 仕事を終えアパートに帰ってからもゴミ出しをしていますが、前回のように焦点が絞れない分、深く集中できませんな。 何が原因なのだろうといくら考えても答えどころかヒントになりそうな事すら見つかりません。 決して安いセミナーではなく、カードローンで借金をして受講しているだけに、1回の受講で最大限の効果を上げなければなりません。 たとえ土日に仕事があっても、セミナーとぶつかれば休んでいましたし、無料セミナーなどがあれば早退していたので、日給月給だった収入は多少下がっています。 このままセミナーの受講を続けていけばそう遠くない将来に返済に追われる自転車操業になり、不安定な精神状態に追い打ちをかける事にでもなったら、今の私にはとても堪えられるものではありません。 借金達磨になって堕落してゆくか、自分の抱えるカルマに負けて駄目になるか、そのどちらも嫌なら真我を開くしかない。 そんな追い詰められた状態でした。

2010年10月19日火曜日

M.I.さんの再受講 (世代間伝播)

「やっぱり、まだ何かあるんだろうね。」 さっきからじっと耳を凝らして話を聞いていたY.S.先生の声がしました。
「それって、やっぱりお父さんの事ですか?」
「お父さんの事かも知れない。 でも、他の事かも知れない。 今は何とも言えないよ。 でも、『真我』をもっと追求しろって事だろうね。」
「やっぱり私、もう一度セミナー受けてみるわ。」
「それがいいよ。 前回よりも大きな収穫があるかも知れないよ。」
「え、あの時よりもですか。」
「もちろん、何があるかは受けてみなくちゃ分からないけれどね。」
Y.S.先生はM.I.さんとそんな会話をした後、私とK.N.さんに向かって、
「君たち2人とも、人よりも辛い経験をしているからだろうね、他の人には見えないものが見えるみたいだよ。 M.I.さんが今おかしい事は、多分普通の人が見ても分からないと思うよ。」 
と仰りました。 私は一瞬戸惑いました。 私が思わず見とれてしまったM.I.さんのあの輝きが、他の人達には見えないのだとこの時初めて気付いたのです。 ひょっとしたら誰かに、「何だあいつ、さっきからじろじろとM.I.さんのこと眺めやがって。」なんて思われていたかも知れません。
「そうなんですよ、誰に話しても分かってくれなかったんですよ。 仕方なく主人に相談すると、『Y.G.塾に行ってこい』ってそれだけ言われて。 その時は話もろくに聞いてくれなくて、ちょっと不満だったんだけど、本当は私の事をよく分かっていたのね。 だって今、手が離せないほど仕事が忙しいから、本当はこうして出て来られる状態じゃないんだもの。」 M.I.さんが話を続けます。
「君の旦那さんは本当に素晴らしい人だよね。 彼は君の状態をちゃんと分かっていたはずだよ。 君にとって一番大事な事は何か知っているからこそ、仕事を後回しにしてでもうちに来させたんだよ。」
無料セミナーなどでM.I.さんはよく体験談を発表していますが、それに対するY.S.先生のコメントは必ずと言っていいほど旦那さんの事にも触れました。 彼女のように父親との関係にトラウマを抱えた女性は、男性と良好な人間関係を築けず、結婚しても夫婦関係が悪い事が殆どなのに、例外中の例外とも言えるほど仲がよい夫婦でした。 旦那さんがM.I.さんの抱える問題をよく理解し、広い心で包み込むように対応しているので問題にまで発展しないのだそうです。 M.I.さんは電話で旦那に受講を決意した事を告げると、「そうだよ、そうしな。」と簡単な返事だったそうですが、再受講させるためにY.G.塾に行かせた事がやっと分かったと、その思いやりに対する感謝の気持ちを旦那さんに一生懸命伝えていました。 M.I.さんの様子が最近おかしいので、あれこれと原因を考えたり、何とかしようと右往左往して無駄に時間を浪費するよりもY塾で問題を解決させた方がずっと良いと考えたのでしょう。
「私も受講を続けて『真我』を開いてゆけば、こんな風に深い思いやりを持てるようになるのかな・・・。」
端でそんな遣り取りを眺めながら、ぼんやりとそんな事を考えました。

2010年10月18日月曜日

「差し出がましいようですが・・・」 (世代間伝播)

