2010年12月23日木曜日

砂糖 (トラウマ)

「砂糖」の摂取を極端に制限しました。 砂糖は体内のカルシウムを溶かし、多くの病気の原因になると主張していました。 「歯」が抜けた時、その歯を砂糖水に1週間も漬けておくとナイフで切れるほど弱くなっているという例をよく挙げて説明していました。 また、「砂糖病 -甘い麻薬の正体-」というタイトルの本を紹介しながら、砂糖の害について説明していました。 砂糖には常習性があり、1度味に慣れると次第により強い甘みを求めるようになり、身体に及ぼす影響もそれに比例してゆくそうです。 実際、数多くの重病患者がトレーニングに来ていましたが、砂糖を採らなくなるだけで苦痛が軽減されたり症状が改善される例は珍しくありませんでした。
元薬事審議会の委員長で薬の副作用を専門に研究する「薬理学」の第一人者である田村豊幸という学者が「カルシウム欠乏症」という砂糖の害について述べた著作物がありました。 彼はあまりに審査が厳しくて、製薬業界があらゆる手を尽くして薬事審議会の委員から引きずり下ろしたと言われている人物で、この本を出版した後、製糖業界からもかなりの脅しを受け、轢き殺されかけた事も1度や2度ではないそうです。 その本の中に体内の白血球と砂糖についての研究結果が書いてありました。 普通、人間の血液1単位(単位名は忘れました)中に含まれる白血球数は14個だそうです。 記憶が曖昧ですが、体調が悪かったりして抵抗力が落ちていると確か半数程度の白血球が活動を停止している状態なのだそうです。 そして、角砂糖1つ、ティースプーン1杯の砂糖を摂取すると、14個の白血球全てが、約1時間活動を停止するそうです。
ですから砂糖を摂取するだけで身体の抵抗力が落ち、傷ができれば化膿しやすくなり、この状態が慢性化すればあらゆる病気の原因になるとして、厳しいほどの制限をしたのです。 ですが、砂糖を取らないというのはそんな簡単な事ではありません。 料理に「隠し味に」「ちょっとだけだから」と言って加える砂糖の量だけでも1日合計すれば相当な量になります。 缶入り清涼飲料水には普通、スプーン2杯以上の砂糖が含まれています。 炭酸入りになるとその量は更に増えます。 アイスクリームは氷より低温な為に舌があまり甘みを感じないだけで、非常に多くの砂糖を含んでいます。 これらを常温にして飲んでみれば以下に砂糖が多く含まれているか、数値を示さずとも直ぐに分かる事だと思います。
そして面白い事に、摂取を控えなければいけない人ほど、あれこれ理由を付けて甘い物を採ります。 高額なトレーニング代を払っておきながら、指導に従わないで我を主張する人達の気持ちが私には理解できませんでした。 こういった人達に対して、口の悪いK.A.先生は容赦なく「馬鹿」呼ばわりをしました。 渋々でも止めた人は止めている間だけは症状が回復していましたが、止めない人はなかなか良くなりません。 特にヨガやストレッチのような身体の筋肉を伸ばす事がいつまでも苦手でした。 砂糖を取ると筋肉本来の伸縮性がとても低くなるので、甘い物好きは身体がとても硬くなるのです。 K.A.先生は「甘い物が好きな奴は自分に甘くて精神的に脆い」とよく言っていました。
同時にカルシウムの摂取を勧めていました。 小魚を常食する事と、牛乳やチーズなどの乳製品を勧めていました。 このカルシウムは精神活動に特に重要だと主張していました。 日本の土壌はカルシウムが少ない為に野菜などからのカルシウム摂取量が少なく、何にでも加えてある砂糖の為に不足しているカルシウムを破壊しているから、充分な量を取るようにと指導していたのです。 又、トレーニングで、特に筋肉をほぐす際、痛がる人に対しては特に強調して砂糖を止める事と同時にカルシウムの摂取を勧めていました。 砂糖を摂取すると筋肉がほぐれづらくなり、ほぐす際の痛みも格段に強くなるからです。
又、精神発達に段階があるように、味覚にも発達段階があり、甘い物好きは一番最初に覚える味覚である「甘み」から次の段階に移行できておらず、精神の発達が未成熟であるとも言っていました。

2010年12月21日火曜日

タンパク質 (トラウマ)

K.A.先生に惹かれ、「一歩でも近付きたい」「認められるようになりたい」という思いから、頂いたアドバイスには可能な限り従いました。 金を貯めながら年に1回はトレーニングを受けていました。 トレーニング料金は毎年のように値上げしてゆくのできついものがありましたが、職人は身体が資本です。 元々身体が丈夫でない私にとって、定期メインテナンスのようなものでした。 自宅でも可能な限りはトレーニングで覚えた事を行って、身体の手入れはしていましたが、JA研究所にいるときのように徹底してはできません。 いつも1ヶ月のトレーニングを受け終える頃には、別人になったように身体が楽になっていました。
JA研究所は月に一回、K.A.先生の講演会がありました。 重病の人、経営が上手くいかない人、ダメサラリーマン、視野の狭い学生、トレーニングを受けた事のある人、ない人と、いろいろな人が来ていました。 毎回出席していた私は一番前の席で一言も聞き漏らすまいと耳を傾けていました。 高校2年の時にアルバイトをした金で業務用ポータブルカセットレコーダーとマイクを購入していましたので、毎回テープに録音して時間の許す限り聞き続けました。 講演内容は多岐にわたっていましたが、「食事」はK.A.先生が最も重要視していた分野で、毎回多くの時間を割いていました。 最も特徴的だったのは「タンパク質」と「砂糖」に関してです。 
先ず、高タンパク食を勧めていました。 特に牛、馬、鯨といった大型獣のレアステーキ又は刺身を1回300g、週に1~2回食べる事を勧めていました。 タンパク質と言うと直ぐに「プロテインスコアー」を思い出しますが、K.A.先生はあまり重視していませんでした。 いつもそうですが、K.A.先生は自分で試して良いと思ったものしか勧めません。 そして最も効果があると勧めたのが牛、馬、鯨などでした。 生命の起源はアミノ酸の再合成であり、そのアミノ酸が集まりペプチドに、そのペプチドが集まってタンパク質になり、それは人間の身体の主要構成成分である。 又、人間の身体は約3ヶ月で殆ど入れ替わっているのだから、主要構成成分のタンパク質を毎日摂取する事が大事だと主張していました。 レアステーキを勧めているのは、焼いてしまうとタンパク質は変質してしまい、身体が必要な成分とは異なってしまうからだそうです。 ですから「生食」も勧めていました。 熱を加えないと消化吸収できないものや身体に害を及ぼすもの以外、 生で食べられるものはなるべく加工せずに生で食べなさいと。 レアステーキを300gも採ると体温、免疫力、行動力、性力なども上がると言われても、当時の私は何も感じませんでした。 トレーニングを受けている他の人は食べた後、「身体が熱くなった」と言っているので疑問に思いK.A.先生に尋ねると、私はそれだけタンパク質が不足している状態なのだそうです。 これだけの量をお店で食べていたら食費が嵩んで仕方がありませんから、安い肉屋を探してまとめ買いし、約300gに分け、冷凍庫に保存し、1つずつ解凍して食べていました。 そのため、実家の冷凍庫は、いつも私が買ってきた牛肉で一杯になっていました。 又、レアステーキを食べる時にはパイナップルやパパイヤなど、「タンパク質分解酵素」を含むものを同時に採り、効率よく消化吸収させること。 動物性タンパク質と同量の植物性タンパク質も採る事、最低でも同量の野菜を採る事なども併せて勧めていました。 生野菜がちょっと不足気味だったと思いますが、できる限り指示通りに食べるようにしました。 それでもレアステーキを食べて体温が上がる事を感じるようになるには2年近くかかりました。

2010年12月19日日曜日

アドバイスに従って (トラウマ)

非常に幅広い分野に対する深い知識と、それらを実際の生活に生かして行く応用力。 問題に対する分析・洞察力と強い信念。 どれ1つとってもこれまで会った誰よりも優れているK.A.先生に惹かれてゆき、毎月行われる研究会は全てテープに取って何度も聞き返しました。 K.A.先生の語る内容の一つ一つが私にとって新鮮で魅力に溢れていました。
初めて受けた1ヶ月のトレーニングが終了した日、K.A.先生は家業を継ぐように勧めて下さいました。 私には将来性のない業種に思えたのですが、将来性がないと皆が思い込み、誰も継ぐ者がいなくなった時、その大切さが再認識される。時代は常に変わっているのに、百年一日昔のまま同じ事を繰り返していては、時代に取り残されるのは当たり前で、時代の変化を読み取る感覚、それに対応する行動力、そして他が真似のできない技術を持てば、どんな時代でも生き残って行ける。 先ずは父の元で仕事を覚え、きちんと技術を身につけるようにとアドバイスされたのです。
K.A.先生のアドバイスは、「コーチング」や「カウンセリング」のように「気付き」を促すような事はしませんでした。 勿論相手を見ながらですが、「取り敢えず言われた通りにやって見ろ。 今分からなくても、やっていればそのうち分かる」という強い態度のものでした。 こう言われるのは若い者、人生経験の少ない者が殆どでした。 早い人なら数ヶ月後に、私のように仕事に対する「基礎」がない者は数年かけないと結果が出ない事もあります。 そして実際に、真面目に「跡を継ごう」と思い、真剣に仕事に取り組むと、この仕事はとても難しいものでした。
「お前は親父の仕事を馬鹿にしていただろう。 その馬鹿にしていた仕事もろくにできない事が分かっただけ少しはましになったんだ。 これから先、どれだけ技術を覚えるかが最初の課題だぞ。」
と、トレーニングが終了して1~2ヶ月後に頂いたアドバイスに従いました。 建築業全体に言える事ですが、材料・道具・工法は進歩していますが、その分個々の処理に対する技術は退化しています。 既製品を購入して取り付けた方が安く早く見栄えがよいからと、わざわざ手加工など誰もしなくなったのに、私は20年以上前には当たり前にあった技術を一つ一つ身につけてゆきました。 「これからの時代は前に進む事が大事で、事後処理に過ぎない法律を学ぶ時間があるなら、自分の仕事に関係のある分野をもっと勉強した方がよい。 職人に必要なのはカンやセンスで、観念じゃない。」と言われたので 2年間学んだ法学部通信課程も辞めました。 頑固なほど世間の流れに逆らって仕事を覚えていきましたが、端から見れば「狂信」に近い状態だったのかも知れません。

2010年12月17日金曜日

好転反応 (トラウマ)

