2011年1月31日月曜日

有頂天 (トラウマ)

それでもハワイでの仕事はとても楽しかった事に変わりありません。 何より仕事に自信が付きました。 自宅で父と仕事をしていただけでは、自分の腕がどの程度なのかさっぱり分かりませんでしたが、銅板工事を専門にしている業者の中で、後れを取らずに仕事が出来ましたし、仕上がりは私の方が遙かにきれいです。 納めの技術も知識も私の方が上でしたから、何処へ行っても胸を張って仕事が出来るようになったのです。
それから間もなく、更に自信が付く出来事がやって来ました。 「板金加工技術研究会」の講師でもあり、関東では最も腕がよいと噂されていた職人のP.S.さんから、忙しいので2週間ほど仕事を手伝ってくれないかと声をかけて貰えたのです。 以前から、働くならP.S.さんの元で働きたいと思っていましたから、私は喜んで手伝いに行きました。 覚えたかった銅板工事以外にも、天文台の外装やプラネタリウムの内装のような特殊な工事を数多く手掛けています。
これまで「目標」にしていた事が次々と実現してきたので、私はすっかり有頂天でした。 つい1年前までは「努力なんて報われないもんなんだな」と落ち込む事があったのに、いつの間にか「石の上にも三年」が座右の銘になっていました。  これまでJA研究所でも、「質問」はしても「発言」はほとんど出来ませんでしたが、いつの間にか自分の意見を述べるようになりました。 K.A.先生が教えて下さった事の1つ1つが、「体験」を通じて理解でき、これまでの自分がいかに「観念的」であったかも分かり、これまでバラバラに理解していた事が徐々に「統合」されだしたのです。 「新しい時代は私塾から築かれる」とK.A.先生はたまに口にしていましたが、その考えの広範さと深遠さが有機的に次々と新しい事を産みだしてゆく様は、「新しい時代への思想」を感じさせ、今まで以上にK.A.先生に惹かれてゆきました。
プラネタリウムの内装は、一見白いドーム型の壁に見えますが、ただの壁だと音が反響してしまうので、非常に細かい穴が空いた「パンチングメタル」に、星や様々な映像を映し出すのに適した輝度を持つ特殊な塗装を施したものを使用しています。 その裏には吸音材を入れて音の反響を防いでいるのです。
地球儀を想像すれば分かると思いますが、 円弧状に加工した細い角パイプを経線と緯線に沿って組み上げたものが「下地」となります。 角パイプでできた4辺はほぼ「台形」となりますので、「パンチングメタル」をこの台形と同じ大きさに切断し、「下地」にリベット等間隔に取り付けてゆきます。 このリベットと切断面は塗装されていませんから、タッチアップを行いながらの取付作業です。 アルミニウムなので簡単にシワが入ってしまいますし、塗装にも木材と同様に「方向」があります。 又、僅かでも汚れが付くと決して取れませんから、取り扱いを誤ると後でやり直しになる非常に気を遣う作業でした。 改装工事で非常に埃っぽく、しかも換気が悪く、タッチアップに有機溶剤を用いるので酔ってしまい、工期が迫っているので休憩時間も余りない上に連日の残業でしたから他の人達はぼやいていましたが、特殊工法を覚えたかった私には苦でも何でもありませんでした。

2011年1月30日日曜日

気付けよ! (トラウマ)

当然の事ですが、ストリップバーは納得がいくまで観察ができました。 熱心に観察していれば、近付いてきて更にじっくりと見せてくれます。 いつもより多くのチップが必要になりましたが、これも一生後悔しない楽しい思い出を作る為の「先行投資」だと思えば惜しくはありません。 頻繁に遊びに来てすっかり馴染み客になっていたので、舞台を降りるとドリンクをねだるりに隣に座る子達との会話を楽しみながら腰の形を必死に見詰めていました。
すっかり満足して帰宅し、シャワーを浴びながら我に帰り、自分の愚かさを呪いました。 男女を比較するから「女」と「男」の骨盤の違いを見分られるようになるのに、アラモアナでの観察は男女比が 0対10 でしたから、『全く無意味』な事をしていたのです。 仕方がないので脱衣場の鏡で自分の腰を眺めていたら、急に虚しくなってしまい、そのまま「ふて寝」してしまいました。
「女性の集団」の中に何喰わぬ顔をして潜む「元男」を見つけ出すために、私は何日も「骨盤観察」を続けましたが、努力の成果は現れませんでした。 どうしても視線は「男」を避けてしまいますし、「骨盤」よりも「局部」に視線が入ってしまうのです。 もっと大きな目標の為に投資しているにも拘わらず、つい目の前の小さな満足に終始してしまう私はやはり、大成できない器の小さい人間なのかも知れません。 帰宅してシャワーを浴びながら、我に帰る度に、いつも目的を見失い、さ迷ってしまう、志の低さを嘆く毎日でした。
そんな愚かな人間を、時は待ってくれませんでした。 あっという間に帰国の日がやってきてしまいました。 一斉取り締まりは帰国前夜も行われており、私の落胆に追い打ちをかけました。
「こんな事なら取り締まりの前に、迷わずやっておけば良かった。」
「男女の骨盤の違いくらい見分けられないで『本場』にやってくるなんて、段取りが悪すぎた。」
「大事の前で小事に気を奪われるようでは、この先何をやっても成功できないぞ。」
頭の中はそんな反省でいっぱいのまま、ホノルル空港を後にしましたが、来る時はビジネスクラスだったのが帰りはエコノミークラスとしょぼくなってしまった事も、沈む気持ちに追い打ちをかけました。
ですが、1年前にトルコ風呂でプロの女性を相手にまともにセックスができず、友人とスナックなどに行ってもお店の女の子とまともに喋れない事を気に病んでいた私が、まるでそんなことがなかったかのようにほぼ毎晩、遊び歩いていたのですから、格段の進歩があったはずです。 それなのに、この時はそんなことに「全く気が付かず」、ただ 『金髪・青い瞳・白人』 と何も出来なかった事を悔やんでいたのです。 私は「少し足りない」のかも知れません。

2011年1月29日土曜日

見極め (トラウマ)