「横から口を挟んで済みませんけれど・・・」
と私は思わず2人の会話に割り込んでしまいました。 
「私は1ヶ月前、知人にY.G.塾を紹介され、Y.S.先生の面接を受けてセミナーに申し込んだんですけれど、それは友人の顔を立てる為で、直前にキャンセルを入れるつもりでした。 別に『真我』に関心がなかったからです。 でもその日の無料セミナーに参加して、M.I.さんの体験談を聞いてとても驚いたんです。 私にはまるで後光が差しているのかと思うほどM.I.さんが輝いて見え、思わず見とれていたんです。 あの日、Y.S.先生の面接を受け、無料セミナーでも先生の話を聞いていたけれど、正直言って何を話されたのか殆ど覚えていません。 はっきり覚えているのは『もし真我に目覚めたら、人はこんなに輝けるんだ。』とM.I.さんの姿にあっけにとられていた事だけです。 Y.S.先生の話を聞いて受講を決意した訳ではなく、私は輝いているM.I.さんの姿を見て『ああなってみたい』と受講を決意したんです。」
と、初めてM.I.さんを見た日の正直な感想を当人を前にして話していました。
「でも、さっき事務所に入ってきたとき『あれ!?』って思ったんです。 確かにあのときのM.I.さんと同一人物なはずなのに、全く別人にしか見えなかったんです。 ごく普通の人になっちゃって、あのときの眩しさがなくなっていたんです。」
今思い返せばちょっと厚かましいような気がします。 でも、その時のM.I.さんの率直な印象でした。 私が話しに割り込む少し前から、Y.S.先生も事務所にやって来て、3人の会話をちょっと離れた場所からじっと聞いていました。 
私の言葉に彼女はもう一度うつむいてしまい、顔を上げてから「そうよね、やっぱり『おかしい』って感じているんだから何かおかしいのよね。 真我が開いたからっておかしくならない訳じゃないわよね。」 彼女は何か思い詰めたような口調でした。 

2010年10月17日日曜日

別人? (世代間伝播)

そんな彼女の表情がその日は何故か冴えませんでした。 いえ、冴えないなんてものじゃなくて、全くの別人でした。 初めて見た彼女の姿はつい見とれてしまうほど目映く輝いていたのに。
K.N.さんとM.I.さんは互いに辛い人生を歩み、Y.G.塾のセミナーで人生が180度方向転換したという共通点に加え、無料セミナーなどでも頻繁に会うために仲がよかったようです。 そしてK.N.さんもM.I.さんがいつもと違う事には直ぐ気が付いたようで、上手に話を引き出していました。 M.I.さん自身も何かがおかしい事には気付いてはいても、一体何が原因なのかがさっぱり分からないらしく、周りに相談をしても「気のせいだよ」「気にする事ないよ」という答えしか返ってこなかったのだそうです。 K.N.さんは自分でも未だ気付いていない問題が発見できるかも知れないよと、再受講を勧めていました。 彼女は暫くの間うつむき、それから
「実は、セミナーを受講して『真我』に目覚めてから、自分に自信が出てきたのはいいんだけれど、『なんかおかしいな』と感じているのに『そんな訳ない、私は真我に目覚めたんだから、おかしくなる訳ない。』って現実を認めない自分がいるのよ。」
「それなら尚更、再受講が必要なんじゃない? 抱えている問題から目を逸らしているのかも知れない。 もしかしたら本当は分かっていて現実逃避しているのかもしれないよ。」 そんな会話が続いていました。

2010年10月16日土曜日

M.I.さん (世代間伝播)

私とK.N.さんが話していると今度はM.I.さんがやって来ました。 初めて参加した無料セミナーでは、自らの体験を語る彼女の姿を見て、私は受講を決意しました。 酒飲みだった父親は母親にも子供にも容赦なく暴力を振るったそうです。 自宅によその女を連れ込み、隣の部屋で泣きじゃくる母親と夜を過ごした事が何度もあったそうです。 また「おまえなんか殺してやる」と包丁を突き付けられ追いかけ回されたたこともあったそうです。 父に対する良い思い出など全くないと言っていいくらい酷い父親で、亡くなったときはむしろ「ホッとした」のだそうです。
Y.S.先生によれば、こういった父親を持った女性は男性像が恐ろしいもの、悪いものとなり、父親と似たような傾向を持つ男性と引き合ってしまうので、交際しても結婚しても不幸であることが殆どで、「世代間伝播」「世代間連鎖」の典型的な例なのだそうです。 当時は知りませんでしたが、「共依存」と言うのだそうです。 最近では「引き寄せの法則」の悪い例と言えばもっと分かり易いかも知れません。
そんな父をどうしても赦す事ができずにセミナー中はかなり苦しんだそうです。 「あんな父、赦せる訳がない。」とそう思いながら鉛筆を走らせると、辛かった日々の記憶が鮮やかに蘇り、その場から 何度も逃げ出したくなったそうですから、「カタルシス」の前の激しい「葛藤」だったのでしょう。 スタッフの方々から、「もう嫌だ」と途中で投げ出そうとする人をなだめ、諦めずに受講を続けさせることも大事な仕事だと聞いた事がありましたから、逃げ出そうとする人は随分いるようです。 そして父親に対する赦しがたい憎しみ、蘇る当時の記憶による辛さ、そして長時間感情が剥き出しになるために起きる心的疲労などが混じり合って心の限界許容量に達したとき、『ごめん』とお父さんの謝る声が聞こえたそうです。 その瞬間、彼女はあれほど憎んでいた父親の全てを赦す事ができたそうです。 そして、「真我」とは何なのか、理屈ではなく「体感」として理解できたそうです。

