2011年3月25日金曜日

栗本慎一郎 著 「人類新世紀終局の選択」 より - 用意された重荷1

 前世療法の効果を認めることについては私はいささかもやぶさかではない。 とくに、自分では何故かわからないが、つねにひっかかるものがある、ストレスが溜まっていくものがある、といった人たちの、その根本のひっかかりを見い出 していく、ということでの効果は大きいだろうと思う。
しかし、前世の問題(カルマ) → 中間世での計画 → 今世、という流れの中で「すべてが自分自身で計画し、選んできた、だから責任は自分にある」という前世療法や精神世界の人たちの考えのなかにある陥し穴のようなものは大きな問題だと感じている。
間違わないでもらいたいのだが、私自身もすべての責任は自分にある、という点においては基本的に一致している。 ただ、現実の問題に対して、すべてそのような態度で対応していいのか、と思うということだ。
私はチャネリングの会場で、質問者とチャネラーが押し問答をしている現場にたまたま居合わせたことがある。 その質問者は重度の障害者であった。
「何枚自分はこういう障害をもって生まれてきたのか」
質問者はそういう意味のことをチャネラーに質問した。
「それは自分で選んできたことだ」
それがチャネラーの答えだった。ところがそれに対して、「自分はこういうものを選んでなんかいない」と質問者が言いだして、議論が始まってしまったのである。
人間が限りない輪廻転生をくり返していくことの意味を本当によく捉えることができれば、「何故私はこういう・・・・・・」という質問はでないだろうし、チャネラーが「自分で選んできたことだから」という答えも納得できるものだろうと思う。
しかし、そこのところが重大な問題の一つなのだが、簡単に根本原理主義に行き過ぎてしまうのは精神世界のみならず、現代社会の一つの病気だと私は思う。
私のテレビにおける社会的発言などもしばしばこの "現代病” によって批判されてしまうことになる。
たとえば、凶悪な青少年犯罪を考えると、まず、その犯罪が起こることを現場でできる限り止める努力をしなげればいけない。 そのためにはさまざまなことをするのだが、ときには非常に残念なことだが、死刑というものの存在が現場の抑止力になることもある ー 私は一貫してそう主張している。
しかし、死刑によって根本が解決されるわけではないことはわかっている。 その犯罪を惹きおこす社会体制や人間の精神について、我々は多くの根本的なことをしたり、考えたりしなげればいけないのはわかっている。 しかし、とりあえず、現場での犯罪はできる限り止めなければいけないのは理の当然である。
これを、かりに、すべてを転生とカルマの問題へもっていくシャーリー・マックレーン的(一部の精神世界的といってもいい)議論から言うと、「死刑は根本解決になりません。 だからよくありません」ということになる。
そんなことは誰でもわかっている。 だが、現実にどう対応するのだ・・・・・・現実はいいのです・・・・・・では、むごい殺人等で人も社会も傷ついた。 どうするのだ・・・・・・それはさだめです。 精神世界の、現実を無視した単純根本原理主義には時にうんざりさせられることがあるのは事実である。 これでは、あきらかにこの社会でのすべての政治や制度を無視している。 人を弱肉強食の世界に戻すのが本旨ならこれでいい。 だが、誰もそうは言わない。 となると、これは人も社会も努力して浄化されねばならぬという精神世界の本旨と対立する。
凶悪な殺人事件というようなものは、起こした側も起こされた側も悲劇である。 その現場で「人を殺しても解決にはなりません」「死刑では根本解決になりません」と言ってみても無力である。 その根本は根本として、その前の段階で、一つでも殺人を抑止できるものがあるとしたら努力することが、人として生まれてきた者の努力の価値ではないか。 現実を無視するのは罪である。 なぜなら、現実にこそ神も宿るからだ。
事実、例の永山則夫君も、当時の意識では「自分は死刑にならない(未青年だから)」と思って、正面から警備員を撃っている。 死刑になる可能性もあると知っていたら、止まる可能性も大きかったのである。

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