「え~、俺には区別付かなかったよ。 沢山いるの、ハワイには?」
「沢山はいないけれど、珍しくもないよ。 俺は最初の一声で分かったけれど、お前じゃ分からないかも知れないな。」
「じゃあ、どうしたら区別付けられる?」
「地元の人間と一緒に行くしかないだろう。 『金髪・青い瞳・白人』 を珍しがっているうちは区別は付かないはずだ。」
確かに一理あります。 その日は諦めてアパートに帰りました。
その後、見習い職人とは一緒に遊びには行けませんでした。 1週間以上戻ってこない予定だった彼女が、2日後には帰ってきたのだそうです。 理由を尋ねても、
「う~ん、そんなに長い事あちこち遊び回っても、面白くないから・・・。」
と曖昧な答えしかしないのだそうです。
「勘のいい彼女だね。」
「ああ、頭は悪いくせにな。」
彼女の悪態をつく見習い職人の表情は、「勘」だけじゃなくて「力」もあり、既に尻に敷かれている事を物語っています。 とても誘い出す気にはなれませんでした。 
「こうなったら、高くても構わない! さっさとしないと、何もしないで日本に帰る羽目になる!」
と、カラカウア通りに繰り出しましたが、今一つ気乗りしませんでした。 時間になってもトップランカーどころかミドルランカーすら現れません。 先日までは「前座」と馬鹿にしていたクラスの数すらも少なくなっているのは、恐らく取り締まりが厳しいのでしょう。 しかも、誰を見ても “She was a man.” という見習い職人に声が耳から離れません。 全員が「改造人間」に見えてしまうのです。
いくら性転換手術を行おうと、「骨盤」の形は男女で異なるから、腰の形を見れば男か女の区別は付くと聞いた事がありました。 きちんと「人体骨格図」や「人体骨格標本」を見ながら解剖学の勉強をちょっとでもしておけば、こんな事で悩まずに済んだはずですが、これまで特に必要性を感じなかったので、そんな事はしませんでした。 「知識」を「知識」のまま終わらせてしまい、実際に役立つ「智慧」にまで昇華させられない自分の愚かさを呪いましたが、「後の祭り」です。 カラカウア通りから少し離れ、比較的腰のラインがはっきりと見える服を着た女の子をじっと眺め、それからそこいら辺に突っ立っている男の腰をみて、違いを見いだそうとしましたが、男は「トイレットペーパーの芯」に、女性は「砂時計」にしか見えず、先日ダウンタウンで見たような「元男」はとても発見できそうにありません。 しかも、男女半々に見比べるべきなのに、気が付くと 1:9くらいの割合になってしまい、「女の尻をジロジロ眺めている日本人観光客」と化していました。 場所が悪すぎます。 アラモアナのストリップバーならいくら眺めても誰にも咎められませんから、場所を移動する事にしました。

2011年1月28日金曜日

異文化 (トラウマ)

「何でだろうな? 何かあったのかな?」
私を慰めようにも言葉が見つからなかったからなのか、それとも本当に納得がいかなかったのか、彼は暫くの間ダウンタウンをぐるぐると廻りました。
「駄目だ、本当にいないや。 今日は諦めようぜ。」
「う~ん、本当に残念だな。 もう、あんまり工期も残っていないのにな。」
そんな会話をしながら、車がダウンタウンを出ようとした時、遠目にも場違いと思うような女性が目の前をこちらに向かって歩いています。
「あれは?」
「いたよ、やったじゃん!」
「でもどうする? 1人しかいないんだぞ。」
「俺はいつだって来られるんだから、お前が行くべきだ。」
「いいのか?」
「勿論だよ」
いつの間にか芽生えた熱い男の友情に深く感謝しました。 車はさっきのようにゆっくりと近付きましたが、さっきのように素通りせず、その女性の横で止まりました。 カラカウア通りのトップランカーには劣りますが、ミドルクラス以上の実力は充分にあります。 「金髪・青い瞳・白人」と3拍子揃っていますから、もし半値だったら超お買い得です。 頭の中は既に、本番の “味” がどうなのかに思考の焦点が映っています。
「今日は誰もいないけれど、何かあったの?」
「今日から一斉取り締まりなのよ。」
「あ、そうだったのか。 カラカウア通りにから来たんだけれど、あっちにもいなかったんだ。」
「ダウンタウンだけじゃないみたいよ。」
「いつまで?」
「分からないわ。 でも暫く続きそうね。」
「そうか、残念だけれど、又今度の機会にするよ。」
そう言って見習い職人は車を発進させてその女性から遠ざかりました。
「何で? いいじゃん、今の子。 俺、全然OKだよ!」
彼は一瞬困った顔をしてゆっくりとこう言いました。
“She was a man.”
確か、中学1年の英語の授業で、「不正解例」として先生が黒板に大きく書いたような記憶がある例文です。 時代が、場所が変われば、言葉も変わってゆく。 言葉は生きているんだなと、しみじみ思いました。

2011年1月27日木曜日

迷宮 (トラウマ)

ところがその日、カラカウア通りにはいつものように客を取っている女性はいませんでした。 そして、数少ない出勤者である「前座」クラスは、いつもと違って強気に出て、値下げに全く応じません。 ライバルがほとんどいないので突然「真打ち」になってしまい、プライドも急に高くなったみたいです。
「駄目だよ、全然値下げしやしない。 ダウンタウンへ行こうぜ。」
「え、他にもあるの?」
「ああ、ここの半額程度だよ。 ここは観光客相手だから高いんだ。」
「半値? じゃあ、そっちへ行こう!」
ダウンタウンへ向かう途中、あれこれと聞いてみると、彼はカラカウア通りで遊んだ事はないそうです。 私があんまり「カラカウア通り」と口にするから来ただけで、遊ぶとしたらダウンタウンなのだそうですが、今の彼女ができてからはずっと足が遠のいてしまったそうです。
「へ~、じゃあ、今の彼女はすごくきれいなんだろ?」
そう尋ねると、
「”心” がきれいだ」
とだけ言って苦笑いしていたので、それ以上彼女の話はしませんでした。
カラカウア通りと違い、ダウンタウンは薄暗い所でした。 そして車は同じようなところをぐるぐるしているような気がします。
「道にでも迷ったの?」
「いや、いないんだよ。」
「え、何で?」
「分からない、あ、いたいた、あそこだよ。」
そう言うと車をゆっくりと走らせ、歩道の角に立っている女性に近付きました。 しかし見習い職人は、そのまま車を停めずに素通りさせました。 私も彼の判断は適切だと思いました。 いくら半値でも、あれじゃいけません。 何故彼女が明るいカラカウア通りで働かないのかも理解できました。 薄暗いダウンタウンで、移動中の車でも一瞬で判断可能なのです。 余計なお世話かも知れませんが、あまりこの商売に向いていないなと思いました。
「あ、もう1人いた。 今度はどうだろう?」
そう言いながらさっきのようにゆっくりと車を近づけました。 そして、今回も車は素通りです。
「今日は不作だ。」
そう言われた時、私は白土三平の「カムイ伝」を思い出しました。 江戸時代、士農工商の身分差別政策の中、小作人ダンズリの息子として生まれた「正助」は、当時御法度だった文字を覚え、学問を学び、農業改革を推し進めてゆきます。 数々の苦難を乗り越え、商品価値の高い綿花の栽培などを成功させた正助ですが、不作には勝てず1度は「村抜け」をします。 自然の偉大さの前には、人間なんてちっぽけな存在に過ぎないのです。 折角、「三種の神器」との思い出作りができると思ったのに・・・と落胆する自分の姿が、その正助とダブったのです。

2011年1月26日水曜日

思い出作り(本番) (トラウマ)