2010年10月15日金曜日

取り殺される (世代間伝播)

同時に、そんな事にはこれっぽっちも関心がなく、自分の考えをただヒステリックに押し付ける母は私の人生にとって最大の「障害」でした。 親方である父と考え方の違いから反りが合わないというなら分かりますが、仕事を全く知らないし、関与もしていない母が私のやり方に対してただヒステリックに干渉してくるようでは、例え家業を継いだとしてもトラブル続きになる事は目に見えていたので家業を継ぐ事を諦めて家を出ました。 余りの異常さに「このまま一緒に住んでいたら取り殺されてしまう」と感じたほどです。 そして独立資金を稼ぐために好条件で雇ってくれる同業者を渡り歩いていました。 同時に長男が家業を継がずに、同業者の間を渡り歩いていれば、母も多少は反省をするだろうという期待もありました。 ですが結果は期待とは裏腹で、会う機会が減って発作的ヒステリーに出会う回数が減った分、何かの機会に顔を合わせると、貯め込んでいた不満を一気に爆発させるように今まで以上の激しいヒステリーを起こすようになりました。 「母が死なない限り実家には戻れないな。」それがその時の正直な感想でした。
質問に答えてこんな話を懇談会でしていたのですが、「現代美術」がどうのこうのと偉そうに話す私の姿がNさんの目には「コチコチの石頭」と映り、良くない印象を持ったそうです。 「勘違いしていたよ。 あのときの印象と全く逆なんだもんな。」 そう笑って話すNさんと私はすっかり打ち解け、さっき初めて話をした人だとは感じられませんでした。 親しくなりたい近づきたいとずっと考えていたNさんと、急に親しくなれたことに嬉しさもひとしおでした。

2010年10月14日木曜日

高い技術を生かす (世代間伝播)

ですが、母にとってこれが面白くなかったようです。 私が気に入って購入した絵を持ち帰ると、気が狂ったように怒り出しました。 コレクションの枚数が増えるのに比例して母のヒステリーもエスカレートしました。 何故美術品購入をするのか理由をいくら説明しても全く聞く耳を持ちません。 今まで何とかやってきたのだからこれからも大丈夫で、私のように人と違う事をしてはいけないと言い出す始末です。 建築鈑金なんて、父の代ならこれまで通りのやり方でも何とかなるかも知れませんが、私の代になったら先行かなくなることは火を見るよりも明らかで、それは父も認めていまるす。 だから最初は継ぐ気がなかったのです。 ですが時代の需要に合わせた新しい仕事を創り出して行かなくてはならない事はどの業種に身を置いても同じでしょう。 そして、明らかに「時代遅れ」な業種に身を置く者は、他の業種の何倍もの生き残る術を模索し続ける努力を怠った時点でアッと言う間に没落してしまうでしょう。 逆に需要に合った物を創り出し、更には需要そのものを創り出して行けるようになれば、周りの同業者は手をこまねいて見ているだけなので売上を伸ばして行く事も不可能ではないはずです。 そして時代を先取りした物を作れるようになれば、人の見る目が違ってきます。 実際に口で言うような簡単な事ではないはずです。 K.A.先生は陶芸にも造詣の深かったミロの例をよく挙げて説明して下さいました。 新しい陶芸作品を作りたくても、表現する為の技術が伴わなければ高度な作品には仕上がらないので、腕のよい陶芸職人の元で修行をし、高度な技術を身につけたからこそ思い通りの作品を製作できたのだそうです。 
私はこの仕事を始めて3年目に職業訓練校に入学したとき、技術的にはすでに指導員に近いレベルにありましたし、卒業作品は全国の職業訓練校が出品する作品展の金属加工部門で最高賞も受賞しています。 卒業後、この業界では名人クラスの職人の元で修行もしていますから、技術的にはかなり高いレベルを身につけていたと自負しています。 その技術を更に追求する一方で、いかに生かしてゆくかが私の人生にとって最大の課題だったのです。

2010年10月13日水曜日

現代美術の勧め (世代間伝播)