K.A.先生の説明によると、例え「右肩下がり」に症状が悪化しても、人はそのまま「右肩下がり」に症状が悪化しているとは感じないものなのだそうです。 例え症状が悪化しても、慢性化する事により、人の感覚は苦痛を和らげる為に、又は悪化が感覚にまで及ぶ為に「麻痺」して感じなくなってゆくので、「症状が改善された」と感違いする事も珍しくなく、この「麻痺」した感覚が「悪化」を察知できた時には、症状は既にかなり悪化しているのが多いパターンなのだそうです。 ですから症状自体は「右肩下がり」の悪化であるにも拘わらず、人の感覚は悪化と回復を繰り返しながらも長期的にみれば徐々に症状が進行しているように感じ、症状の改善には必ずこの「麻痺した感覚」の回復が伴うので、「返って症状が悪化した」と訴える者が大部分となります。 「好転反応」が起きるまでにきちんとラポールを築き上げてしておかないと、「悪化した」と勘違いしたクライアントが他のクライアントにまで不平を漏したりして、不安が一気に蔓延する事も「治療家」の悩みの種だそうです。 また、観察力が伴わないと、「好転反応」だと思っていた症状が、実は本当に悪化していた場合、悪化を加速させて取り返しの付かない事になるので、常に注意を怠らない事も必要なのだそうです。
JA研究所の「好転反応」は他で経験する「好転反応」よりも強い反応が現れるように思いますが、その期間中ですら、身体が本当に動けないほどしんどい場合を除き、いつもと同じトレーニングを行っていました。 頭がボーッとして、身体が言う事を聞かないにも拘わらず、ある程度仕事ができる人は、愚痴ったりしながらも何とか仕事をこなしていました。 「プロ」としてのレベルが高い人は、トレーニングによって実質の仕事時間が短縮されているにも拘わらず、普段以上の仕事量をこなせたり、仕事量が同じなのにいつもより遙かに短い時間で仕事を終えてしまい、周りも当人も不思議がっているケースをよく見ました。 「意識」のブレーキが外れ、本来の能力が発揮されたからだとK.A.先生は説明していました。 ただ、傘や鞄などを置き忘れる確率が非常に高くなるので注意が必要だともアドバイスしていました。
私の拙い「好転反応」の経験から、もし「好転反応」の苦痛の度合いを数値で表せるなら、「苦痛度」と「好転反応の期間」の積は等しいのではないかと感じています。 もしクライアントが苦痛を訴えるので、処置を弱めれば、「好転反応の苦痛度」は下がるかも知れませんが、その分苦痛を感じる期間も長引き、費用も嵩めば、精神的決意も鈍り勝ちです。 と言うのも、この「好転反応」が起きている時は、身体だけではなく、精神的に弱い部分が出てくる事が多いようなのです。病気になった人をよく観察すると、その病気になる人の「性格の傾向」があります。 糖尿病が「わがまま」とか、癌が「頑固」などです。 勿論、全員がそうだという訳ではありませんが、そういう傾向があり、好転反応が起きている間はその傾向や精神的な弱点が顕著に現れるのです。 ただでさえ精神的に不安定になっている時に周りから止めた方がいいなどと言われると、せっかく良くなっているのに途中で投げ出してしまう事がとても多いのです。 もしも反応を一気に出せるなら、2、3日から1週間、事故にでも遭ったと思って寝込んででも一気に出し切った方が、悩む暇もなく終わってしまい後々楽だと思います。
私はトレーニングを初めて受けてから3年以上、「好転反応」に苦しみましたが、その経験とJA研究所で受けた「感覚訓練」を初めとするトレーニングは、20年、30年と経過しても、私にとって「絶体絶命」の窮地を救う道標の役割を果たしてくれることになりました。

2010年12月15日水曜日

病弱 (トラウマ)

このおならを皮切りに、私は様々な「好転反応」を嫌と言うほど経験しましたから、それだけ健康を害していた訳です。 振り返ってみれば幼稚園に上がるまでは年に3~4回40℃以上の高熱を発し、42℃まで達することが殆どでした。 診断名は扁桃炎だったと記憶しています。 小学校入学直前にリウマチ熱という膠原病の一種にかかり、5ヶ月も入院していました。 別名心臓リュウマチとも呼ばれ、一般的な「関節リウマチ」とは別の病気です。 入学式は病院から通いましたが、1学期は登校できませんでした。 2学期に入り毎日1時間だけ登校が許され、3学期になると午前中だけになり、2年生になってやっと全時限の出席ができるようになりました。 本来は「落第」なのでしょうけれど、たまたま算数の足し算引き算と国語の「てにおは」つまり助詞の使い方だけはきちんとできていたので、進級しても授業について行けるだろうと校長が判断して下さったのです。 ですが「直射日光に当たってはいけない」「運動してはいけない」などいくつかの行動制限をされ、いつの間にか外に出る事が嫌いで、部屋で本を読んだりする事の好きな内向的な性格になっていました。
幼少時は病弱で、20歳前に身体をぼろぼろにしてしまった私はJA研究所のトレーニングで徐々にですが普通の健康を取り戻してゆきますが、一般の人より遙かに強い反応が出たようです。 この1ヶ月のトレーニングが終了して1~2ヶ月後、言いようのない疲労感や倦怠感が常に付きまとうようになりました。 その上、身体のあちこちが痛んだり自由に動かせなくなったりと様々な症状が現れ、これらの「好転反応が一通り治まるのに3年以上かかりました。

2010年12月14日火曜日

屁 (トラウマ)

この「トランス性運動」ができるようになるまでには、ちょっと他では味わえないような様々なトレーニングを受けました。 特に数人で1人の人間を抑え付け、身体全体をヨガのようなポーズに捻ったり伸ばしたり曲げたりする事は多くの人にとってとても苦痛だったようです。 この当時、ヨガをかなり真剣にやっていた私は身体が柔らかく、大して苦痛に感じませんでしたが、たまに気を失う人もいました。 痛がっている人には
「痛かったら身体の力を抜いて息を吐いて下さい。」
と言って手を弛めません。 叫び声を上げても、声を出しているときは息を吐いているのから、
「そうです、それでいいんですよ。」
と意に介しません。 トレーナーでもこれですからK.A.先生はもっと情け容赦ありません。 前屈なら踵を掴むまで、開脚なら胸が床に付くまで絶対に止めません。 床に大の字になり、片方の脚の膝を曲げ、太腿を胸に付けてから内側に捻ります。 胃や肝臓が弱っているとかなり痛いようで、酒が好きな人は皆嫌がっていましたし、抵抗して身体に力を入れてしまいます。
「ほら、抵抗すれば余計に痛いぞ、もっと力を抜いて。」
「いいか、これ以上抵抗すると骨が折れるぞ。 観念しろ。」
そう言われて力を抜いた途端に更に力を入れてもう一段捻るのです。
筋肉に強い緊張があると毛細血管を圧迫してしまい血行が悪くなりますから、細胞にも充分に栄養が行き渡らず、多くの病気の原因になります。 また、病気であれば患部に手を当てると血行が悪くなっているので冷たく感じます。 炎症を起こしていれば不自然な熱を持っています。 感覚訓練が進めばそれらを手を当てずに近づけただけで感じますし、慣れてくると見ただけで何処が悪いのかが分かるようになってきます。 自分の身体の悪い箇所も感じるようになります。 そしてトレーニングが進むと、私の身体はまだ19歳なのにボロボロだということが分かってきました。 最初はトレーナーに指摘されてもさほど気になりませんでしたが、毎日身体中に強い刺激を受け、その後で身体が動かなくなるほど弛緩させられているうちに、身体中が徐々に活性化してきたのかも知れません。 様々な変化が表れ始めました。 最初の変化は「腸」でした。 これまで経験した事などなかった便秘に悩まされました。 普通に食べていても排便できないのです。 ですがお腹を弛めて、腹式呼吸を行っているうちに腸が再び動き出し、普通に排便できるようになったのはいいのですが、今度は異常に臭いおならが出るようになってしまいました。 トレーニングルームはかなり変わった形をしていましたが、50〜60㎡はあったと思います。 それがたった一回の私のおならで、臭いが部屋に充満し、窓を開け放っても5分以上臭いが籠もっていました。 電車に乗って扉の前に立っていた時におならをした事もありました。 周りに顔をしかめた人が拡がってゆき、隣の扉に立っている人まで顔が歪んでいました。 これまで腸が充分に機能しておらず、異常発酵をしていたにも拘わらず排出できないので腸が発生したガスを再吸収していたようです。 そんな異常な状態からやっと働き出した腸が最初にした事は、腸内で異常発酵で発生したガスを排出することだったようです。 1ヶ月のトレーニングが終わる頃には臭いが多少軽くなりましたが、普通の僅かに匂う程度のおならが出るようになるまでには数年かかりました。

2010年12月13日月曜日

トランス性運動 (トラウマ)

私はこの「トランス状態」に入り、「トランス性運動」ができるようになりたかったのですが、全くできませんでした。 K.A.先生によれば私は「頭が硬いために、深い『無意識状態』に入れていない。」のだそうです。 逆に言えばもしこのトランス性運動ができるようになっときには、私も深い「無意識」に入れるようになった証拠だと言えるはずです。 例に挙げたトレーニング以外にも数多くのトレーニングを毎日12時間も繰り返しましたが、2週間経ってもこの状態には至りませんでした。 そしてできない事を「頭が硬いからだ。」と言われ続ける腹立たしい日々が続きました。 ところが3週間も経つと、頭が「ボーッ」としてきて考える事が面倒臭くなり出し、次第に「どうでもいいや」と投げ遣りになり、様々な「こだわり」がなくなってきました。 K.A.先生はトレーニングの合間に様々な事を教えて下さいました。 一言も聞き逃すまいといつも聞き入ってたのですが、この頃になると上の空でボーッと窓の外を眺めてトレーナーに注意されるようになりました。 別に聞きたくない訳ではなく、気が付くと呆けるようになってしまったのです。 数日後にはトレーニング中、みんなが指導を受けているのにボヤーッと天井を眺めるようになり、注意されても声が右から左に抜けて行きました。 トレーナは私の手を引っ張って、他の人の邪魔にならない場所まで引きずってゆき、そこで寝かされました。 寝ているか起きているか分からない、まどろんだ時間がどれぐらい続いたでしょう、さっき私を引きずって寝かせたトレーナーが私をトランス状態へと誘導し始めました。 これまでも何回かされたのですが、顔の前に手をかざされたのは分かっても、それだけでした。 でもこの日は顔が左右に揺れたのです。 その揺れは次第に大きくなり、身体が「芋虫体操」のように横に転がり始めました。 「あ~、身体が転がっているな。」とは意識できましたし、周りの人がぶつかるのを避けるのが分かりましたが、自分自身の事なのに他人事のようにしか感じませんでした。 転がっているうちに手や足を大きく回し出し、動きが激しくなるのが分かりましたが、そんなことは「どうでもいい事」「関係ない事」に感じました。
どれくらい転げ回ったかよく分かりませんが、気が付くとトレーナーの手が私のお腹に当てられて、
「はい、息を吐いて下さい。」
と言う声が聞こえました。 その声に合わせてお腹がゆっくりと押され、息を吐くと動きも治まりました。 そしてそのままボーッとしていた頭の意識は更に遠のき、ぐっすりと寝込んでしまいました。 起こされた時には一晩たっぷりと寝たような目覚めでしたが、確か30分程度しか経っていなかったと記憶しています。 「トランス性運動」ができるようになった頃から、K.A.先生が私を散々「馬鹿」呼ばわりした訳が「理屈」ではなく「実感」として分かるような気がしてきました。 同時にこれまで受けたトレーニングは一つ一つ独立したものではなく、全てが深く有機的に関連付けられている、とても合理的な教え方をしている事が分かってきました。 このJA研究所で教えている事は「観念」的に捉えたら絶対に理解できない「無意識」の世界を具現化したものだったのです。