夕食の時、
「今日、逆ナンされちゃった。」
「嘘こけ!、あり得ない。」
「本当だよ、金髪、青い瞳の白人が、甘い笑顔で話しかけてきたんだ。」
「何処で?」
「水族館の前・・・」
「で、どうしたの?」
「慌てて逃げた・・・」
「何で?」
「ちょっと怖くなって・・・」
「え、もしかして・・・」
何年も住んでいるので、駐在員はさすがに分かったようです。
「あの辺り、多いらしいよね。 よく聞くし。」
「“なよッ” としていたのに、近くで見たらすごくがっしりしていて、あんなのに襲われたら、今頃夕食も取らずにベットで一晩、泣いてなきゃならない所でしたよ。 おかしいって分かったから、走って水族館に逃げたけれど、あんなに人を怖いと思った事は初めてですよ。」
あの男は多分ホモだと思いますが、だからといって話しかけた男が強姦すると決めつけて人に話する私もどうかと思います。 ですが、「未知との遭遇」を果たした私にとって、理性的な推測などは本能が訴える危機の前には何の意味も持ちませんでした。 その日から、ワイキキより先には決して一人では行かなくなりました。 そして、今でも体付きがよくて “ねちっ” とした男は大の苦手です。
翌日、現場で現地の職人に水族館周辺の事を聞きました。 再び大笑いされた後で、「男色」の気がないなら、そんな車には1人で乗り込まないに超した事はないと言われ、私の勘に狂いはなかった事を確信しました。 
その数日後、見習い職人が
「今週末から暫く、彼女がいないから、一緒に遊びに行こうよ。」
と誘ってきました。 その彼と、その兄貴分的存在で最も真面目にやる職人の2人は、ほとんど私と組んで仕事をしており、すっかり打ち解けていましたが、彼はその兄貴分に遊びに行く事を知られたくないようで、その日は何を話すのもヒソヒソ話でした。
その日の夕方、約束の時間にアパートの前まで車で迎えに来てもらい、一緒に食事をしながら時間が来るまで待ちました。 カラカウア通りには日没から「立ちんぼ」をしている女性が現れますが、あまり客が取れない者が早くから出勤してくる訳ですから、決して焦ってはいけない事は数回のマーケティングリサーチで分かっていました。 トップランカーが現れる時間になると、客の数も増えますし、交渉が活発になってきますから、時間との勝負になります。 料金はまちまちですが、ランキングとほぼ比例している「適正価格」でした。 見習い職人は、観光客はぼられるから、俺が交渉してやるよと、仕事の時には決して見せない自信満々の態度でした。 頼れる友達ができて本当によかったなと思いました。

2011年1月25日火曜日

恐怖 (トラウマ)

その週末、いつものようにワイキキビーチを散歩し、その先にある水族館にまで足を伸ばしました。 ずっと行きたかったのですが、もっと興味のある場所が沢山あり、後回しになっていたのです。 受付でチケットを購入しようとすると、オープンカーに乗った男が私に向かって声をかけ、手招きしています。 観光客に道を聞く訳はないから、一体何の用だろう? とダイヤモンドヘッドからワイキキを抜け、アラモアナへと続く道に停まっている車に近付きました。
「ハワイへは遊びに来たのかい?」
「いいえ、仕事できました。」
「何の仕事?」
「ダイヤモンドヘッドで新築中の別荘の屋根葺きです。」
「へ~、そうなんだ。 ハワイは気に入って貰えたかな?」
「ええ、とっても」
地元の人とする、いつもの会話です。 ですがこの時、私には上手く言い表せない???を感じていました。
明るく開放的な雰囲気は、例え「ジャパンパッシング」をした入国審査官にですら「好感」を持たせてくれるものがありましたから、出逢う人、出会う出来事の全てが楽しくて仕方なかったので、この???は、ハワイに来てから始めて感じるものでした。 ですが、それが何なのかは全く見当が付きませんでした。 面長で金髪を短く刈り上げ、 シートに腰掛けていても長身だと分かるその男は、離れていると細身に見えますが、車の隣で見ると胸板も厚く、腕も丸太のような体付きでした。 そして、そんな事を感じさせない優しそうな笑顔で話を続けます。
「○○は好きかい?」
「え、○○って何ですか?」
始めて聞く単語です。 恐らくスラングでしょう。 優しそうな笑顔が何となく「ねっちっこく」感じました。 彼はハンドルを握っていた掌を何かを握るように丸め、下に降ろし、下腹部の前で上下に動かし、目をとろ~んとさせました。 
「やばい!」
本能的にそう感じました。 一瞬身じろぐとその男はねちっこい笑顔で私を真っ直ぐ見つめています。 噂には聞いていましたが、生まれて始めてホモに出逢った瞬間でした。
「え、ええ、す、好きですよ。」
口ごもってそう答えると、水族館を指差し、
「もう行かなくちゃ。」
そう言うなりねちっこい男に背を向けて、周りで一番人が多い水族館に走ってゆきました。 入口でチケットを買う時に、チラリと車の方を振り返ると、こっちを見つめながら微笑んでいます。 怖くなり慌てて中に入りましたが、追っては来ないかと気になり、中で何を飼っているのか全く覚えていません。 窓からさっきの男がまだ道路にいないか何度も確認し、水族館からアパートまで人の多くいる場所を選んで歩きました。 何度も後ろを振り返り、周りを見回しながら歩いているので、端から見たら挙動不審者だったはずです。 護身用のバックルナイフに何度も手をかけ、咄嗟にバックルからナイフを取り出せるように構えながら、足早にアパートへと向かいました。

2011年1月24日月曜日

葛藤 (トラウマ)