JA研究所のK.A.先生に家業を継ぐ事を勧められた事が鈑金職人なったきっかけでした。 先細りな業界には家業を継ぐ者がいないからこそ、やり方次第で大きく伸ばして行ける。 そのやり方は少しずつ教えてあげるからと言われたのでその言葉に従いました。 父の仕事を覚え始めて数年経ち、ある程度技術が身についた頃、K.A.先生はもっと現代美術を勉強するようにとアドバイスを下さいました。 真の芸術とは常に来るべき時代を先取りしてそれを表現する「革命」であり、「予言」である。 その芸術に直に触れる事により、次の時代のセンスを身に付け、伝統的な技術を持っても職人の枠に閉じ籠もらず、時代に合ったものを、そして次の時代を先取りするようなものを作れる職人になれというのです。 私にどこまでできるか分かりませんが、例え職人として「腕自慢」ができるような技術を身につけたとしても、鼻が高くなっただけで時代に取り残されてしまう「井の中の蛙」ではどうしようもありません。 来るべき時代を見通す感覚とそれを表現できる高い技術を身につける事は、先行きの暗い業界の中で事業を営んでゆく為の有効な打開策の一つであることは間違いないのですから、できる限りの事をしようと努めました。 収入を版画などの美術品購入に割きました。 日本では版画を油絵よりも一段下に見ていますが、画家の大部分は同じモチーフの油絵を何十も何百も描いています。 逆に版画でも印刷枚数を明記し、通しナンバーが打ってあればその枚数以上同じものはこの世に存在しません。 製作には油絵の方が時間がかかるかも知れませんが、作品の価値は「制作時間」に比例するわけではありませんし、現代的なモチーフの表現にはシャープな版画の方が油絵よりも向いており、秀作も多い上に価格が安い版画の中から良い作品を選んで身近に置き、常に作品に触れる事が現代美術を理解する最善の方法であるとのアドバイスを貰ったからです。 実際、美術品には麻薬性があるかのようでした。 K.A.先生に美術品の見方を教えて頂くと次第にその魅力の虜になり、仕事が休みの日は美術館に通い、海外の画集を取り寄せ始め、頭の中はコンテンポラリーアートで一杯になりました。

2010年10月12日火曜日

誤解 (世代間伝播)

「何だ、充分素直じゃないか、そんなに素直に自分をさらけ出せるんだったら、今の問題なんか直ぐに解決できるよ。」
K.N.さんはそう慰めてくれました。 泣き声を聞きスタッフの方が慌てて事務室から出てきてK.N.さんに、
「何かしたの?」
と尋ねていました。
「いや、私はいつも何しに来ているのか彼に尋ねただけですよ。 そしたら急に泣き出しちゃって」
「私が時間があったらうちに来るように言ったのよ。 彼、今放って置いたらどうなっちゃうか分からないから。 別に仕事の邪魔したり遠慮を知らないとかじゃなくて、今は少しでも『真我』に触れていた方がいいのよ。」
そういってK.N.さんに、私のこれまでの経緯を説明してくれました。 
「そうだったのか。 でも大丈夫だと思うよ、俺みたいに固い殻に閉じこもっている訳じゃないんだから。 君と違って素直に泣けるようになるまでにだって何回も受講したんだぜ。 もう十何回も受講しているけれど、未だに君みたいに自分をさらけ出し切れなんだよ。 君は素直で感覚的みたいだから、安心して次回の受講に望みなよ。 きっといい結果が出るから。」
そう言って、自分の体験を踏まえた様々なアドバイスをくれました。 K.N.さんが私によい印象を持っていなかった理由も分かりました。 私が初めて真我開発講座を受講した懇談会で、一緒に受講した人達に母と仲が悪くなった経緯を尋ねられたので、皆に説明していたのを側で聞いていたからだそうです。

2010年10月11日月曜日

K.N.さんと (世代間伝播)

「何か、Y.G.塾のスタッフの方達と打合せがあるか、誰かを待たれているのですか?」
「いいえ、スタッフの方に『仕事が休みの日は遠慮せずに来ていいから』と言われたので、好意に甘えさせて頂いています。」
「何も用がないのに1日中、ここにいるのですか?」
「はい、ご迷惑かとは思っているのですが、自分でもどうしていいか分からず、時間があるときは来させて貰っています。」
「こんな事言っては失礼かも知れませんが、ここは仕事場なんですよ。 皆が仕事をしている所に1日中いたら迷惑だとは思わないんですか?」
「それは私も気にしています・・・・・・」
ここまで会話を続けているうちに、また涙が溢れてきました。 私自身も、「迷惑だよな」という思いはありました。 でも、自分で自分を全くコントロールできない状態が1ヶ月も続いている中、私を支えてくれているのはこのY.G.塾だけでした。 もしこのY.G.塾にこうして気楽に出入りできなかったら、自分でも次のセミナーまで堪えられる自信はありません。 私はK.N.さんに今の自分の追い詰められた心境を説明しようと、再度口を開きました。 自然に口をついて出た事はやはり、母の笑顔が思い出せない事でした。 母の笑顔がどうしても思い出せない、真っ黒く塗りつぶされている、なんでこんな関係になってしまったのか分からないと説明しようとした途端に大声で泣き出してしまい、泣きじゃっくって何も言えなくなってしまいました。 その泣き方はセミナー中に周りの目など全く気にならず、自分の世界に埋没している時と似たようなものだったのかもしれません。