2010年12月11日土曜日

印象深いトレーニング (トラウマ)

ちょっと変わった所では「無刀取り」を教えて貰いました。 最初は「刃物」に対する恐怖心を減らす為に刃物の性質を学びます。 刃物は押し付けただけでは肉を切る事はできず、引くなり押したりした際に始めて切れる事を理解する為に、出刃包丁を腕に押し付けるのです。 この時は呼吸法も重要になります。 身体が緊張していると思わぬ怪我をする事があるので、息をゆっくり長く吐きながら行います。 いくら強く押し付けても腕には刃の跡が残るだけで肉は切れていない事を確認後、「無刀取り」をします。 武道の経験がない人がやるのですから、スローモーションのようにゆっくりと行います。 相手が突き出してきた出刃包丁を素手でつかみ取り手首を外に回して、包丁の柄を持っている者の柄と掌の間に隙間を作ります。 この時、親指と人差し指の間から小指の付け根にできる掌の折れ目と包丁の刃をピッタリと合わせてから包丁をしっかりと握ります。 そして相手の掌と柄の間に隙間ができたらそのまま腕を大きく外回ししながら包丁を抜き取るのです。 これがスローモーションではなく実践と同じスピードで行われれば、武道で高段者が行う「無刀取り」になります。 刃物を扱うだけにびくびくしながらやる者が多いのですが、K.A.先生はトレーニングを受ける者に考える暇を与えないテンポと気合いで畳み掛け、気が付いた時には初めて行う者が「さま」になっているくらいきちんとできていました。 「考えたら『意識』がブレーキをかけてしまうから、簡単にできる事さえできないくなってしまう。」 といつも仰っていることを実感できる、印象的な経験でした。
受け始めた頃に印象的だったもう一つのトレーニングに「トランス性運動」がありました。 K.A.先生の本にも解説してありましたが、読んでもイメージが浮かんできませんでした。 「無意識」のレベルが深まると、身体が勝手に動き出すと表現されているのです。 トレーニングで心身の緊張がある程度取れた頃、K.A.先生やトレーナーが「トランス状態」へと誘導すると、横になって休んでいた者がゴロゴロと転がり始めます。 身体を捻ったり回したり跳ねたりと動きは人によって様々です。 身体の悪い箇所を無意識に動かす事によって治そうとする「自動運動」なのだそうです。 未開社会で定期的に行われる祭りなどでは、夢中になって踊っているうちにこの「トランス状態」に入り自然治癒力が発揮されるから病気などが治るのだそうです。 そしてこの「トランス性運動」を意図的に行える者が「シャーマン」と呼ばれた者で、K.A.先生は「シャーマニズム」をかなり研究されてきたようです。 K.A.先生によれば、「シャーマニズム」は「宗教」と同一視される事が多いが全くの別物で、「宗教」は「教団」を形成した組織の維持の為に「人心操作術」を発達させた「人工的」なものであり、「シャーマニズム」とは「黎明期の科学」であり、「人間研究の原点」なのだそうです。 宗教ではこの状態を「憑依」とか「神降ろし」と名付けて各教団が都合のいい解釈を加えているが、人間の身体は「無意識」状態が深まれば「トランス性運動」が起きるメカニズムが最初から備わっているだけで、それに意図的な解釈を加える事自体、宗教の欺瞞性を証明していると宗教に対して批判的でした。

2010年12月10日金曜日

感覚訓練 (トラウマ)

「感覚訓練」はかなり独特の訓練だったと思います。 よく「気功」の訓練の第1歩として、両手を向かい合わせて掌の中心に「気の球」を作りますが、JA研究所では2人1組で向かい合って正座をし、一方が目をつぶりもう一方が相手の顔に掌を近づけます。 最初は顔に付くか付かないかの距離でないと何も感じませんが、慣れてくると1~2m離れても「圧力」のようなものを感じられるようになります。 次に掌を引いたり押し出したりしてそれを感じ取れるようにします。 3人で組めるなら立って行います。 掌を押し出すと相手が後ろに倒れるからです。 引いた場合は掌をかざした者が抱き止めます。 一般的には「気」の一種だろうと考えると思いますが、K.A先生は「集中力」と呼んでいました。 掌で3m程度離れてもできるようになったら、2人とも目を開いて、掌でやった事を「視線」でも行いました。 
掌に意識を集中させて冷たくしたり熱くしたりする訓練もありました。 ある程度温度のコントロールができるようになった頃、人些細指と親指の股の部分に意識を集中させてて冷たくして針を刺したりもしました。 この部分がきちんと冷たくなっていれば、針を突き抜いても血が出ないのです。 これが上手にできるようになると、刃物などで手を切っても、出血する前にこの「止血法」を行えば、傷が深くない限りその場で止血が行えるようになります。 私は仕事で板金を扱っていましたが、素手でやっていたのでよく手を切りました。 そんなとき、この止血法で血を止めて傷口を寄せてからテープや接着剤で止めてしまえば、血が出ないので仕事を続けられましたし、傷の治りも早かったのでとても重宝しました。
「金縛り」の訓練もありました。 「緊張」と「弛緩」を毎日繰り返し、「感覚訓練」がある程度進むと、「催眠術」の導入としてよく行われている「人間ブリッジ」を自分の意志だけでできるようになりますし、人にもできるようになります。 「人間ブリッジ」は身体を反った一本の棒としてイメージしますが、床に張り付いたイメージをすれば「金縛り」になります。 「人間ブリッジ」や「金縛り」を自分の意志だけで行えるようになった頃には、「交感神経」と「副交感神経」をコントロールできるようになってきているので、自律神経失調症などはかなり改善されています。 肩凝りなどもただ揉みほぐすのではなく、1度強く緊張させてからその緊張を解き、その後揉みほぐすと緩みやすくなっています。

2010年12月9日木曜日

緊張と弛緩 (トラウマ)

又、「運動」と言ってもスポーツのようなものではありませんでした。 腹筋や脚力を鍛える為に基本的な筋力トレーニングを行いましたが、同時に血液の循環を促す事も重視していました。 そしてそれ以上に、鍛えたら「弛める」事を最重要視していました。 「弛める」とは言ってもマッサージやストレッチとは違っていました。 身体中の神経節に指を立てて強く握るのです。 腕に入れられれば暫く腕が動きません。 ですが、この状態は筋肉が緩んだ状態であることも事実です。 そして相撲の「股割き」のように全身の筋肉を無理矢理伸ばします。 最初の1~2週間は身体があちこち痛みました。 一見何でもない、「お遊戯」や「ヨガ」のような体操も、きちんとやるとかなりハードでした。 筋肉の「緊張」と「弛緩」を極限まで繰り返しながら「血液の循環」をよくさせられた毎日でした。
「腹式呼吸」も腹が硬いと正しくできないからと、仰向けになった腹の上に立って呼吸に合わせて足で腹を弛めたりもします。 正座をして息を長く吐く訓練は声を出して行いましたが、腹から息が出なくなって終わりではなく、身体を前に倒して頭が床に付くまで折ります。 ここで息が出なくなると、今度は腹に当てた拳で腹を押して息を出し続けます。 やってみると分かりますが、呼吸の長い人でも、声を出しながら息を吐くと30秒が精一杯です。 これを最低でも60秒は吐き続けられるようにするのですから、かなりハードです。 4~5回やると頭がボーッとしてきます。 どう頑張っても10回やる前に全身の力が抜けて床に寝転んでしまいます。

2010年12月8日水曜日

トレーニング内容 (トラウマ)

JA研究所のトレーニングは「プログラム」としての形がありませんでした。 「意識」の世界のように理論や観念で覚えるものではなく、「感じ取り」「身体で覚える」のが「無意識」の世界だからと、トレーニングルームにいる人達に必要と思われる事をその時に応じて判断しながら教えていました。 その指導方法を「学校の授業じゃないんだよ。 プログラムなんて形があったら『無意識』じゃないだろう」とよく口にしていました。 料金は1回13万円で期間は1ヶ月間。 トレーニング時間は月曜日から土曜日の10:00~22:00 まで。 自分の都合の良い時間に来ればよいというものです。 高額だったのでトレーニング料金を無駄にしない為に、母に弁当を2つ作ってもらい、朝10:00から夜10:00まで「食事」「運動」「呼吸」「考え方」などに渡って、独自の理論に基づいた指導を受けました。 その詳しい内容はとても書き切れるものではありませんし、正確には表現できませんが、後日私ができる範囲で書いてみるつもりです。 
私は最初に「考え方」を徹底的に直されました。 直すと言っても丁寧に「教えてくれる」訳ではありませんでした。
「『馬鹿』に『馬鹿』と言って何が悪い! 『馬鹿』が『馬鹿』だと気付かなければいつ直すんだ。 誰も『馬鹿』だと教えてやらなければいつまでも『馬鹿』のままだぞ!」そう言って自分の考え方の未熟さを徹底的に「矯正」されたのです。 私が勉強していたものは飽くまでも「知識」であって、今の社会が「学歴・資格偏重」だからそれらに関係する「知識」が重要視されているが、勉強とはそんな表層的な事ではなく、「真実」を知り、嘘や欺瞞に惑わされることなく、生きてゆく為の判断材料を得る事だと言われました。 ですが、何が表層的で何が真実かが分からない私は、質問をする度に「頭が硬い」「馬鹿」「観念論だ」とコケにされ、何度も腹が立ちました。 ですが反論すればするほどぐうの音も出ないくらいにこてんぱんに言い負かされ、何も言えなくなると「何も知らない」「口先ばかりだ」ととどめを刺されます。 一日中いる訳ですから本当に面白くない毎日でした。

2010年12月6日月曜日

K.A.先生 (トラウマ)