それでも「防戦に次ぐ防戦」の中で、少しずつですが「免疫」を身につけたようです。 初戦のように不用意に相手の「間合い」に踏み込んで行かなくなりました。 常に相手のランクに応じた「間」を取る事によって「平常心」が生まれ、今夜は誰と思い出作りをしようかと、作戦遂行のために必要な判断を下せるようになりました。 一先ず仕切り直しが必要ですから、再度、通りの端から端までゆっくりと歩き、「間合い」に気を付けながら「品定め」をやり直しです。 ランキング上位の者はとても甲乙付けがたいものがあります。 それはまるでオーラを身にまとったかのような迫力すらありました。 女性経験の少ない私にとって、このフェロモンオーラだけで迫力負けしてしまい、冷静さを維持するのは容易な事ではありません。
「え~い、この際、誰だっていいや!」
と迫力負けして玉砕覚悟で突撃しようとしている自分がいます。
「待て、よく見て、納得のいく選択をするんだ。 後悔したくないだろう?」
と冷静に諭すもう一人の自分がいます。 思考は徐々に混乱を始めました。 下半身がその混乱に拍車を掛けてきます。 毎日ワイキキビーチで鑑賞ばかりしていたので、我慢の限界ギリギリなのです。
「電気消せばみんな一緒だよ!」
「馬鹿! それならあそこの値段安そうなのにすればいいだろう!」
「いや、それは勘弁。」
「だろう、何が大事かよく考えて行動しろ!」
その時、第3の自分が割入って来て、こんな発言をしました。
「この国に『美人局(つつもたせ)』はいないんだろうな?」
私も、もう一人の私も、そして下半身も、一瞬、“FREEZE” してしまいました。 そう言えば、来る前に読んだガイドブックに、この通りで売春婦を買って、トラブルに遭う者が多いから注意するようにと書いてありました。 もう一度周りを見回すと、さっきまで甘く誘っていたその目は、獲物を狙う野獣のようにギラついて見えてきました。 まだ工期もあることですし、怖くなったのでその日は意気消沈して引き上げました。
翌日、現場の職人に色々と尋ねましたが、力一杯笑われてしまいました。 美人局もいるそうですし、警察に通報されれて捕まる外国人観光客もいるそうです。 そして、「危ないからそんなところには行くな」と注意されました。 一人、年が近い見習い職人がいて、他の職人がいない時に詳しく教えてくれました。 一般人はあまり “Street Girl” など買わないのだそうです。 私の周りの職人は、結構「女遊び」が好きな人が多かったのですが、 お国柄の違いなのでしょうか。 その若い職人を誘って遊びに行こうとしましたが、彼女と一緒に暮らしているから、夜、盛り場をうろつくのは勘弁してくれ。 今、言い訳考えているから、来週行こうという事になりました。 自分で警戒しながら遊びに行くより、地元の人間の案内があった方が安く楽しく遊べますから、楽しみは後に取っておく事にしました。

2011年1月23日日曜日

思い出作り(の下見) (トラウマ)

確か、英語では “Street Girl” と呼んだと記憶しています。 夜、ワイキキの近くにあるカラカウア通りに行くと、一目でそうだと分かる女性が道行く男に声をかけています。 当たり前かも知れませんけれど、この国にも沢山いました。 物価は日本よりずっと安いのに、要求してくる料金やホテル代は日本と大差なかったと記憶しています。 つまり「割高感」がありましたが、せっかく “常夏の島” へやって来たのですから、「金髪で青い瞳の白人娘」といい思い出を作りたいな、と思っていました。 今考えれば、何故 “常夏の島” なのにアングロサクソンなのかと自分でもとても疑問です。 多分、中学2年の時、友人に見せてもらった「スエーデン直輸入」の艶めかしい写真集が頭から離れないままだったのだと思います。 今風に言えば「中2病」に罹患し、自然治癒せずに10年が経過してしまったのです。 しかもワイキキビーチに行くと、隠しているのかいないのかよく分からないほど小さい三角形の布と細い紐でできたビキニの「金髪・青い瞳・白人」娘ばかりなのですから、他のイメージなど全く浮かんできません。 1つ気になる事は、私の記憶では、ワイキキで海水浴や日光浴を楽しんでいる人達の約8割が「三種の神器(金髪・青い瞳・白人)」を備え、身にはビキニしかまとっていないという事です。 冷静に考えれば、「絶対にあり得ない」はずですが、それに気付いたのは20年以上経過して、このブログを書いている最中ですから、「中2病」はまだ完治していないのかも知れません。
「三種の神器」を求め、いざカラカウア通りに行ってみると、白人よりも黒人の方に、目を奪われてしまいました。 メリハリのある流線型スタイルは「凶器」と言ってもいい程、衝撃的なものでした。 つい、「ス~ッ」っと惹き寄せられて、気が付いたときには既に相手の「間合」に入っていますから、これが「果たし合い」であれば私の命はとっくに尽きている所です。 笑顔でこちらを見つめ、首を僅かに傾げながら、思わせ振りなウインクをし、しなわせた腰に手を当てて、脚を交差させてながら身体をこちらに向け直し・・・・と、初対面のこの女性は次々に技を繰り出してくるので、私は防戦一方でした。 初戦の第1ラウンドで「秒殺」されたのではあまりに情けない話ですから、慌てて後ろに下がって「間合い」を計り、周囲を見回しました。 驚く事に、ランキングが更に上位の者が何人もいます。 この場は1度退き、もっと広い視野を持って選択しないと、後で悔やむ事になってしまいます。 時間はありますからゆっくり「品定め」をしようと、他のランキング上位者に近付いてゆきました。 ですが、ランキングの上位者になればなるほど「間合い」が広く、かなり距離を取ったつもりでも確実に攻撃を仕掛けてきます。 近付く度に「防戦一方」で敗退を余儀なくされまい、「日本男児」の名折れもいいところでした。

2011年1月22日土曜日

夜の盛り場 (トラウマ)

私はアルコール類を一切飲めません。 K.A.先生から砂糖と「酒」の害は殆ど同じだと言われていた事もありますが、父も決して強くありませんし、飲んでも旨いとは思えないので、飲む気にはなれないのです。 ですが、友達と飲み屋に行くのは好きでしたので、よく遊びに行ってました。 アパート周辺のロケーションが頭に入ると、夜の盛り場が何処にあるのかも自然に見当が付いてきます。 夕食後、散歩がてらに盛り場を歩き回り、気になったお店に入ってみました。 入るなり、体格がいい、ちょっと柄の悪そうな2人組の男に声をかけられました。
「20歳以下は入店禁止だ!」
「私は24歳です。」
「嘘こけ、ならパスポートを見せろ!」
と言ので、取り出してみせると、
「Sorry」
と入口に戻ってゆきました。 店の真ん中にステージがあり、その周りを囲むように椅子が置いてあり、入口の反対側にはカウンターがあります。 店内はフルボリュームで音楽が流れ、ステージの上では女性が服を脱ぎながら踊り、それを眺めながら酒を飲む訳です。 気に入ればチップを出し、チップをはずんでくれた客には近付いて来てじっくりと鑑賞させてくれます。 ステージを降りると休憩を取る子もいれば、気に入ったお客との会話を楽しんでいる者もいます。 女性にドリンクを奢れば、ゆっくりと話し相手になってくれますし、そうでなければ直ぐに他のお客の方へ行ってしまいます。 誰かに説明してもらわなくても、暫く周りを眺めていれば直ぐに理解できる分かりやすい「明朗会計」システムでした。 30分もしないうちに、ステージで踊っている女性にチップを渡し、気に入った女性を呼んで会話を楽しんでいる自分がいました。 そして「金髪は下の毛も金髪なのか」という、小学校から持っていた疑問にも、たくさんの模範解答を戴きました。
日本ではスナックなどに行っても、お店の女の子ともろくに口がきけないかったのに、何故ハワイでは周りの人達と同じように振る舞えたのか、今考えても不思議です。 ですがこの時、私は自分の振るまいに全く疑問を持たず、このお店を出ると2件目のお店へと向かいました。 1件目でお店の雰囲気に慣れてしまった私は、2件目ではすっかり盛り場に馴染んでいました。 警備員というよりは「用心棒」と言った方がいい男達に向かって “Hi” と声をかけ、すたすたと入っていきましたが、今度のお店は何も言われませんでした。 その代わり、お店の女の子には代わる代わる「あなたは何歳なの?」と聞かれました。 私は中高校生の頃は「老け顔」と言われていましたが、19歳の時にJA研究所でトレーニングを受けると、1ヶ月後には「童顔」と言われるようになり、23歳になっても高校生と間違えられる事がありました。 駐在員の話では、日本人は最低でも5歳は若く見られるそうですから、童顔な私は中高生が遊びに来たのかと間違えられてしまうようです。
翌日の朝食の時、昨晩は何処を遊び歩いていたのかと皆に尋ねられたので、盛り場をうろついていた事を告げると、よく1人で知らないお店に入る気になるなと呆れられました。 ですが、私には一つ一つの出来事がとても新鮮な体験で、楽しくて仕方がなかったのです。 他の職人3人は、誘っても「英語が話せないから」と尻込みしていきませんし、駐在員は図面をさっさと描き上げなくてはいけないか、疲れを取る為にゆっくりと休みたいかのどちらかだったので、私はほぼ毎晩、1人で遊びに行ってました。