2010年10月10日日曜日

Y.G.塾で (世代間伝播)

その日も雨で仕事が休みだったので、私はY.G.塾へ顔を出しました。 事務所へは様々な人が訪れ、スタッフの方と暫く話をして帰って行きます。 昼過ぎにK.N.さんが見えました。 彼はY.G.塾でちょっとした有名人でした。 在日韓国人である事から幼い頃にかなり酷いいじめに遭って、いつしか心を固く閉ざすようになってしまい、「真我開発講座」を受講しても貝のように閉じ籠もったその心はなかなか開かず、僅かに開くまでに数回の受講が必要だったそうです。 彼はその後も受講を続け、真我を開いてゆくうちに友人もでき、性格も明るくなり、人生が転換してきたので、Y.G.塾の月間刊行物にも体験談が載っていましたし、「無料セミナー」に参加したときには毎回のように体験談を発表していました。 その体験談は決して饒舌なものではありませんが、辛かった過去、真我とのの出会い、そして人生の転換に対する嘘偽りのない生の声は胸を打つものがありました。 そして「真我を極めるまで受講し続ける」と誓い、機会あるごとに受講して当時十数回セミナーを受講していたのです。  「いつか、1度でいいからK.N.さんとゆっくりと話しをしてみたいな。」無料セミナーで体験談を聞く度にそう思っていました。
スタッフとの打合せが終わったのでしょう、私がボーッと座っている応接間に、K.N.さんがやって来ました。 ですが、私を見るK.N.さんの視線に何か冷たいものを感じ、私から声をかけられませんでした。 彼は何度も私を見つめ、そして視線をそらします。 どうも何か言いたい事があるようですが、話しかけづらい雰囲気が漂っているので、黙っていました。 それは私には長い時間に感じられましたが、実際にはそれほどではなかったのかも知れません、ついにK.N.さんの方から話しかけてきました。


2010年10月9日土曜日

空(から)げろ (世代間伝播)

私は中学3年の高校受験を控えた頃、神経性胃炎にかかってしまいま、それ以後胃の調子が優れない事がよくあります。 おまけに朝が弱く、目が覚めるといつも吐き気がしていました。 「オエッ!」と胃から何かがこみ上げてくるのですが、決して戻す訳ではありません。 そして胃からこみ上げて「オエッ!」っと何度かすると吐き気は治まり、あとは何を食べても大丈夫になります。 30台の前半までは血の滴るレアステーキを400g食べたって何ともありませんでした。 この「オエッ!」とこみ上げてきて何も吐かない症状を自分で「空(から)げろ」と名付けていました。
20才以降、この「空げろ」はかなり治まりましたが、28才を過ぎると再び頻繁になりました。 現場が遠くなり、朝早く起きる必要があったので余計だと思います。 ですが忙しい建築現場が少なくなり、以前のように朝早くから夜遅くまで働く事も少なくなってからは、症状もかなり落ち着いていました。 そして、Y.S.先生と面接をして激しい胃痛が起きた日から、この「空げろ」も再発しました。 しかもこれまで経験した事がないほど程度が激しいのです。 朝起き抜けには、一体いつ治まるのかと思うほど何度も繰返しましたし、日中も数十分おきに起きました。 Y.S.先生は、「君の体が、悪いものを『吐き出して』しまいたくて『オエッ!』っとなるんだよ。」と説明して下さりました。 要は、体が堪えきれなくなるほどゴミが溜まっているのです。
アパートにいる間は時間の許す限り、Y.S.先生のカセットを聴き続けました。 先生の声は「エネルギー」なのだそうで、聞いているだけでも「真我開発」に役立つのだそうです。 実際、帰宅してラジカセのスイッチを入れると途端に「オエッ!」っと「空げろ」が始まり暫く治まりませんが、落ち着くとかなり楽になっています。 カセット、ゴミ出し、そして仕事が休みの日や無料セミナーがある日はY.G.塾へ足を運ぶ事が、次の受講までに私ができる最善の努力でした。

2010年10月8日金曜日

まだ中途半端 (世代間伝播)