振り返れば、愚かなサイクルに迷い込み、ムキになって出口を探していた訳ですが、もしかしたらわざとこんな迷宮に入り込んでいったのかも知れません。 もし精神的余裕があれば、当時の私の頭の中に浮かんでくるのはS.S.の事に決まっています。 リストカットなどの自傷行為をする者の心理が最近まで分かりませんでしたが、よく考えてみれば私が当時やっていた事も自傷行為と大差なかったのかなと思っています。
そのS.S.は後に、妊娠したので籍を入れました。 結婚式は行わず、お腹が大きくなる頃には互いの連絡もなくなりました。 ですが、私がS.S.の事を諦め切る事ができるまでには2年以上かかりました。 そして、コンプレックスに苛まれた冴えない時間を過ごしながらも、自分なりに試行錯誤を続けていました。 働き始めると学生時代のようにいくらでも時間がある訳ではないので、より効率的な学習法や新しい情報を求めて図書館によく通っていました。 
この当時は東欧諸国スポーツトレーニングイメージ法を用い、国際舞台で好成績を残していた事から、西欧諸国でもトレーニングに盛んに取り入れられていました。 そしてそれを自己啓発や能力開発に取り入れようという動きが出始めた時期でもありました。 高校在学中に興味を持った高速学習は望むような成果を得られなかったので、私の関心イメージ法に移ってゆきました。 ある日、近所の図書館で集中力の高め方とイメージ法について詳しく解説してある本を見つけました。 この頃私は独学でイメージ法のトレーニングをしていました。 残像を利用してイメージのコントロール法を身につけようとしていたのですが、形こそ浮かんでも色は上手くコントロールできませんでした。 これまで数名、読んだ本の著者の研究所やセミナーに直接出向いて指導を受けた事もありましたが、どこも要領を得ませんでした。 ですが、JA研究所のK.A.先生の本はこれまでの本とはちょっと違って感じました。 
集中力強化法、イメージ法以外にも、呼吸法や「超心理学」と幅広い分野に非常に興味深い解説をしていたので、私は早速連絡して、JA研究所に向かいましたが、トレーニング代が1984年当時で13万円と高額だったので直ぐにはトレーニングを受けられませんでした。 ここのトレーニングやシステムはちょっと変わっていて、表看板は「無意識」の世界でした。 人間は本来、無限とも言える能力を秘めており、車に例えるなら、整備が「運動」、燃料が食事、吸気が「呼吸」、エンジンが「無意識」、アクセル・ハンドル・ブレーキなどの操作が「意識」であり、いかに車を上手に操作するかに「意識」を向けるべきなのに現代人はブレーキを踏んでばかりで動き出そうとしないので、上手な「無意識」の使い方を覚える為のトレーニングをしていました。
学割がないのかと尋ねると、「そんなものはない、覚えたかったら働いて金を貯めろ!」と素っ気ないものでした。 ですが話をして感じた事は、幅広く且つ深い知識と、それを日常生活で実践する応用力、揺るぎない強い自信等、あらゆる面がこれまで会った誰よりも勝っていました。
「K.A.先生から指導を受けてみたい」
そう思った私は出費を抑えてトレーニング代を貯めました。

2010年12月4日土曜日

愚のサイクル (トラウマ)

高校を卒業する頃には禅以上の奥深さを感じたヨガに関心が移ってゆきました。 ですがこの当時、ヨガといえばハタヨガが中心で、私の求めるものとは違っていたので独学で覚えました。 そしてある日、教えている事はハタヨガなのに、「何かが違うな」と感じさせる先生に出会ってから暫く、その先生の指導を受けました。 かなり後になって分かった事ですが、このK.S.先生はかなり本格的な巫女の修行をしていましたし、当時のサイ学会副会長の愛弟子でもありました。 又、当時募開始したばかりの女子競艇選手募集の最終選考審査まで残った活発な女性でもありましたから、違っていても当然でした。
K.S.先生は「自分の身体に尋ねる」という事を非常に重視していました。 身体が気持ちよく感じる事が身体にとって良い事な筈なので、本来の感覚を取り戻せるようにとヨガの指導をして下さったのです。 「超心理学」や「超常現象」に興味を持っていた私は、最初のうちはそちらの質問ばかりしていましたが、この身体が本来持っている自然な感覚を取り戻してから発達させなければそういった能力は得られないからと、常に各段階に合わせた指導をして下さいました。
いつからかははっきり覚えていませんが、この頃私は常に疲労感があり、電車で10分程立っているだけでもしんどく感じることがよくありました。 昼間実家の仕事を手伝い、仕事が終わると英語や法学の勉強をし、合間にヨガで身体と頭を休めていましたが、ちょっとでも油断をすると寝入ってしまうようになりました。 身体が疲れているのですからゆっくりと休ませなければいけないのに、私は時間が惜しくて濃いコーヒーや紅茶を飲んで無理矢理眠気を覚ましながら勉強をしていたのです。
当時は気付きませんでしたが、K.S.先生がせっかく身体の疲れを取れるようにと指導をして下さっているのに、疲れに拍車をかけるような生活をしていたのです。 元々身体が丈夫ではない私は、努力をすればするほど身体を壊し、それに比例してペニスも萎えるようになってしまったのです。 精神面でも英語や法学に集中すればするほど、僅かでも気を緩めた途端に、徐々に悪化するインポテンツが気になってしまい、目の前の事に集中ができなくなってしまいます。 ですから気を張りっぱなしにしていない限りまともに勉強ができないのです。 「真ん中の足」が自分の人生を歩もうとしている他の2本の足を引っ張っているように感じていました。
何をするにも「バランス」を取りながら継続する事が大事ですが、私のやる事はいつもこの「バランス」がかけています。 努力すればするほど体調を悪化させているのに、時間を惜しんで身体が要求している休養は取らない。 インポテンツを気に病んでいるのに勉強や瞑想で誤魔化す。 体調が悪いのを必死にヨガで治そうとする。 と馬鹿な事を繰り返していました。

2010年12月3日金曜日

関心 (トラウマ)

こんな人に言いづらい悩みを抱える少し前、高校3年の1学期に私は既に大学進学を断念して就職を選び、その後失恋しました。 このままでは社会に出る前から負け犬になってしまう、今いるこの地点から、何をどうする事が自分を最も成長させられるのかを、落ち込みながらも必死に考えました。 
最も関心があった事は、英会話でした。 今後国際化が加速してゆく中で、英語を使いこなす事は必要最低限の条件であろうと、大学進学を断念した時点から英会話をかなり真剣に学び始めました。 学校での英語の成績は余り良くなかったのですが、2年の英文法を担当してくれた講師の先生がとても良い先生だったので、随分相談に乗って貰いました。 ほとんど独学だったにも拘わらず、意外と覚えが良かったように思います。 卒業後に受けた英検2級は受験対策を殆どしなかったにも拘わらず合格することができました。 ですがさすがに1級には届きませんでした。 当時は準1級がなく、1級と2級のレベルの差が大きかったので、受験対策をせずに英会話だけしか勉強していない私が合格できないのは当然でしたが、苦手な英文法にもう少し力を入れた受験対策を普段からしていれば、合格圏に手が届く程度の点数は取れたと思います。
「超心理学」にはそれ以前からかなりの関心を持っていました。 きっかけはブルガリアで開発された「超高速学習法」とユング心理学の「集団無意識」の概念の二つを知った事です。 この2つはどちらも2年生の時に英文法の先生から教えてもらったもので、私にとってはかなり衝撃的なものでした。 小学校3年の時に、何かの本でブルガリアの「超高速学習法」を紹介していましたが、小学生向けの本でしたから「すごい! 先生の話を聞いても聞かなくてもテストは満点!?」みたいな紹介の仕方で、肝腎の学習方法については「クラッシック音楽を聴きながら、リクライニングシートで先生の説明を聞いても良し、聞かなくても良し。 でもテストをするとみんな満点近い高得点で、今までの勉強法の30~50倍のスピードで勉強ができる。」程度の説明しかなく、詳しく知りたくても参考資料になりそうなものは何も書いてありませんでした。 それが8年後、歴史、原理、方法などを詳しく解説した本が出版された事を知り、飛びついたのです。 この頃はまだ大学受験を目指していたので、苦手な英単語を覚えようと自分で教材を作りました。 後に大学受験用英単語のテープが市販されたと知ると直ぐに購入して試してみました。 また、その本を監修した教授(確か、平井富雄だったと思います)が禅と脳波の関係について興味深い研究発表をしていたので、近所の禅宗のお寺に座禅を組みに行ったりもしました。
超心理学については、最初はフロイト心理学に興味を持っていたのですが、次第にユング心理学、特に「集団無意識」に関心が移ってゆきました。 そのうちに「オカルト」「超常現象」を理論的に説明している「超心理学」は、人間の能力の限界を打ち破る可能性を秘めた学問のように感じ、 一時はこの世の全ての謎を解く秘密の合い鍵であり、無限の可能性手に入れたと錯覚していました。  この頃既に「精神世界」「スピリチャリズム」という言葉が使われ始めていましたが、この言葉を使っている著書を読むと、現在のように体系立ってはおらず、私には「お化け」「霊」を信じている人達が「本当にあるんですよ、科学で説明できない事が!」と声高に叫びながら、都合の良い所だけ「科学」を持ち込むん中途半端なカテゴリーにしか感じませんでしたので、私の中では明確に線引きしていました
3年の2学期も後半に入り、就職先も決まった頃には、大学に通信教育課程というものがある事を知り、法律を学ぶ事にしました。 決して法律自体に興味があった訳ではありませんが、知っていて損はないと思いましたし、法律に関わる事で「食いっぱぐれない」と思ったのです。 高校3年の間に自分の方向性がある程度決まったと言うよりは、大学進学を断念した事で自分のやりたい事がはっきりと見えてきたように感じました。

2010年12月2日木曜日

インポテンツ (トラウマ)

「中折れ」するようになった頃、自分が女性と話をする事が苦手になっていることにもようやく気付きました。 特にコンパなどに参加すると、周りが盛り上がれば盛り上がるほど、1人でポツンとする事が多くなりました。 性的コンプレックスが自分への自信を奪っていったかのようで、仲の良い数名の女友達以外は何を話しても直ぐに会話が止まってしまい、間が重く感じるようになくなってきたのです。
「中折れ」も女性との会話を苦手にした一因ではあると思いますが、まだ症状がなかった高校時代に女性と話をする機会があっても、S.S.以外の女性とは白けてしまう事が殆どでした。 恐らく、かなり前から女性が苦手だった事に気付いたのは、性的コンプレックスを自覚したからだと思います。 そして女性との会話が苦手だと意識した事は「中折れ」をさらに悪化させた一因になったのだろうと思います。 「中折れ」が悪化して射精できなくなってしまってからそれほど間を置かず、ついにはいくらエロ本を見ようと、強い刺激を与えようと、勃起をしなくなってしまったのです。 唯一の救いは朝起き抜けには勃起をする事があり、その時にすかさずマスターベーションをすることでなんとか射精まで漕ぎ着ける事ができました。 「朝立ちすると言う事は、機能的障害がある訳じゃなくて、精神的な問題が原因で起きる事だし、一時的なケースが多いのだから、心因さえ解決できれば元に戻るはず。」と自分に言い聞かせ、「朝立ち」を心待ちにしていました。 ですが「片金」になったことと「失恋」したこと以外に原因として思い当たる事はありませんので「解決」のしようがありません。 まごまごしているうちに「朝立ち」の回数まで減ってきました。 少ないチャンスを確実にものにしようと前の夜から構えているものですから、とうとう「朝立ち」すらしなくなってしまったのです。 毎朝しょぼくれた自分の息子を握り締めながらため息をつく事が多くなりました。
ですが良く気をつけると、起き抜けのまだ寝ぼけている間に勃起しているようなのです。 「あ、立ってる」と気が付くとすかさず、マスターベーションを始めるのですが、朝が弱いので直ぐに臨戦態勢を取れません。 大抵はしごき始めた直後に萎えてしまい、めったに射精できませんでした。 「また駄目だ」とがっかりした事ではっきりと目が覚めたました。 でもその時は既に、いくらいじろうが何をしようが、うんともすんとも言わなくなっているのです。 着替えたり風呂に入っているときに、情けない自分息子が市やに入ると、心の中も「情けなさ」で一杯になりました。 女性とは縁がない上に「インポテンツ」と「片金」というコンプレックスを抱え、私の性格はかなり「いじけた」ものになってしまったようです。
心が「いじけて」しまうと、ついには起き抜けのまだ寝ぼけている時でさえ「朝立ち」を確認できなくなるという「とどめ」を刺されてしまいました。 