関連記事 「砂糖」

2011年1月21日金曜日

常夏の島 (トラウマ)

訓練校を卒業した年に、業界紙の求人広告が目に入りました。 ハワイで銅板屋根工事をする職人を募集していたのです。 「こりゃ、求人率高そうだな。」と思ったので、大して期待もせずに面接を受けに行ったら、応募したのは私一人でした。 バブルによる建築ブームで、何処も職人が足りない時代だったのです。 たった40日、実質稼働日は30日程度でしたが、以前、英語を必死になって覚えた事がかなり役立ちました。 日本では一般的に行われている「平葺き」ですが、現地ではほとんど行われていない為、「技術指導」という事で入国しようとしましたが、入国審査に引っかかり、面接に2時間以上かかりました。 ジャパンパッシングが激しい最中に、ワーキングパミットも所持していない「労働者」を日本から受け入れる訳にはいかないのでしょう。 一緒に行った他の3人は全く英語が話せなかったので、私が審査官と2時間も話し続けたのです。 幸いな事に、当日はバングラディッシュかインドだったと思いますが、十数名の「不法労働者」らしき集団も入国審査に引っかかり、形だけでも「技術指導」を取っている私達に構っていられなかったらしく、「放免」となりました。 
材料などは予め加工し、日程に余裕を持たせて輸送しておいたのですが、いざコンテナから出す段階で「無作為抽出検査」に引っかかり、10日近くも港で足止めを受けてしまい、全く仕事になりませんでした。 アパートは3LDKで、元請会社の担当者と同居です。 場所はワイキキとアラモアナの間にあり、距離も大して離れていませんでしたから、材料がコンテナ出しされるまでは観光気分に浸ることができました。
食事は自炊でしたが、好きな食材を欲しいだけ選べました。 仕事が終わるとスーパーに寄り、アパートに帰って料理しました。 肉やチーズを始めとする私の好物がとても安かった事と、おいしい日替わりスープが売っていたましたので、毎日が「バイキング」のように感じました。
親方も他の2人の職人も、「英語はちょっと・・・」と苦手意識が強くてコミュニケーションが取れないので、現地の職人とはいつも私が話をしていました。 又、昼休みや休憩時間もクーラーの効いた事務所で食べていましたが、私はいつも現地の職人達と食べていた為にとても仲良くなれました。
労働時間の違いにはちょっと驚きました。 日差しが強い為でしょうけれど、朝7時から仕事を始めます。 途中休憩はなく、11時から11時半が昼食時間です。 そして3時半には仕事を終えて家に帰ってしまいます。 日本のように途中で何処かに寄ったりせず、皆、自宅へ直行する事には感心させられました。 私達は5時から5時半位まで仕事をしていましたが、気候に合った有効な時間管理なのかも知れません。 仕事が終わって自宅に帰ってからの時間がたっぷりとありますから。 
仕事のペースはのんびりしたもので、日本のように「競争」して仕事をするような習慣はないようです。 後日、証券会社に勤める友人から聞いた話ですが、バブル最盛期にあの野村證券のハワイ支店は3時頃には営業終了して社員は自宅に帰っていたそうで、「証券業界七不思議」の1つとまで言われていたそうです。 私は南国ののんびりとした雰囲気が益々気に入りました。
施主とは2度しか会っていませんが、2回目に食事をご馳走してもらいました。 何をしている人なのかよく分かりませんが、九州に住んでいて、ハワイに来る時は「自家用ジェット機」に乗ってくるのだそうです。 元々は40人乗りだったそうですが、そんなに人数を乗せる事もないからと、12人乗りに改造し、ベットみたいな大きいシートに取り替えて、カウンターバーを設置したそうです。 一等地のダイヤモンドヘッドに建てた別荘は、大勢の客を招く事ができる作りになっていて、ビリヤード台も置くとか言ってましたし、寝室が何部屋もありました。 それが奥さんへの「結婚○○周年祝い」のプレゼントとして建てたと聞いた時は「棲む世界が違う」と思いました。

2011年1月20日木曜日

成果 (トラウマ)

 K.A.先生は講演会の度に、そしてトレーニングでも頻繁に、「性力」の重要性を強調していました。 仕事ができる奴は間違いなく女性に強くて精力も強いと繰り返し聞かされていた私にとって、この日の経験は、私にこれまで以上の努力が必要な事を痛感させるものでした。 インポテンツだったのがかろうじてではあってもセックスができるようになった事は大きな前進ですが、何度も中折れする所を女性にリードされ、しかも手で射精寸前まで刺激してもらったから、やっとできたセックスです。 例え彼女ができたとしても、全てを正直に告げて、こんな事をしてもらわない限りはまともにセックスできないのでは余りに情けなさ過ぎます。 もしそんな事を受け入れてくれる彼女ができたとしても、今の私はその彼女に何もしてあげられないだろうなと考えた時、仕事はできない、女性の気持ちも理解できない私は何の価値もない人間に思えて仕方がありませんでした。
ですが、トルコ風呂に2回ほど行ってから約半年後、私は仕事に対しては多少の自信を持つ事ができるようになりました。 当時通っていた職業訓練校から出品した作品が、全国職業訓練校の卒業制作展の金属加工部門で最高賞を受賞したのです。 当時参加していた「板金加工技術研究会」という板金加工技術の保存・発展を目的とした同好会で覚えた技術を使い、一枚の銅板を半球形に加工した物を2つ作り、それを半田で繫ぎ合わせた1尺玉(直径約30㎝の球)を作りました。 その受台には龍の爪をイメージした物を作り、その1尺玉を握らせました。 さらに材木を加工しパテ盛りして、3色の人口緑青を塗布して苔生した岩のように加工して龍の手を指し込みました。 後で知った話ですが、将棋の「龍王戦」の祝杯も龍玉を象った似たようなイメージなのだそうです。 更に60㎝×1.2mの銅板に龍の打ち出しをして硫酸銅で古びをかけ、額縁には塩化第2鉄を使って銅板を赤錆色にしました。 自分で言うのも何ですが、レベル的には職業訓練校のレベルではなく、「腕自慢」の職人が製作するレベルにかなり近付いたものです。
ところが、出品前にK.A.先生に見ていただいたら、散々コケにされました。 玉台として作った龍の手は鱗や皮膚の質感がリアリティーに欠けており、自分が作りたい作品のイメージが今一つ不鮮明である事と、作品として表現する為の技術が未だ未熟であり自分の持つイメージを表現しきれない事。 「打出物」も龍の姿に動きがない中途半端な形であることや龍の表情にも龍の持つ迫力がないのは、画力と表現力に必要な技術が伴っていない事を指摘されました。 自分でも作っている時は自己満足に浸っていましたが、指摘された内容を自分の目で確認すると、欠陥だらけの作品に見えてきました。 確かに「満足」できるものではありませんでしたが、何処がどう悪いのか具体的には分かりませんでしたから、K.A.先生の指摘で自分の今後の課題がはっきり見えた事は大きな励みとなりました。 
後日、JA研究所のトレーナーから、
「K.A.先生、すごく誉めてましたよね。 貶しているようでも、あれが先生の褒め方だって分かりました? 天狗にならないようにきつい言い方してたけれど、ここまで努力して成長してきた事を、先生はとても喜んでいましたよ。 教えた事を素直に聞いて、コツコツやってきたからここまで来られたんだって言ってましたから、これからも頑張って下さいね。」
と言われた時、約3年、脇目も振らずにK.A.先生の指導通りに努力してきた事がやっと成果を出し始めた事が実感できました。 ずっと頭から離れなかった「成長」という言葉を、やっと自分のものにできたのです。