今回のセミナーで私は母の笑顔を2~3こま思い出しました。 断片的で朧気な記憶ですが、このときの私にとっては母と私の心を繋ぐ貴重な細い糸でした。 ただ残念な事に、やっと「ありがとう」と言えたときにはプログラムの殆どを終了していました。 「ごめんなさい」と言うためだけに1回、「ありがとう」と言うためだけに1回、セミナーを受講したことになります。
受講後に鏡を見たら、前回の受講よりも目の濁りが取れていました。 まだまだ「澄んだ目」にはほど遠いですが、嫌で仕方がなかった目の濁りが取れた事は受講の成果を実感できる嬉しい出来事の一つでした。 ですが、他の受講者のような躍動感とか感激のような高揚感には至りませんでした。 むしろ何かすっきりとしない気持ち悪さがつきまとうのです。 受講前は母に「ありがとう」とさえ言えれば、自分が抱える問題はある程度解決して「生まれ変われる」位に思っていましたが、正直言って受講前と「大差」ないのです。 良くなった所をあげればいくつも挙げられます。 ですが肝腎の精神状態が受講前以上の深い「悲しみ」に覆い尽くされ、全く覇気が出ません。 まるで、やっと言えた「ありがとう」は、何とか前に踏み出せた初めの一歩に過ぎなかったかのようです。 Y.S.先生も「まだまだ何かあるね。 せっかくここまで全力で打ち込んできたんだから、いける所までとことん真我を突き詰めた方がいいよ。」と励まして下さいました。
私もこんな中途半端な状態で終わらせたくありません。 ですが一体全体何を抱えているのかと、心の奥底を見詰めようとすればするほど、自分はまともな人間ではない、人として最も大事なことが欠けている、そんな思いにかられてしまい気持ちが萎えてしまいます。 Y.S.先生はよく「本当の自分」「真我」とは人間誰もが心の中に持っている黄金の光であり、その黄金の光は「ゴミ」に埋まって見えないだけだと説明して下さいますが、私の心の中には腐ったゴミしかないかのようです。 自分で自分が全く分からない混乱、どうにもできない無力感、そして先行きの不安の中で、とにかく今できる事を私は必死に探し求めました。

2010年10月7日木曜日

「母さんごめんなさい」そして、「ありがとう」 (世代間伝播)

2日目も相変わらずゴミばかりが出てきますが、母との思い出をいくつか思い出す事ができました。 また、昨日思い出した事はより鮮明になってきました。 ゴミ出しを続けているうちに、自分が経験したような辛い思いを子供にはさせまいと、疼く心の傷を抑えながら必死に私を育ててくれた母の気持ちが少しですが分かったような気がしてきました。 悲しく苦しい記憶を追い出し、今を生きようともがいていたのでしょう。 気が付くと、あれほど口に出す事に抵抗のあった「ごめんなさい」という言葉が自然と出てきました。 そんな母の気持ちも分からずに恨み憎んでいたことが申し訳なく思えてきたのです。 そのままY.S.先生の指示に従って心に浮かんでくる事を書き続けているうちに、いつの間にか自然に「ありがとう」と言えるようになりました。 私が抱える問題が本当に「世代間伝播」であるなら、このセミナーで気付き、今苦しんでいるこの辛さは、母が子供の頃から感じていた辛さと同質なはずです。 こんな辛い思いを幼い頃から抱えていながら、普通の家庭の親と同じ様に私へ精一杯の愛を注いでくれていたのです。 何故こんな事に気づかず、自分の辛さばかりに目を向けていたのでしょう。 申し訳なかったし、自分が恥ずかしくなるました。 それと同時に、母に対する感謝の気持ちも溢れ出てきました。 父と母がこれまで私に注いでくれた愛にようやく気が付く事が出来たと同時に、一瞬「神の愛」を垣間見たような気がしました。 私を育んでくれた両親の愛はそのまま「神の愛」なのかも知れない、そんな思いで胸が一杯になったのです。 「宇宙無限力体感コース」は看板文句通りに「神の愛」を一瞬ですが体感させてくれました。

2010年10月6日水曜日

時間から取り残されている (世代間伝播)