2010年12月1日水曜日

中折れ (トラウマ)

S.S.はプロポーズされて間もなく妊娠し、その後お互いに連絡を取らなくなりました。
どうしてもS.S.と比較してしまい、他の女性に全く魅力を感じられなかった私は、女性と話をする事が次第に苦手になってゆきました。 ですが原因は失恋のショックからだと思い込み、最初はあまり気にもしませんでした。
その間に片方の睾丸を失った事に対するこだわりがトラウマとなり、私の心を徐々にですが確実に侵していたのだと思います。 それにはっきりと気が付いたのはS.S.とも連絡がなくなった高校卒業後です。 高校2年まではちゃんと「朝立ち」をしていましたし、視覚や聴覚又は物理的な刺激があれば普通に勃起をしていました。 3年の夏休み明けだったと思いますが、たまにマスターベーションの途中で萎えてしまうようになったのです。 ですが、何らかの刺激をもう少し強くすれば再び勃起したので、自分は「性力が弱い」くらいに考えていました。
ですが高校卒業後、その症状は徐々に悪化し、萎えてしまう回数が増え、マスターベーションをしても「中折れ」してしまい、射精できない事がたまにありました。 刺激を与えると再び勃起するのですが、射精する前にまた萎えてしまうのです。
睾丸の機能は片方だけでも精子を一生生産し続けるだけの能力があるそうなので、「片金」であろうが必要な役割は果たせますが、「インポ」になってしまったら、「使い物」になりません。 慌てて表紙に「医学博士○○監修」と書き込んである新書版の「早漏・インポテンツの治し方」「蘇る!○○○」といった書物を読みあさり、インポテンツになってしまわないようにできる限りの努力をしました。 ですが、どんな本にも一番大事な事は「気に病まない」と書いてあるのに、インポになってしまう事を怖れた私がこの類の本を読みあさった事は逆効果になったのかも知れません。 「中折れ」が起きる回数は徐々に増えてゆき、増えるに従い焦りがさらに昂じてインポテンツへの逆スパイラルに落ち込んでしまったのでしょう、マスターベーション中にちょっとでも手の動きをゆるめると「中折れ」するようになってしまいました。 そうならないように強い刺激を持続的に与えなくてはならなくなりましたが、そんなに長時間刺激を与え続けられるものではありません。 どうしても手が疲れてしまい、動きが鈍くなるとあっという間に萎えてしまいました。 刺激を与え続けられるように左手も使えるようして、充分に硬いうちは左手を使用して右手を休めました。 萎えそうになると右手で強い刺激を与えるようにしたので射精できるようになりましたが、勃起を維持する為に必要な刺激はエスカレートしてゆき、普通のマスターベーションでは射精ができなくなってしまいました。

2010年11月30日火曜日

「冷めた目」の理由 (トラウマ)

ですが、プロポーズをした彼は、2人目の母親の話をした時、
「それが原因なんだろうな、お前がたまに『冷め切った目』をするのは。」
とあっさり言ったそうです。 その時S.S.は何でこの人はそこまで人の心が読めるんだろうととても感心したそうです。 話の前後から推測するに、それが彼に惹かれていくきっかけではなかったかと思われます。 私は、
「いや、その事には俺も気付いていたよ。」
と言いたくなりました。 でも、気付いていたのは「冷め切った目」だけで、そんな目をする理由を彼女の生い立ちには求めませんでした。 そんな目をされたので、私に気がないのだろうと、自分の事だけを考えていたのです。 プロポーズをした彼のように、S.S.の気持ちを理解してあげる事ができなかったのです。 これまでもS.S.と話をしていて自分が「子供」だなと思う事は何度もありました。 でも、これほど自分が「小さく」かつ「情けなく」感じた事はありませんでした。 「やっぱり俺とS.S.じゃ吊り合わなかったんだ。」そんな思いが重くのし掛かってきて、気持ちは深く沈みました。 せめてS.S.に気付かれないようにと表情を取り繕いましたが、恐らく表情にははっきりと出ていたはずです。 幸か不幸かこの日のS.S.は自分の世界に浸っていたので、私の表情なんかお構いなしに話し続けました。
誰だって失恋経験の1つや2つはあるでしょうが、私はこの日の出来事からいつまでも立ち直る事ができませんでした。 それは丁度、「片金」になってしまっても直ぐには実感が湧かずに、じわじわと私の心を蝕んでいったのと似ていました。 時間が経てば経つほど気力が萎え、S.S.の事が頭から離れなくなってゆきました。 学校は期末試験までまだ間がありましたが、受験を控えている3年生ですから、皆夏期講習の選択に忙しい時期でした。 進学を諦めた私は周りの目には1人で机に伏せて暢気に寝ているように映っていたと思いますが、実際は涙を見られたくないので寝ている振りをしていただけでした。 激しくは落ち込みませんでしたが「もうどうなってもいいや」と自棄になっている部分と、「このままじゃまるっきり負け組の人生じゃないか、なんとかしないと。」という意識の狭間で方向性を見出せずに時間を右から左にうっちゃるような日々がしばらく続きました。 期末試験が終わり、夏休みを迎え、2学期が始まりましたが、中途半端に落ち込んでいる事には何ら代わりがありませんでした。

2010年11月29日月曜日

そ、そんな・・・ (トラウマ)

余りに突然だったので、事態を把握できず、何をどう答えるかの前に、頭を整理する必要がありました。
「え~ッ! ちょっと待ってよ、唐突すぎて話が見えないよ。 その人の事、もうちょっと詳しく教えてよ。 いつ知り合ったの?」
S.S.は出会いから現在までを大まかに説明し始めました。 そう言えば、最近知り合った人で頭の切れる面白い人がいるから、そのうち紹介するねと言ってた事がありましたから、その男と交際していたのでしょう。 取り敢えず気を落ち着けて、彼女の話をきちんと理解しないことには対応のしようがありません。 必死に取り繕っていましたが、話を聞きながら頭の中の混乱を整理するのは容易な事ではありません。 ただ「聞き役」に徹するのが精一杯でした。 
「未だ早いよ。 俺ら18だぜ。」
絞り出してやっと口から出た言葉はこれだけでした。
「でもね、こんな私でもいいからって言って、貰ってくれる人がいるんだから・・・。」
そう口にするS.S.は、私が今まで一度も見た事がない、幸せそうな顔をしていました。 私はS.S.の笑顔が好きで、どうしたらその笑顔が見られるのかとばかり考えていました。 でもその彼女がこんな表情をするなんて、これまで想像した事もありませんでした。 初めて見た幸せそうなその顔に向かって、結婚を否定するような言葉はとてもではありませんが言えませんでしたし、まともに目を見る事ができずに俯きながら、相づちを打つ以上の事もできませんでした。 
「こういうのが『縁』なのかも知れないって思っているのよ。 みんな『未だ早い』って言うけれど、そんなのただ遅いか早いかの違いだけでしょ。」
S.S.は話を続けましたが、声は聞こえても上の空で何も考えられません。 どれだけ時間が経ったのでしょう、いつの間にか彼女は子供の頃の話をしていました。 何度か聞いた事のある、2人目の母親の話です。 S.S.とは中学校は同じでしたが、小学校は別でした。 小学校の写真は友人から卒業アルバムを見せて貰い、集合写真の中に小さく映った彼女の顔しか見た事がありません。 何度も家に遊びに来ているのですが、彼女のアルバムの類は一度も見せて貰った事がありません。 小学校低学年の時に撮した写真は全て、寂しそうな目をしているから人に見せたくなかったのだそうです。 無理もありません。 いくら弟を愛していると言ったって、小学校低学年が継母から露骨に差別をされても我慢していたのです。 高学年になった頃には精神的にもかなりタフになり、殆ど表情に出なくなったようで、私が生徒会で一緒になった中学2年生の頃にはそんな片鱗も見えませんでした。 また、これまで誰にもそんな事を指摘された事はなかったそうです。

2010年11月28日日曜日

告白 (トラウマ)

そんな生活を続けていくうちに私も高校3年になってしまいました。 S.S.に恋愛感情を抱いたのは中学校2年の夏休みからでしたから、気が付くと4年間も片思いを続けていました。 その間は常に、「自分がもっと成長して彼女に追いつかないと彼女とは釣り合わないし相手にもされない」そんな風に考えていたので、振られるよりは今の関係でいた方がずっとましだと思っていました。
この頃私は大学受験を諦め、就職するつもりでした。 国立大学は共通一次試験が導入され、とても対応できませんでしたから、私立大学受験しか道がなかったのですが、4年間の学費を考えると大きな無駄に思えたのです。 その4年間に仕事を覚え、収入を自己投資に回した方が自分の成長に繫がると考えたからです。
同時に、社会人になる事を目前に控え、いつまでも片思いのままではどうしようもないと思い始めました。 思い切って自分の殻を破らないと今の状態をダラダラと続ける事になるから、結果がどうであろうと打ち明けようという思いと、大人と感じる彼女との差がこの4年間で大きく開いてゆく一方の私なんか相手にしてくれる訳がないのだから、今のまま友達でいた方がずっといいという思いの狭間で気持ちが大きく揺れましたが、私が進学よりも就職を選んだ理由の一つに、早く社会に出て自分を成長させたいという思いもありました。 次第に、いつまでもこんな状態を続けても仕方ない、打ち明けるんだという思いが強くなり、ようやく決心が付くまでに4年もかかった訳です。
決心が付くなり、S.S.から電話がありました。 いつもの調子で、
「あたし。 どうしてる? 時間あるかな? 又いろいろ話したい事もあるんだ。」
いつものように彼女の家で会う事にして、いつものようにたわいのない話から始めました。 でも、S.S.は何か言いたい事があるのに言い出せないような雰囲気でした。 私は私でいつ話を切り出したらいいのか、そのタイミングを測っていましたので、いつもと比べるとちょっとぎこちない会話でした。 そんな雰囲気を破って話したい事を口にしたのはS.S.の方でした。
「実はね、今、『結婚してくれ』って言われてるんだけれど、どう返事しようか迷っているのよ・・・」

2010年11月27日土曜日

冷めた目 (トラウマ)