2011年1月19日水曜日

虚無感 (トラウマ)

直ぐに身体を洗ってもらい、タオルで拭き終わって服を着る時、彼女が話しかけてきました。
「私は好みじゃなかったみたいね。 私達はお客さんの前で服を脱ぎながら、股間を見ているの。 服を脱いでも立たなかったら『好みじゃない』って判断するのよ。 男の人は好みなら何もしなくても興奮して勝手にいってくれるけれど、好みじゃなかったら精一杯サービスしても時間内にいってくれない事もあるからね。 お客さんが服を脱いだ時に直ぐに分かったわ。 私は好みじゃないって。」
「そんな事ないですよ。 インポなんですから。」
「あら、インポは全然立たないのよ。 お客さんはちゃんと立つじゃない。 相手が好みじゃなかったり、未だ女性に慣れていないから強い刺激がないといかなかったりしても、それはインポとは別よ。」
「全く立たないのに来る人がいるんですか?」
「いるわよ。 何をしても全然立たない人って。 あれじゃどうしようもないわね。」
最後にそんな話をされて、ちょっと気が楽になったのでしょうか、私はこれまで誰にも口にした事がない女性コンプレックスの事を話ししました。
「そうだったの。 確かに女慣れしていないみたいだものね。 私達の同僚の中にはお客さんでいっちゃう子もいるんだけれど、私は彼氏でもいった事がないのよ。 正直言ってオルガスムスに達する子達が羨ましわ。 私も女として生まれたんだから、一度でいいからそんな経験してみたいのよ。 私達、2人とも暗いのかもね。 でも、時間ギリギリでいってくれてホッとしたわ。 お客さんがいってくれないと、お金もらうの悪い気がするもの。」
そんな会話をしてお店を出て行きましたが、正直、かなり落ち込みました。 中学生の頃から憧れていた女性とのセックスとは、こんなに虚しいものだとは思ってもいませんでした。 そのまま家に帰る気にもならずに暫く近所をブラブラしていましたが、虚しさだけがいつまでも私の心を支配し、消える事はありませんでした。
その後も、マスターベーションをする際はソフトな刺激とイマジネーションを使う事に心掛けましたが、もう一度トルコ風呂に行く気にはなれませんでした。 私が行ったお店の料金は、「外1、内2、90分」、つまりお店に1万円、トルコ嬢には2万円、時間は1時間半という、吉原では標準的な店でしたが、3万円もかけて虚しい思いをする事がとても馬鹿らしく思えてならなかったのです。

2011年1月18日火曜日

時間切れか? (トラウマ)

アクシデントによる一時中断の後、私を浴槽に入れると後ろから抱きしめ、手で下半身をまさぐってくれた時はとても気持ちよくなり、再び勃起しましたし、向かい合って私の両足を肩に担ぎながらしてくれた尺八もそれなりに気持ちがよいのですが、ちょっと刺激を弛めただけで直ぐに萎えてしまい、前回の女性のように勃起が持続しないのです。 おちんちんだけでなく、気持ちも委縮しているかのようでした。
それは肝腎のベットプレイでも同じでした。 お店に来る前は「あんな事してみたいな」 「こんな事しても大丈夫かな」と、あれこれ想像しながら期待に胸と股間を膨らませていたくせに、いざ、
「好きにしていいのよ」
と言われると、何1つできずにおたおたしてしまい、女性が何か言うとただ「はい」としか答えられないてような有様ですから、自分からやりたい事は何一つできませんでした。 それどころか、まごまごしてばかりいるので与えられた90分はどんどん消化されてしまい、残り時間も少なくなってしまいました。 前回同様、女性が上になってくれたのはいいのですが、さっきのように直ぐに萎えてしまいました。
「ごめんなさいね、このままじゃ、1回もいかないで時間になっちゃいそうね。 今までもこうだったの?」
そう尋ねてきたので、
「今回が2回目で、前回は手でしごいててくれて、いきそうになったら中に入れさせてもらいました。」
「そうね、それでもう一回やってみましょう。」
チラリと時計を見ながら彼女はそう言って、だらんと力なく垂れ下がり小さくなっているおちんちんを触り始めました。 直ぐに萎えてしまう事に加え、時間も押していたので仕方ありませんが、ぎゅっと握ってかなり強くしごき始めました。 「そりゃ、頼りないかも知れないけれど、一番大切な所なんだから、もうちょっと大事に扱って欲しいな。」と思いましたが、気持ちも委縮しているのでには出せませんでした。 そんな思いとは裏腹に身体は刺激に反応し始めました。 「溜まって」いるからなのでしょうが、色気を殆ど感じられない環境な上に、左手でセンズリするような雑なしごき方なので、普段自分がしているセンズリよりもいきそうになるのに時間がかかりました。 一生懸命に私のおちんちんをしごいている彼女を眺めているうちに段々と虚しくなってきました。 「わざわざ金かけて、こんな気分になるなんて、俺は一体何しているんだろう?」と天井を見つめているうちに気持ちが落ち込んできました。 いつもだったらそのまま萎えてしまうパターンですが、彼女もプロとしての意地があるのでしょうか、右に左にと手を入れ替えながらもペースは全く落としませんでした。 そのままボーッとしていると急にいきそうになったので、「いきそうです。」と告げるなり、身体の向きを変えながら私のおちんちんを自分の股間に押し込み、激しく腰を動かしました。 何だか全く色気のないセックス白けていましたが、身体は白けずにちゃんと反応してくれました。 間もなく射精し、今回もジ・エンドとなりましたが、決してハッピー・エンドではありませんでした。

