2011年3月26日土曜日

栗本慎一郎 著 「人類新世紀終局の選択」 より - 用意された重荷2

このことは、さきの障害者とチャネラーの議論でも同じことが言える。 障害者として生まれてきたということは、一般的にいう “重荷” をたくさん背負って生まれてきたということになる。 このことは、その重荷を乗り越えることによって、魂がより浄化される-、生命とは何か、自分がこうして生きているということは何か、ということを深く見つ めさせるきっかけとなり、より魂の純粋度において高いところに到達できるチャンスにもなっている、ということは間違いのないところである。
そういった重荷がなければ、人間はいまの意識の状態である限り、他人の苦しみを本当に自分の苦しみとして背負って理解することはまずできないだろう。 そうした、他人の苦しみを我がものとして感じることのできる魂の清らかさを得るために、じつは、あなたの重荷は用意されたんですよ、だから、それは本当は チャンスなんだ、という部分は実際にはある。 そういう意味で、自ら選んだ、とは言えると思う。
善人としてあまりマイナス要因を持たずに生まれてきた人は逆にそれだけ魂のピュアリフィケ-ションを高めずに死んでいくことになる。 悪人のほうが悟っていくチャンスがじつは多いだろう、ということは多くの人が言ってきたことと同じだと思う。 親鷺の言ったことでもある。
しかし、だからといって、障害のない人が「自ら選んだ」という言い方で、いきなり障害者にぶつけていくのはやはり間違いだろう。 障害者であることはやはり苦しいことだし、不快なことにちがいないのである。 それを精神的に乗り越えることができて、はじめて、「これでよかった」とわかることであって、苦しみと闘っているより、友だちとボートに乗ったり、サイク リングをしたかった、という思いのあることを絶対に否定はできない。 それを越える大変な努力をして、ようやく「一切無常」の境地になるといえる。
それを、なんの助けの手も差しのべない人間が、「それはあなたが選んだのだから、あなたががんばりなさい」と言ってしまうのは明らかに間違っている。 私自身について言っても、何の助けの手も差しのべることのできない立場だから、「自分で選んできたんだよ」という言い方はすることはできない(たとえ根本 はそうであっても)。 「大変だね」としか言えない場面では、率直にそう言うことしか私にはできないのである。
現実の社会には、たしかに、一人一人がつくりだしていく悪もあるが、社会全体の悪、構造がつくり出していく悪というものもまた存在している。 シャーリ-・マックレーンも最初の本ではこういうことを指摘していたはずなのに、二作、三作と次第に「自分が選んだのだ」式の根本主義に行ってしまってい るのは残念なことだ。
「自ら選んだ」という根本原理主義は、こうした社会や構造の悪に対して、目をつぶることになり、結果的に、“自分一人よければいい” という魂の純化とは反対の方向へ行きやすいことは意識しておかねばならない。 人は、他の人とともに浄化していくのでなげればならないのだ。
現在、マルクス主義、社会主義が非常な惨状を示して崩壊しているし、ルーマニアや北朝鮮では弁護のしようのない事実を生んでしまったが、しかし、その最初の意志においてだけは正しいところがあったのだ、ということも関わってくる。
それは、自分一人が救われるのではなく、社会全体とともに全員で解放されよう、というところから出発した、その点の純粋さだけは断固として意味があったと思うのである。
魂という問題においては、一人一人救われていくしか結局は方法はないのだが、しかし願わくば、我が魂が救済されるならば、多くの人たちの魂とともに・・・・・・という思いだけは捨ててはいけないだろうと感じるのである。
私は前に『縄文式頭脳革命』の中で、考え方の方法として、①つねに原理を忘れてはならない、しかし、②原理をいきなりミクロの場に持ってくるな、という ことを言った。 精神世界の人たちが、本当にピュアなものを目指すつもりなら、このことはつねに意識においておかなければならない問題だ。
前世や中間世を知って、その上で何を考え、どう行動していくかということとともに、他の人の上にもそうした思いをもっていくかということについては、現在の精神世界の人たちにはまだ乗り越えるべき問題は多い。

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