ラッキーパンチのように放った言葉以外にも、彼女にとってよかったことがあったようです。 彼女が自分でやると決めた仕事ですから、私が何を言っても辞める訳はないと思っていたので、「辞めなよ。」とはどうしても口にできなかった事です。 私にとっては何も出来ない自分の不甲斐なさに落ち込まされる事だったのですが、逆にS.S.にとってはそれが心地良かったようなのです。 彼女の友人は異口同音に
「辞めちゃいなよ、そんな仕事。」
と、ありきたりの返事しか返ってこないので、仕事の話を友人にしているとうんざりすることが多かった時に、私はそんな事を一言も口にしなかったので、言いたい事を気の済むまで話せたようです。
互いに求めるものや、見つめている所が違っていたようですが、それでも話の息は合っていて、会話のやり取りは楽しいものでした。 ですが私にとっては、彼女が大人に見えて自分との「差」がどんどん広がって感じる事以外に、もう一つ、悩みの種がありました。
彼女と話をしていると、たまにすごく冷たい視線を向けられるのです。 私が何かいやらしいことを事をしたとか、軽蔑されるような発言をしたとかではなく、何かの折に一瞬そんな目をするのです。 その冷たい視線はまるでアイスピックのように鋭く私の心を貫き、いくら話が弾んでいても、その目を見るとゾッとして一瞬言葉が止まってしまうほどでした。 出勤時間ギリギリまで話し込んだ帰路、その冷たい視線を思い出すと、「やっぱり俺なんかに惚れる訳ないよな。 惚れた相手にあんな目をする訳ないしな。」とがっくり肩を落としたものです。 この「冷めた目」が私に向けられたものなのか、何を意味しているのか、私には分かりませんでした。 何度も話題にしかけたのですが、その都度、触れてはいけない事のように感じて、結局黙っていました。
「久しぶりに会いたいな」と思い、彼女の笑顔を思い浮かべながら電話の受話器を上げた時、この「冷めた目」をしたS.S.の顔が浮かんできたので、ダイヤルを回さずに受話器を置いた事は1度や2度ではありませんでした。 いつも心の底から楽しそうに笑う顔が私を惹き付けて放さないのですが、その笑顔の裏に潜む、「冷めた目」は私を突き放し、決して近づけさせなかったのです。

2010年11月26日金曜日

無意識に (トラウマ)

ですが、医者が「充分な休養を取るように」と言うほど無理をしている時に、わざわざ私と連絡を取ってまで話しがしたいのですから、話題はそれだけではありません。 話を聞き終わった後で、何を言っていいか分からないほど考え込まされるような話題が必ずと言っていいほどありました。 どうしても自分で納得がいかなかったり、何をどう考えていいか分からなかったりした、彼女にとって「消化不良」な出来事についてです。 私にとっては彼女を私の方に振り向かせ、2人の「差」を埋める為にも「消化酵素」になるような気の利いた意見の一つでも言いたいところですから、必死に頭から言葉を絞り出しました。 今考えればろくに人生経験もないくせに、人生相談で「すっきり解決」できるような名解答をしようとしている訳で滑稽もいい所です。 ですが彼女は何度かに1度、私の言葉に俯いて何も言わなくなるほど考え込む事がありました。 ですが、本当に「消化酵素」になったような言葉は、決して意識して出したものではなく、反射的に口をついて出てきたような言葉の中にあったようです。 後でS.S.に言われても、「そんなことを言った気がするな」程度の記憶しかない言葉ほど、彼女の記憶には深く残っていました。 何年も後で彼女の口から、「辛かった時期にあなたの言葉で随分と救われたのよ」と言われた事がありましたが、当然、実感は全くありません。 ボクシングに例えるなら、ろくな練習もせず、試合ではクリーンヒットでのポイントを全く稼げなかったのに、「ラッキーパンチ」を放ってダウンを奪ったようなものです。
彼女だっていつもそんな事だけを期待していた訳ではないと思います。 同年代の友人と話をする機会は殆どないので、同い年のたわいもない生活の一端に触れ、日常生活で溜まったものを吐き出せればそれだけでも充分だったのかも知れません。 ですが私はラッキーパンチを放つことばかり考え、思うようにならない事を悔しがってばかりいました。

2010年11月25日木曜日

2人の会話 (トラウマ)

S.S.と親しくなったきっかけは生徒会活動でした。 クラス代表として話し合ったり、放課後に学校行事の準備をする際、一緒にいる時間が多く、S.S.と私は話が合ったのでいつも一緒にしゃべっていました。 私はS.S.の笑顔が好きでした。 本当に楽しそうに、心の底から笑っている彼女の顔を見ることができれば、他には何も要らないといつも思っていました。 彼女の方も、私との会話は楽しくて飽きないと言って、暇があれば話しかけてきました。 後にも先にも、私の事をこんな風に思って、自分から話しかけてくる女性はこの子だけでした。 彼女の笑顔が見たくて、彼女が喜びそうな話題をいつも考えていましたし、話題として使えそうなジャンルの本を選んで読みました。
中学校時代には気が付きませんでしたが、ただ話が面白いから話をしたがっていただけではなかったようです。 私もよく理解できないのですが、私はたまに「深く考え込まされる」事を話すのだそうです。 恐らく彼女の「琴線に触れる」ような言葉を発する回数が多いのだと思います。 S.S.が水商売を始めて会う機会が減っても、定期的に連絡を取っていたのは、どうもそんな会話をしたかったみたいです。 そうは言っても、私の方は平々凡々で変化のない高校生活を送っていましたから、目新しい話題などは殆どありませんでした。 その逆にS.S.の方は水商売なのですから、理不尽な話、馬鹿馬鹿しい話、笑わされる話、腹の立つ話、身につまされる話、泣かされる話と話題に事欠きませんでしたから、私はどうしても「聞き役」に回らなくてはなりませんでした。 そして、そんな世界で毎日働くS.S.に「今の仕事を辞めて欲しい。」と常に思っていましたが、彼女が自分で選んだ道ですし、私の言葉で辞めるくらいなら、彼女自身が考えて、とっくに辞めています。 会う度に、何も出来ない自分の不甲斐なさを責めて落ち込んでいました。

2010年11月24日水曜日

大人になれない (トラウマ)

中学の時に兄弟で差別をされた事は聞いていましたから彼女の話を聞いていると、苦労というものを知らずに何も考えずに「のほほん」と育って来た自分はとても小さな「子供」に感じ、「苦労」を乗り越えてながらもそんな振りすら見せないS.S.がとても「大人」に見え、とても手の届かない存在に感じていました。 自分がもっと成長しないと、とてもS.S.と釣り合わない、そんな思いが常にあり、彼女を大人にした「苦労」というものに意味もなく憧れていました。 親が子供には自分と同じ苦労をさせまいと必死になって育てているのに、「苦労知らずに育ってしまったので精神的に成長ができない」からと、「苦労」に憧れるなんて皮肉なもの、というよりただの馬鹿だったと思います。 ですが、何かのきっかけでS.S.の苦労話を聞かされると、黙って聞く以外何もできない自分がもどかしくて仕方なかったのです。 何か気の利いた慰めの言葉とか、そんな苦労話をさりげなく笑い話なりこれからの糧に変えられるような機知すら持たない自分が、情けないやら、苛ただしいやらで、彼女の家を出て自宅に向かう道程はずっと自分の不甲斐なさを責めていました。 
S.S.は高校を1年で中退し、知人のお店を手伝い始めました。 飲み屋だったので、どうしても時間が合わなくなり、会う機会は以前に比べかなり少なくなってしまいました。 16、17歳ですからいくら二日酔いしていても、仕事が始まる時間までに体調はある程度回復していましたが、話を聞いているとかなり無茶な生活を送っていて、医者からもかなり厳しく注意されていたようです。 私には、何故その知人のためにそこまで身を犠牲にしなければならないのか、さっぱり理解ができませんでした。 ですが、何かのきっかけで彼女のやることを深く追求すると、必ずと言っていいほど、彼女が最も辛かった時期、家族から与えて貰えなかった「愛情」を家族以上に与えてくれた人達で、ある意味「お礼」のようなものでした。 そう言った「人間関係のしがらみ」を見せつけられると、彼女は中学時代よりも更に「大人」になり、私との差は一方的に開いていくような気がして何も言えませんでした。

2010年11月23日火曜日

S.S.の家庭 (トラウマ)

中学校時代の友人とは卒業と同時に疎遠になってしまいましたが、1人だけ、定期的に連絡を取っている友人がいました。 片思いだったS.S.です。 中学校の中ではかなりきれいな方だと私は思っていたのですが、「美人投票」の類に名を連ねたことはありませんでした。 納得がいかなければ自分の意見を押し通す気の強さや、女子中学生っぽい女々しさがなく、他の女の子とは興味の対象がかなり違っていましたので、男子からは「変わった女だ」と思われていた事も原因の一つかも知れません。
中学校を卒業後、学校が別になったので会う機会が減ったとは言え、1~2ヶ月も会わなければどちらからともなく連絡を取っては会っていました。 彼女の父親はとても仕事ができる人みたいでしたが、女にだらしなかったので、彼女には母親が3人いました。 1人目は当然生みの親ですが、彼女を産んで直ぐに姿をくらましたそうです。 その後2人目の母が来て、弟を産みました。 この人は自分の子供と先妻の子供を露骨に差別する人だったそうです。 ですが、弟がかわいくて仕方がなかったので、そんなことは気にもならなかったそうです。 中学校2年の夏休み、S.S.は手術の為に暫く入院していました。 たまたま私もクラブ活動の無理が祟って右肩に「亜脱臼」を起こして同じ病院に通院していました。 S.S.に気があった私は「ついで」と言いながら毎日のように見舞いに行ってたので、何度かこの2人目の母親に会っています。 とても社交的で話していても楽しい人でしたので、S.S.の口からこんな話を聞いて考え込まされました。 中学3年の時に3人目の母親が来たのですが、お祖母さんとは反りが合わず、実家の近くにアパートを借りて父親と住んでいました。 父親が出て行ったので、3人目の母親ができてからの彼女は、実家にお祖母さんと2人で暮らしていました。

2010年11月22日月曜日

高校生活 (トラウマ)

友人との人間関係が壊れてしまった私にとって、中学の思い出は暗いものとなってしまったので、高校では同じ徹を踏まないように努力しました。 離れていった「親友」達以上の関係を築きたくて、必死で自分をアピールしました。 ですが、中学校時代のように「何でも腹を割って話し合える」関係は、まるで「青春ドラマ」のようで「重苦しい」「うっとおしい」と感じる者が多かったように思います。 できることなら余り深く考えたりせずに、楽しくやりたい、そう考える同級生を私は「薄っぺらく」感じる事が多かったですし、逆に友人からは「うっとおしい奴」くらいに思われていた事でしょう。 いくら友達ができても心の中では中学時代の友人以上の関係を望む事は「無い物ねだり」であり、人が離れてゆくだけだと気付き始め、次第に現実からしかものを考えなくなりました。 「~であるべきだ」「~ならいいのに」といった発想を可能な限り排除して、「今は~だから、選択肢は~と~しかない。」と選択可能なものしか視野に入れず、その選択肢の中で最良のものを選び取ることだけに専念しました。 新しい選択肢を探し出し選び出すには、広く深い知識が必要だからと、新聞や本を読みました。  逆に、「役に立たない」「必要ない」と思ったことは一切やりませんでした。  社会構造そのものが情報化してゆき、「学歴社会」が急速に崩壊してゆくという未来予測に触発され、それに関係する書物を読み始めれば、学校の勉強などは近い将来全く役に立たなくなるからと、学期末テストがあろうと全く勉強しませんでした。 でも、そんな情報を発信している人達の学歴とか情報源まで調べると、逆に高学歴な人達のネットワークに属している事が分かり、そういったグループに入り込めなければ良質の情報は得られないはずだと方向修正をして、今度は突然狂ったように受験勉強を始めました。 挙げ句の果てには自分の学力では結局ろくな大学に入れやしないからもっと別な道を探した方がいいだろうと、大学の通信講座を受けながら就職する道を選んだりしました。
又、「片金」となってしまった事も関係して、自分の身体の弱さも「コンプレックス」となっていました。 自分を「男らしく」したくて、極真空手にも通いました。 ですが、当時「ウォーミングアップ」は知っていても、「クールダウン」を知らず、冬になっても稽古が終わるとさっさと帰路についてしまっていた為でしょうか、膝を痛めてしまい、一時は歩く事さえ辛くなり、整形外科や鍼灸・マッサージにも通いましたが、毎年冬になると膝が痛むようになってしまいました。
その時その時で、自分なりに精一杯考えて進むべき道を選んだつもりでしたが、狭い視野でしか物事を見つめられず、中途半端に得た知識に振り回されてしまった3年間でした。 言っていることもやっていることも頻繁に代わり、しかも口先ばかり偉そうなことを言う私は周りとの溝を作ってしまい、高校卒業時には仲の良い友人も数人しかおらず、卒業と同時に疎遠になってしまいました。 結局私は、中学校と同じ徹を踏んでしまった訳です。