2011年1月17日月曜日

再び! (トラウマ)




女性のリードがあったからとはいえ、セックスができた事は私にとって大きな前進でした。 2年前まではマスターベーションどころか勃起すらまともにしなかった私が、辛うじてではあっても女性とセックスできるところまで漕ぎ着けたのです。 この日を境に世界が違って見えるような気がした程、嬉しい出来事でした。 そして、女性のリードやテクニックがなくてもセックスができるように、マスターベーションの際は弱い刺激でする事を心掛けました。 エロ本も水着、シースルー、チラリズムなどの想像力をかき立てるようなものを選んだり、風呂場ではお店でもらったオナローションを使い、自分の腰使い以上の動きをしたり膣圧以上の力でペニスを握らないようにと工夫をしました。 最初のうちは刺激が少ないためにどうしても途中で萎えてしまいました。 ソフトな刺激と想像力だけで勃起を維持するのはそんな簡単な事ではありませんでした。 あれこれ工夫しているうちにに何処をどう刺激すると快感が得やすいか分かってきたので、萎えそうになった時には勃起を維持する事を優先しました。 僅か1ヶ月という短い期間ですが、かなりソフトな刺激でも勃起を維持して射精ができるようになったので、特訓の成果を確認する為に、前回同様に混んでいる月末を避けて翌月の10日前後まで待ち、未だ明るい時間に再びトルコ風呂へ向かいました。 途中で萎えたりしないように、3日前からマスターベーションも控え、準備満タンに闘志がみなぎっています。
前回の女性は休業日だったので他の女性でしたが、今度はちょっとがっかりでした。 前回のように細身ではなく、下半身がかなりぽっちゃりとしており、胸は大きかったのですがかなり垂れていました。 料金は同じでも、見た目は明らかに1ランク落ちています。 その上テクニックかなり劣っていましたし、一番大事な部分の扱いが前回の女性と比べて「雑」でした。 例えおちんちんが萎縮してしまっても直ぐに立ち直らせてくれる魔法の指使いもなければ、余計な事を考えさせない気遣いもありませんでした。 その上、服の脱ぎ方とか、タオルで身体を隠す仕草など、動作の一つ一つが色気に欠けています。 マットプレイもやる事は同じなのですが、前回のように常に手、足、胸、口でおちんちんへの刺激を決して忘れない「心遣い」がなく、決められた手順をこなしているだけの通り一遍なサービスに感じたのです。 ですから私はあまり興奮しなかったのですが、3日間我慢したせいでしょうか、珍しく下半身だけは興奮したようです。 女性は聞き分けのない私の息子を掴んで挿入したのですが、前回の女性よりも締まりがない膣の中は「暖かい」事以外には何も感じられず、腰を動かし始めて間もなく、いつものように萎えてしまい抜け落ちてしまいました。 すると、
「あら~っ」
と大きな声を出して、そのままプレイを中断されたので、グサっと胸に突き刺さるものがありました。 前回もマットプレイで萎えたのですが、「中断」をせずに常に股間を触り続け、自然に浴槽でのプレイへと移行したのですが、今回は「人身事故により運行を一時見合わせております」みたいな中断の仕方でした。 私のせいなのです 彼女は決してそんなつもりがないのだと思いますが、「え、インポなの?」と直接言われたようでもあり、責められているようでもあり、嘲笑われたようでもありました。 例え学校でお漏らししても、こんな気持ちにはならなかったはずです。

2011年1月16日日曜日

心遣いと指使い (トラウマ)

そんな私を察してくれたのでしょうか、
「多分、オナニーで強い刺激ばかり与えていたから、女性の膣の中じゃ刺激が足りないんだと思うわ。 経験が少ない男性の中には自分でセンズリした方が感じるって言って、私達にいろんなポーズを要求しながら自分で処理しちゃうお客さんもたまにいるし、そうじゃなくても手や口の方がいいって言うお客さんも随分いるのよ。 でも、慣れてくれば段々セックスでも気持ちよくなるから心配しなくても大丈夫よ。 自分でオナニーする時、強い刺激じゃなくて膣の中みたいにソフトな刺激でやるようにするのよ。 それと、想像力を使って、イメージでも興奮するようになれば、普通にセックスもできるようになるから。 ずっと見ていると、いつもいきそうでいけないのよね。 いく前に強い刺激があった方がいいみたいだし、手で刺激した方が感じるみたいだから、いきそうになったら言ってね。 直ぐに入れてセックスでいけるようにしてあげるから。」
そう言ってベットで横になっている私の縮こまったおちんちんを弄り回しました。 先っぽから袋の裏側まで同時に刺激してくれる指使いはさっきより早く、快感が全身を走り回る、これまで感じた事のないものでした。 何度も萎えたとはいえ、1時間以上前から何度も刺激を与えられ続けているのですし、初体験の指裁きのお陰で、大した時間をかける事なくいきそうになりました。 その事を告げると直ぐに彼女は私の上に乗り、熱くなっているペニスを掴み、その上でまたがるようにして挿入してくれました。 膣の中の刺激は指と比べて弱かったとはいえ興奮が続いていたので、今度は中折れする事もありませんでした。 ですが自分でするマスターベーションのように射精しそうになったからと言って手の動きを早めたり、強く握ったりして刺激をさらに強くするような事もできないので、「いきそうでいかない」中途半端な状態が暫く続きました。 女性の方も疲れてきたのでしょう、腰使いのペースが落ちてきました。 
「もう一度手でやるから、いきそうになったら直ぐに言ってね。」
彼女はそう言うと、もう一度指で丹念に刺激をしてくれました。 正直、そのまま指を使い続けてくれた方がずっと快感なのですが、それでは何の為にトルコ風呂に来たのか分かりません。 ファッションヘルスなどに行った方がずっと安く済みます。 再び手を使い始めて間もなくいきそうになり、再度挿入すると彼女は私を上にしました。 相変わらず動きはぎこちなかったのですが、いつ射精してもおかしくない状態になっていましたから、大して腰を動かすこともなく終了となりました。 終わった時、彼女はさっきのようにぐったりしていました。 経験豊富でテクニックもあるトルコ嬢だったから、辛うじてセックスができたようなものですが、これが経験の少ない女性だったらきっと悲惨な思い出になる所だったでしょう。
帰り際に、「これ、使ってみたら?」とその日使ったオナローションの残りをもらいました。 お風呂でこのローションを使いながらオナニーすれば刺激が少しはセックスに近いだろうからと、最後まで気を遣ってもらい、彼女には本当に感謝しました。 そして、普通にセックスできるようになるまでには、まだまだ道程は遠い事を思い知らさせられました。