ゴミ出し作業を続けていくうちに、こんな事がぽつんぽつんと思い出されてきました。 でも時間はそれより早く流れ、1日目はあっという間に終了してしまいました。 このままでは今回もゴミ出しだけで終わってしまいそうです。 泣き疲れながらホテルの指定された部屋へ入り、風呂にから上がると可能な限りゴミ出しを続けました。 時間感覚が麻痺しているのでしょう、いつ寝たのかもよく覚えていません。 モーニングコールで目が覚め、食事を済ませて会場に入りました。
前回のセミナーもそうでしたが、参加者は皆、個人差はあってもY.S.先生の指示に従い、セミナーのプログラムに沿って徐々に心が変化してゆき、成果を出しています。 そんな中、私独りだけがいつまでも「ごめんなさい」の一言に引っかかり、「ありがとう」の一言が言えずに立ち往生しているのです。 ですがそれは後で振り返るから言えるのであって、受講中は廻りがどうなっているのか殆ど気になりませんでした。 自分の異常さが悲しく、何とか「ありがとう」の一言を言えるようになるために、心のゴミを吐き出し尽くしてしまいたい一心でした。


2010年10月5日火曜日

父と母 (世代間伝播)

私の母は幼い頃に父を亡くしています。 又、父は幼い頃に母を亡くしています。 祖母は2人の子供(一人は里子に出しています)を、祖父は5人の子を連れて再婚しました。 2人の再婚後に1人の子供ができました。 つまり私の父と母は「義理の兄弟」なのです。
ですから私の両親は小学校時代から互いのことを、よく知っているなんてものではないのです。 幼なじみどころか兄弟として一緒に暮らしていたのですから。 そして父も祖母の性格をよく知っています。 私や妹に向かって祖母の悪口を言っている母を 「自分の親の悪口を子供に言ったりするな!」とよく諫めていましたが、「本心から怒っている」とか「親の悪口を言ってはいけない」という道徳観からというようりは、「もう当時の事を思い出したくない」というのが本音だったのかも知れません。 当時の両親の思い出の本当に辛い部分を私は殆ど知りません。 父は決して口にしませんでした。 母が何かの折に妹にも弟にも絶対に言っちゃ駄目よと前置きしてから、ごくさわりだけ話してくれた事が何度かあっただけです。 それも長男の私にだけは話しておいた方がいいだろうと2人で話し合ってから教えてくれた事です。 当時の出来事は父にとっても辛い思い出なのは間違いありません。

2010年10月4日月曜日

母の思い出 (世代間伝播)

母からよく聞かされた祖母の悪口の中でも繰り返し聞かされたことがあります。 祖母は母の妹、つまり叔母と母を連れて、あちこちの家を一軒一軒訪ね歩いては、「この子をもらってくれませんか?」と里親を探し回っていたときの話です。 祖母と離れたくない2人は「どこにも行きたくないよ」と泣きながら祖母の後をついていったそうです。 終戦後の貧しい時代ですからどこも自分の家族が食べてゆくだけでも大変なことで、他人の子供を育てる余裕などありません。 どこも相手にしてくれずに帰路をとぼとぼと歩きながらいつも必ず、「おまえ達がろくな子じゃないから誰ももらってくれないんだよ!」とこっぴどく叱られたそうです。
叔母さんの里親が決まった日、自分もよその家に貰われてしまわないかと不安になって、泣きながら祖母の後を追いかけた母は、祖母から石を投げつけられ続けたそうです。 「付いてくるんじゃないよ! お前なんか誰ももらってくれないんだから死んじまえ!」と罵られながら。
戦後の貧しい時代、女で1つで子供2人を育てるのは今からは考えられない苦労もあったはずです。 ですが幼い子供にとって、親から疎まれ、憎まれながら受ける仕打ちは辛い出来事だったと思います。 いくら酷い事をされても子供はやはり、よその家より自分の親と一緒にいる方がいいのでしょう、母は祖母に拒まれながらもずっと追い続けたそうです。 妹と引き離されてしまった事は、その悲しさや辛さに輪をかけたはずです。
1度、里子に出された叔母が逃げ帰ってきた事があったそうです。 母は大喜びして迎えたのに、祖母は叔母のことをこれでもかと叱り付け、さっさと里親の元に返したそうで、そのときの事を話す母の顔はいつも痛々しげでした。

2010年10月3日日曜日

削り落とした記憶 (世代間伝播)