2010年11月21日日曜日

卒業 (トラウマ)

この頃テレビでは武田鉄矢の「金八先生シリーズ」の第1回目が放映されていた時です。 土曜日の話題は「金八先生」一色になり、みんな「理想の教育」とか「学校のあるべき姿」を口にしていましたし、年齢も多感な時期です。 私の発言は友人達から強い怒りを買い、皆の態度が急によそよそしくなりました。 私は「当たり前のことを言っただけなのに、現実を受け入れられないなら、ほとぼりが冷めるまで暫く離れていよう。」と距離を置くと、
「あの野郎、俺たちを無視して1人で受験勉強していやがる。 友達を蹴落としてでもいい学校に行きたい奴だからな。」
と陰口を叩かれました。 友人の1人が心配して、
「出来る限り一緒にいた方がいいよ。」
と言ってくれたのでなるべく一緒にいるようにしたが、嫌われながらそのグループのメンバーと一緒にいるという事はかなりのプレッシャーです。 中間試験を受け損ない、退院して間もなく、私は受験のプレッシャーで胃炎を起こし、医者から消化のよい物だけを採るようにと言われていました。 期末試験は不利を挽回する為のプレッシャーとの戦いでした。 テストの結果はかなり良かったのですが、胃炎はかなり悪化していました。 そこへ駄目押しのように、いつも一緒に行動していた友人達との仲違いが起こり、消炎剤を飲んでも常に胃酸がこみ上げてくる状態が続きました。
その間に何度か友人達と腹を割って話したつもりです。 「誤解だ。 話せば分かる。」と思ったからです。 ですが、話し合う機会を得れば得るほど、関係は悪化してゆきました。 後になって分かってきた事ですけれど、この言葉を訴える人は、例え話し合う機会を得たとしも、本当にその誤解を解き、分かり合えたケースなんて殆どないのです。 この言葉は人間関係を築く事が下手な者の「失敗宣言」なのかもしれません。
高校受験も終わり、卒業の準備をする頃になっても、友人達の態度は変わりませんでした。 登校が苦痛になり、神経性胃炎の通院日は午後を指定して、早退するようになりました。 放課後、友人達と顔を合わせたくなかったのです。 こんなこじれ方をした中学高校時代の人間関係は修復が難しいものです。 中学校時代の親友達とは卒業を境に、全くと言っていい程連絡がなくなりました。

2010年11月20日土曜日

他人を蹴落として (トラウマ)

「片金」と「受験失敗」にさらに追い打ちをかけるように、仲の良かった友人達からも嫌われてしまいました。 きっかけは1人の友人との会話でした。 内申書の成績が非常に悪かった私は、担任や両親と相談して私立高校も受験する事にしました。 入学試験当日にいくら良い点を取ったとしても、志望した都立高校の学校群に合格する可能性はまずないからです。 万一、私立高校受験での得点が低かった時のことを考えたからだと思います。 模試テストなどの結果から担任の先生が推薦した学校は私が志望した所より一ランク低かったのです。 全国模試テストの結果は右肩上がりに伸びていましたから、志望校をさらに一ランク上げようと考えていたのですが、同時に「滑り止め」の都立高校学校群のランクがかなり低かった為に、実際には「滑り止め」にもならず、思い切る勇気もありませんでした。 そうでなくても落ち込む事ばかりだったのに、併願によるリスクヘッジも取れないことが強いプレッシャーになったのです。 悩んだ挙げ句、担任の薦める高校に決めました。
私の通っていた中学は全国模試の学校平均点が学区の中で最下位グループに属していました。 その上、下町にあったので「滑り止め」の都立高校学校群も「本命」の私立高校も友人達の中では高い方でした。 しかも、学費の高い私立高校を「第一志望」とする者の数も少ない為、志望校を決める際はちょっと目立ち、友人達からかまわれました。
「第一志望に安牌な私立高校を選んでおいて、どうせ行きもしない都立高校を滑り止めに受けたら、お前が受験したせいで1人確実に不合格になるんだぞ」
友人の中にはこの都立高校学校群が第一志望の者が何人かいました。 ですが、受験前から半分受験を失敗している私にとっては「冗談」を言える問題ではなく、かなり真剣になっていました。
「受験なんて他人を蹴落としてでも自分がよい点数を取るものじゃないか。 合否ギリギリのラインを受験して自分より成績のよい者を非難するなら、受験校のランクを落とすべきだ。」

2010年11月19日金曜日

片金 (トラウマ)

退院当初は副睾丸炎が残っており、腫れも完全には引いていないので怖くて触れませんでしたが、右側の見かけの大きさは半分以下になってしまい、左右の玉は位置も大きさ「ちんば」もになってました。 炎症も治まった頃、恐る恐る触ってみると、陰嚢の中に「臓器の残骸」らしきものが残っていましたが、まるで「いかわた」のように軟らかくてはっきりした形はありません。 形を失ったものが陰嚢の中に残っているので大きさが小さくなって見えますが、もう「玉」ではないのです。 既に「臓器」としての形も機能も失っているはずですが、神経までは死んでいないようです。 生きている神経がむき出しになっているのでしょうか、そっと触れても場所や角度によって強い痛みを感じます。 座っているときに脚を組み替えたり、自転車を漕いでいるときに、右の睾丸の位置がちょっと動いただけでも場合によっては激痛が走るようになり、痛みを避ける為には日常生活の中で常に、右の睾丸を意識しなければならなくなったのです。
自宅療養も終わり、再登校の初日、これまでになかったほどクラスメートの視線を意識しました。 皆、私がお多福風邪が悪化して「金玉」が腫れたので入院したと知っているのです。 丁度思春期の、最も「性」を意識する年代にとって、「片金」になってしまった事は表現のしようがないほどショックな出来事ですが、自分でも思ったほどに「落ち込み」はしませんでした。 この時は未だ「実感」がなかったからだと思います。 「実感」が湧いてきたのは、後ろの席の女の子が、
「大丈夫なの?」
と声をかけて来たので、
「もう大丈夫だよ。 大丈夫だから退院してきたんだから。」よ答えると、
「え、でも~」
そう口にした後、「あ、いけない!」という顔をして会話をはぐらかしてそっぽを向き、席を立ってから他の女の子とひそひそ話を始めた時です。
「やっぱり、みんな、そういう風に思っているんだよな。」
そう思うと胸に突き刺されたような痛みが走り、やりきれない思いで一杯になりました。
この頃、よそのクラスに私が片思いだったS.S.さんがいました。 結構気が合っていて、会話はいつも弾んでいました。 いつもだったら私が暫く登校して来なかったのですから、一目散にやって来て暫く話し込むところなのでしょうけれど、その子も最初に何て声をかけていいか分からなかったんでしょう。 目が合うと、
「あ、出てきたんだ、今ちょっと手を離せないから、後でゆっくり話しようね。」
と言って、向こうに行ってしまいました。 その翌日も翌々日も、まるで避けられているかのように顔を合わせることはなく、普通に話しをしたのは1週間近く経ってからでした。 この2つの出来事は、いつまでも頭の片隅に残り、女性と話をする時にはいつも浮かんでくるようになり、次第に女性との会話が苦手になってゆきました。

2010年11月18日木曜日

犠牲 (トラウマ)

ですが、たった一度の喧嘩だけで兄弟が互いに「しかと」をする程の不仲になることは、普通ならありえないと思います。 「先祖からの因縁」を断ち切る為に、妹の代わりに因縁を受け継いだのだとU.S.さんに言われた時、口には出しませんでしたが「妹の代わりに『犠牲』になった」という思いが頭をよぎりました。 それはこんな事があったからです。
中学3年の2学期のことです。 妹が流行性耳下腺炎に罹りました。 中間試験を間近に控えていただけに、私はとても嫌な予感がしました。 もし感染して発症した時期が一致すれば試験を受けられません。 当時の都立高校入試は中学3年の2学期の内申書に5割、入試試験の結果に5割のウエイトを置き、内申書の合計点と入試試験結果を縦横に段階分けした「判定表」内の上位にいる者から募集定員までを「合格者」としていました。 内申書は中間テストと期末テストで9割方が決まってしまいます。 1点を争う入試に於いて、総合点の22.5%を失ったら不合格は決定的です。 どこか近くにアパートでも借りて妹の症状が落ち着くまで別居でもすれば良かったのですが、そうこうしているうちに妹は治り、私も別に発症しませんでした。 子供の頃、お多福風邪にかかった友達と遊んでいてもうつらなかったので、「あの時、発症しなかっただけで、一緒に遊んでいる間に抗体でもできたんだろう」なんて素人判断して油断していました。 その数日後、私は発熱しました。 病院での診断は「流行性耳下腺炎」でした。 やはり同じ家に住んでいたらば感染してしまうのでしょう。 ちょっと潜伏期が長かっただけだったのです。 最初はあまり深刻に考えていませんでしたが、次第に睾丸が腫れあがり、結局入院することになりました。 入院しても睾丸の腫れは治まるどころか悪化してゆき、トイレに行くにも一歩一歩確かめるようにゆっくり歩かないと響いて痛みました。 回診の際、腫れ上がった私の睾丸を見て「かわいそうに」という看護婦の言葉が逆に私をみじめにしました。 投薬の効果が余りなかったので、腰の辺りに半円形の「籠」を被せ、上から氷嚢を吊して患部を冷やしましたが、ちょっと動いただけでもずれてしまうので効果はありませんでした。 「このまま『無精子症』になっちゃって、結婚もできないんだろうな。」と、朧気ながらに考えていましたが、実感が湧きませんでした。 あるのは腫れた患部の痛みだけです。 タイミングの悪い事に、丁度中間試験と重なってしまい、私は内申書に最も大きな影響があるテストを受けることが出来ませんでした。 期末試験は狂ったように勉強した為、殆どの教科は学年でも10位以内に入る成績でしたし、いくつかの教科は学年最高でした。 担任の先生は「他の先生達も試験を受けられなかった事は考慮してくれるから心配するな」と言ってくれましたが、冬休み前に手渡された通知表は希望校『不合格』を通知する散々なものでした。