2011年1月15日土曜日

縮まないでくれ! (トラウマ)



所がいざ挿入し、腰を動かそうという段階になっても上手く動かせません。 どうしても動きがぎこちなくなってしまうのです。 今までマスターベーションしかしたことがない私は、「腰使い」など全く知らなかったのです。 ぎくしゃくしながら腰を動かしているとペニスが外れてしまいました。 女性が直ぐに摘んで挿入し直してくれるからいいのですが、もし相手の女性も経験がなかったら、何処に挿入したらよいのかもよく知らないので、電気を点け、眼鏡をかけて局部をよく見ないとなりません。 しかも、手で刺激してもらっている時と違って、膣の中はとても暖かいくて包み込まれるような感覚がありますが、ペニスに対する刺激、特に亀頭に対する刺激が殆どない事を始めて知りました。 興奮してドキドキしているのではなく、焦っているからドキドキしている自分に「なんか、情けないな。」と思ったが最後、再び萎えてきました。 「やばい!」と思うなり、更に萎縮してしまい、「刺激を加えないと!」と慌てて腰を動かしたので抜け落ちてしまいました。 また女性が摘んで挿入しようとしたのですが、すでに「ふにゃちん」になっているので上手く入りません。 「もう駄目だ」と私は諦めてしまいましたが、女性は直ぐに体位を入れ替え、指で私の感じる部分を刺激して再度勃起させてくれました。 私の力ではとてもこうはいきません。 「頼りになるな。」と思っていると、又摘んで挿入し直し、今度は彼女が腰を使ってくれました。 私のようにたどたどしい動きではなく、余計な事も考えずに済みました。 おまけに手をついて上体を起こしてくれたので、手で胸を触る事も顔を起こしてうずめる事もできるのです。 「やっと女性とセックスできるようになった。」という喜びと快感が私に一時の幸せを与えてくれました。 時が止まってくれればいいなと思うような時間でした。 ですが射精するにはやはり、刺激が今一歩足りませんでした。 いつになっても射精しそうにならないのです。 随分時間が経過しました。 そのうち上になって腰を使っている女性も疲れてきたのでしょう、ペースがどんどん落ちてきました。 ペースが落ちるに従って、弱い刺激が更に弱くなり、私のペニスは再び萎えてしまいました。 「あ~っ、又だ!」そう思う間もなく、私のペニスが女性の陰部から抜け落ちてしまいました。 そこで力尽きたのでしょう、私はまだ終わっていないのに、女性は私の上でぐったりしています。 「プロならもっと頑張れよ!」とは思いましたが、息を切らして疲れ切った表情を見てなんだか悪い事をしたような気持ちがしてしまい、複雑な気分です。
「ごめんなさい、疲れちゃった。」
そう言いながら身体の向きを反対にして、萎んでしまったペニスを舐めたり咥えたりして再度刺激をしてくれましたが、私の気持ちも萎えてしまったようで、なかなか勃起しませんでした。 「なんで俺のチンポコは女性とのセックスの最中に萎んじゃうんだろう。」と情けないやら悔しいやらみっともないやらで泣き出したくなりました。

2011年1月14日金曜日

トルコ風呂 (トラウマ)



いざお店に向かったのはいいのですが、入り口で「いらっしゃいませ」の声を聞いただけでもう、ビビッて緊張してしまいました。 待合室で順番を待つ時間が異常に長く感じ、週刊誌を広げても字面だけを追っているので、内容は全く理解できません。 それどころか同じ行を何度もリピートしていたり、2~3行飛ばしていたりしても全然気付かないのです。 当然、何が書いてあるか分からないので、他の雑誌を広げるのですが、緊張している事に変わりありませんからやる事は同じです。 何冊も雑誌を取り替えましたる。 まだ「お日様」が出ている時間なのに、先客がいます。 せわしなく雑誌を出し入れしている私がうっとうしいのでしょうか、ちらちらこちらを見ています。 一度だけ目が合ってしまい、直ぐ様、互いに視線を逸らしました。 全く、落ち着かない空間です。
たかだか10分程度の時間でしたが、とても長く感じられました。 週刊誌を何冊も読破したので余計にそう感じたのでしょう。 やっと順番が来て、女性の案内で部屋に入るなり三つ指ついて挨拶されると、これまでの緊張がさらに高まり、せっかく待ち望んだセックスできる時が訪れたのに、逃げ出したくなる始末です。 いくらインポテンツがある程度治ってきたからとは言え、女性コンプレックスまでは治ってはいないの、薄着の女性と2人っきりなのです。 「うまくいきますように」と神にも祈る気持ちでした。 
服を脱ぐにも動作がぎこちないのですから、あっさり「初めて」だとばれてしまい、お店の女性は丁寧に説明しながらサービスしてくれました。 特に指使いが上手く、向かい合って椅子に座り、亀頭を親指と人差し指でしごきながら、小指で陰嚢をこちょこちょと刺激してくれた時にはあまりの快感に全身が痺れました。 「もし立たなかったらどうしよう」という当初の心配は全くの取り越し苦労でした。 そのままマットプレイに移りましたが、胸や股間を使って全身をマッサージしながらも、おちんちんへの刺激を決して怠りませんから、ずっと勃起が続いていました。 して松葉崩しでいよいよ待望の挿入と相成った訳ですが、中が「暖かい」という事以外は何も感じません。 期待が大きかっただけに力一杯拍子抜けしてしまいました。 全く刺激がない、こんな状態が続いたら、確実に萎えてしまいます。 手際よく体位を入れ替えて、うつぶせている私の下に潜り込みながら、女性は腰を動かし始めましたが、期待していた「快感」とはほど遠いものでした。 その上、女性から慣れないことばかりされるので、マットの上で緊張してしまいました。
「緊張しなくていいのよ、楽にしていれば。」
何度もそう言われ、脚を軽く叩かれるのですが、緊張を解く事は出来ず、そのうちに心配した通りに萎えてきました。
「あ~っ、頼むから持ち堪えてくれ!」
そう祈りましたが、1度萎え始めて、萎えた事を焦ってしまえば、立ち直るのは容易な事ではありません。 お店の女性はマットプレイを一端止め、湯船に浸かりながら私の両脚を両肩に乗せ、手や口を使って股間を刺激してくれました。 この女性の指使いは萎えてしまった私のペニスを立ち直らせるのに充分な快感を与えてくれたので、「さすがにプロは違うな。」と変な感心させられました。 浴槽から上がって身体を拭く時も、おちんちんを念入りに拭いてくれますが、その気持ちいい事といったらありません。 拭き方1つにも「テクニック」を感じさせられました。 そのままベッドに上がり横になりましたが、さっきの刺激の余韻がまだ続いているので萎えたりしませんでしたし、女性が導いてくれたので、「何をどうしたらよいのか」と余計な心配をしないで済みました。 インポテンツでJA研究所に通っていた人が、定期的に風俗通いしていたのも納得です。