それ以外の僅かに思い出す母の顔は、どれもどことなくもの悲しげなものばかりでした。 セミナー受講まで母の笑顔の記憶がないことに気が付かなかった事自体もおかしいと思いますし、記憶にある母の表情が怒っているときのヒステリックに引きつった顔と、真っ黒に塗りつぶされた笑顔、そしてもの悲しげな顔しかないという事も異常な事だと思います。 こんな記憶しかない私は一体何なのだろう? とほとほと嫌になってきます。 でも他の表情はどうしても思い出せないのです。 まるでオカルト映画のようで気分のいいものではありません。 
何故記憶の一部が削り落とされているのかはっきりと分かりませんが、恐らく幼少期に母の顔に何かを見たのでしょう。 見たくないものだったので記憶から消去してしまったか、ちょっとやそっとでは掘り出せない奥深くに仕舞い込んでしまったとしか考えられないのです。
最初に思いつくことはやはり母の台所仕事です。 当時は6畳一間のアパート住まいでしたから、奥まった台所には小さい流しとコンロが一つであるだけで、食事支度をしている間は振り返らない限り母の後ろ姿しか見えません。 「大嫌いだ」 「死んじまえ」 「糞婆ぁ」と、祖母に対する恨みを口にしながら料理をしているときの母は、子供心にも近づき難いものがあったことはよく覚えています。
確かに祖母は決して性格のいい人間ではありませんでした。 田舎に遊びに行っても、「よく来たな」と言ってくれるのは最初だけで、後は「本当に憎っくらしいよ」 「さっさと帰っちまいな」 「もう二度と来るないな」 「ほんとにどうしようもねえ~よ~」と、 口をついて出てくる言葉は「文句」「悪口」「愚痴」ばかりでした。 私はいたずらっ子でしたから怒られるのは仕方ありませんが、祖母の口から「おばあちゃん」らしい優しい言葉をかけてもらった記憶は余りありません。

2010年10月2日土曜日

折檻 (世代間伝播)

その逆に「折檻」されたときの母の顔はよく覚えています。 ですがそんな頻繁にされたわけではありません。 いたずらばかりしていて、あまりに度を過ぎたときにきつく怒られた訳で、どこにでもあった普通の光景だったと思います。
ただ、幼少期の記憶ですから正確ではありませんが、「折檻」されたときの母の怒り方は「ヒステリック」だったように思います。 金切り声を上げながら蹴り続けられ、いくら謝っても止めてくれませんでした。 それは「躾」と言うよりはコントロールできなくなった感情のままに蹴り続けられたと言った方が正解だと思います。 1度怒ると「我を失う」傾向があったのかも知れません。
妹が「折檻」されているとき、たまたま通行人がそれを見て、「おいおい、酷いね、あれでも親かい?」 「全くね、かわいそうに。」 そんな会話をしながら通り過ぎました。 その言葉は私の胸に突き刺さり、それ以後母に優しくされたとき、この会話を思い出すことがよくありました。 「自分の母は普通の人から『あれでも親かい?』と言われるような酷い親なのかな?」と、その時の通行人の会話を思い出してしまい、悲しくなったことを覚えています。

2010年10月1日金曜日

母の笑顔を覚えていない (世代間伝播)

私が前回参加した「真我開発講座」は「未来内観コース」で、自分が死ぬ瞬間から現在の自分を見つめる「時間軸」から真我開発をするコースでした。 今回参加する「宇宙無限力体感コース」は「神の視点」から自分を見つめる「次元軸」から真我開発をするコースです。 前回、Y.S.先生の指示に従いカリキュラム通りにやったはずですが、私は「ゴミ出し」以外殆ど何も覚えていません。 何をするのか不安と好奇心で始まった前回と違い、今回は「母との関係を改善する」のだというはっきりした目的を持って参加しました。 今回のコースでも「ゴミ出し」があり、上手く進めない人は「ゴミ出し」をしているうちに気持ちに変化が現れるので、またカリキュラムを進めてゆきます。 前回セミナーの最後にやっと「ごめんなさい」言うには言えましたが、「ありがとう」とは一言も言えなかったのでその続きをするために「ゴミ出し」を始めました。 父に対しては簡単に「ごめんなさい」、そして「ありがとう」と言えるその一言をただ紙に書くだけなのに、どうしてこんなに苦しいのでしょう? 他の母親が自分の子供に接するのと同じように、私の母も私に接してくれたはずです。 他の家庭と同じように、自分の子供に対して精一杯の愛情を注いでいたはずです。 私も母が大好きでした。 それは間違いありません。 そして、私と遊んでくれた母の顔は当然笑顔だったはずです。 母が遊んでくれた事ははっきりと覚えています。 父は朝早く仕事に出て、帰ってきた頃には私や妹はもう寝ています。 起きているときに帰って来たって、食事をとりに帰ってくるか、取付け物を加工しに帰って来るだけで、用が済めばまた現場へ向かいます。 そんな父が遊んでくれる訳はありませんから、家に居る時間は母と過ごしている時間です。 それなのに、私は母の「笑顔」を全く覚えていないのです。 母が笑顔だった場面をいくら思い出してみても、顔の部分だけは墨を塗ったように真っ黒に塗りつぶされている映像しか浮かんでこないのです。 前回のセミナーで気が付いた事でしたが、母の笑顔を思い浮かべて「ありがとう」と書こうとすると、真っ黒に塗りつぶされた顔しか浮かんでこないので、赤の他人のようにしか感じないのです。