2010年11月17日水曜日

馬鹿にしないでよ (世代間伝播)

これが妹には面白くなかったようです。 教えてもふてくされて真面目にやろうとしません。 何をふてくされているのか聞くと、
「私は中学3年よ、小学校3年じゃないの、小学校3年の問題何かやりたくないわよ。」
と言い出すのです。 私は腹が立ってかなりきつく怒りました。 
「その小学校3年の問題すらまともに解けないで、どうやって中学校3年の問題を解くんだ。」
すると、
「だからちゃんと解いているじゃない。」
と言うのです。 さっき答え合わせをしたばかりの小学校5~6年生用のグラフの問題は、X軸Y軸の数字が相変わらず不等間隔に刻まれており、数字と棒グラフの位置や長さもトンチンカンで、「歪んだ空間」を通して見ているようなしろものなのです。 
「どれ一つ合ってないじゃないか。 これで「解いた」なんて胸を張っているから小学3年辺りからやり直さなくちゃならないんだぞ! おまえがちゃんと勉強しなきゃ、入る高校だってないじゃないか。 偏差値が一番下の学校だって今のままじゃ合格できないんだぞ、分かっているのか!」
「もう嫌よ、私の事馬鹿にして小学校の問題やらせるんだから。」
「自分の事分かっているのか! 今まで9年間、全然勉強せずにサボってきた結果じゃないか。 真面目にやってこなかった奴が、15歳になったからって自動的に中学校3年の問題を解けるようになる訳無いだろ! 小学校5~6年の問題集だって何一つ合ってないじゃないか!」
「いいわよ、自分で勉強するから。」
「解答集を見たって正解か不正解かも分からないような奴が、自分で勉強したら逆効果だぞ! 益々馬鹿になって、小学校1年の問題だって解けなくなるぞ! 馬鹿にされるのが嫌ならば、少しは真面目に勉強して見ろ。 努力してみろ。 1時間まともに机に向かって集中することもできないじゃないか。 ふざけるのもいい加減にないと終いにゃひっぱたくぞ! この馬鹿!」
「ひっぱたいてみなさいよ! あんたなんかに頭の悪い人間の気持ちなんて分からないのよ!」
私はこの時、余りに腹が立って、妹を叩いてしまいました。 母が直ぐに止めましたが、このことがあってから妹は私を避けるようになり、私も余りの馬鹿さ加減に相手にする気がなくなりました。 その後、私と母の仲が悪くなり、諍いがエスカレートしたときだけ、妹が母をかばって私を非難するために口を開くような関係になってしまいました。

2010年11月16日火曜日

妹の高校受験 (世代間伝播)

妹との仲が悪くなり、口を利かなくなったのは妹が高校生になり、私が働き出した頃で、母が私に対してヒステリックな干渉をするようになった時期とほぼ一致しています。 高校の受験勉強の事で一度、妹と激しい喧嘩をした事があり、それがきっかけになったようにも思います。
妹の学習理解度は、それは酷いものでした。 特に数学に関しては小学校3~4年レベルの問題すら満足に解けないのです。 グラフの問題が分からないというのでノートにグラフを描かせた時、余りにもデタラメなので事態の深刻さに気が付きました。 グラフの原点が「0」で、横軸の一番右が「10」であれば、「5」は当然「0」と「10」の中間地点なはずですが、そこに「5」を書き込めずに、「3」でも「8」でも、自分の思いつた数字を入れてしまうのです。 逆に「5」の位置がどこかと尋ねても、原点から「3分の1」の辺りだったり、「7」の直ぐそばだったりします。 びっくりして数字を打っていない物差しを読ませましたが、正解率は5割強といったところです。 「等間隔」 「目盛り」 「位取り」等の概念への理解が非常に曖昧で、「多分こんな感じ」で答えているのです。 ですから、指定通りの図形を描く事は「不可能」に近い状態でした。 国語でも穴埋め問題で助詞を入れさせると、「て、に、を、は」の使い方ですら満足な点を取れないのです。 全国模試での偏差値は確か30~35程度でしたから、公立高校受験は無理で、私立でも合格する可能性があるのは2~3校しかありませんでした。
当時の都立高校受験では、3年の2学期の内申書の成績が50%の比率を占め、残りの50%が入試試験でしたが、丁度2学期の中間試験の時に私が入院してしまい、期末試験の成績はかなり良かったにも拘わらず、平均すると散々な評価であったために私立高校しか受験できませんでした。 もし妹も私立高校に進学したら、学費がかなり高額になってしまい家計が火の車になってしまうので少し勉強を見てくれと両親に頼まれて面倒を見始めたのですが、見れば見るほど基本からやり直す必要性を感じました。 それはそうです。 小学校3~4年レベルの内容すら曖昧なので、中学生の問題になると「質問の意味」すら分からないのです。 当てずっぽうに答えている「択一問題」だけが得点源という余りにもどうしようもない学力に困り果て、取り敢えず小学3年生の問題集を買ってきて、一から復習する事にしました。 何を教えるにしても結局はこの辺りまで立ち戻ってやり直していたので、基本から固め直さないと結局は遠回りになってしまうと判断したのです。 時間的余裕もあまりないとは言え、確実なのはかけ算九九までという小学校低年の学力では高校受験などとてもおぼつきません。

2010年11月15日月曜日

しかと (世代間伝播)

互いに「無視」する関係というのは「喧嘩」をする関係以上にやっかいなのかもしれません。 「喧嘩」はどこかで相手と引き合っている訳ですし、相手の存在が何らかの形で「気になる」から起きる行為ですが、「無視」は相手の存在自体を「否定」する行為です。 子供のいじめの中で最も陰湿なものは「しかと」だそうですが、私と妹は互いに、この「しかと」を家庭内でしていたのです。
初めての受講で両親を対象に真我開発を始めた際、あまりに激しく母親を憎んでいたので「母との関係」ばかりに気を取られていました。 当時既に延べ5,000名に及ぶ真我開発を通じて人の心の奥深くを見つめてきたY.S.先生ですら、「これほど実の母親を憎んでいる人は滅多にいませんよ。」と驚くほどでしたら、やはり私はかなり「異常」なのだと思います。 そして、それ以上妹をも憎んでいる自分の「異常」さを、薄々は分かっていましたが、母との関係が改善されれば、祖母の同様に何とかなるだろうと簡単に考え過ぎていました。 しかしよく考えれば、母を「無視」することはありましたが、祖母を「無視」した事はありませんでしたし、そこまでする気にはなれません。 母に対しても「かわいそうだな、やり過ぎたかな」とその度に思いました。 ただ母は、落ち込んで塞ぎ込むぐらいにきつい方法を用いない限り、決して自分を振り返る事ができない性格でした。 同時に、そこまでやらなければ私の方が精神的に参ってしまいますから「正当防衛」のつもりで「しかと」しました。 でもそんな方法を妹に対しては「当たり前」にしていたのです。

2010年11月14日日曜日

今までとは全く違ったものになると思いますよ (世代間伝播)

確かに今まで身体に「のし掛かっていた」重苦しい気持ちが軽くなり、とても楽になりました。 ですが、こんな話をされても、私には全く確かめようのない話です。 確かめようのない夢か幻のようなU.S.さんの話より、突然からだが軽くなった事と、「眼底検査用の瞳孔を開く目薬」とまでは言いませんが異常と言えるほどに目の前が明るくなった事の方が気になってしかたありませんでしたので、何が起きたのか尋ねてみました。
「それは今まで憑いていたものが取れたからですよ。 あなたは今日まで、それだけ重いものを背負って生きてきたんです。 でももう大丈夫ですよ。 原因がなくなったのですから、あなたの人生はこれから少しずつ良くなってゆきますよ。」
言われた事は今一つ信じがたいことですが、身体が軽くなった事と目の前が明るくなったことは事実なので、妙に説得力がありました。 話している最中に身体の力が抜け始め、頭がポヤーッとして来て、風呂上がりにマッサージでも受けたような気分になり、この後の会話の記憶はかなり曖昧です。 帰り際にはっきり覚えているのは別れ際に、
「明日のセミナーは今までとは全く違ったものになると思いますよ。」
そういって私を励ましてくれました事ぐらいです。
その翌朝、セミナー会場に着いた頃には、私の意識は「受講モード」に入っていて、前日のオカルトめいた出来事などすっかり忘れていました。 U.S.さんが別れ際にくれた励ましの言葉とは裏腹に、前回のセミナーでの苦しさが霞んでしまう程、今回のセミナーは苦しいものでした。 妹への憎みは母と同等かそれ以上のものがありました。 確かに母以上に妹とは仲が悪かったです。 ですから母同様に苦労すると覚悟はしていましたが、まさかここまで恨んでいるとは思っていませんでした。 「ごめん」の一言への拒絶は母に対するものよりも遙かに強く、ゴミ出しの最初の段階から面喰らいました。 何で私は肉親ばかりをここまで激しく恨むのでしょう、自分の心の醜さに絶望的な気分になり、途方に暮れるスタートでした。

2010年11月13日土曜日

天に帰りました (世代間伝播)

U.S.さんは先ほどと同じように私の手を取り、再び私に目を閉じるようにと言いました。
私の思考パターンにはない突拍子もない話をされた為か、この時の私は「思考停止」に陥り、殆ど何も考えられない状態でした。 言われるままに目をつぶっている間、時間の感覚も消えていました。 1分ほど経った頃だったと思いますが、もっとずっと経過していたかも知れません。 突然身体が宙に浮いたのかと思うほど「フワッ」と軽くなりました。
「はい、目を開けてくださって結構ですよ。」
そういわれたので目を開けると、まるで別世界にいるように周りが明るくなって見えました。 「思考停止状態」から「私は誰?、ここは何処?」になった訳です。
「あなたのご先祖様は天に帰りました。 普通、ここまで現世に遺恨を残すと天に帰ることはまずできません。 又、天にはいくつもの階層があって、どの階層に帰るかは予め決められています。 ですが私の力でその階層より2段階上の階層に上がる事ができたので、私にとても感謝していましたよ。 そのときのご先祖様の姿は、さっきの掛軸の中の幽霊のようなおどろおどろしい姿ではなく、長い髪が女性らしくきれいにとかされている、とてもきれいな人でしたよ。 私の事を『女神様』なんて呼んで。 私は普通の人間だっていくら説明しても『私には分かります、あなたは女神様です。 本当にありがとうございます。』って何度も繰り返すんです。 『私へのお礼はもういいですから。 これまであなたは、あなたの子孫をずっと苦しめてしまったのですから、これからはその分彼を助けてあげて下さいね。 彼が気付かなかったら、あなたが私に会う事もできなかったのですよ。』って言うと、『はい、分かりました。 これからは彼をずっと助けてゆきます。 本当にありがとうございました。』って、ずっとお礼を言い続けて、いつまでも天に帰らないんですよ。 普通、天に帰れなかった人を帰してあげると、直ぐに帰ってゆくんですけれどね。 それだけ喜んで貰えたんでしょうね。 今まで随分多くの人を天に上げてあげたけれど、こんなに感謝しくれた人は初めてですよ。」
U.S.さんは私にそう伝えました。