2010年12月23日木曜日

砂糖 (トラウマ)

「砂糖」の摂取を極端に制限しました。 砂糖は体内のカルシウムを溶かし、多くの病気の原因になると主張していました。 「歯」が抜けた時、その歯を砂糖水に1週間も漬けておくとナイフで切れるほど弱くなっているという例をよく挙げて説明していました。 また、「砂糖病 -甘い麻薬の正体-」というタイトルの本を紹介しながら、砂糖の害について説明していました。 砂糖には常習性があり、1度味に慣れると次第により強い甘みを求めるようになり、身体に及ぼす影響もそれに比例してゆくそうです。 実際、数多くの重病患者がトレーニングに来ていましたが、砂糖を採らなくなるだけで苦痛が軽減されたり症状が改善される例は珍しくありませんでした。
元薬事審議会の委員長で薬の副作用を専門に研究する「薬理学」の第一人者である田村豊幸という学者が「カルシウム欠乏症」という砂糖の害について述べた著作物がありました。 彼はあまりに審査が厳しくて、製薬業界があらゆる手を尽くして薬事審議会の委員から引きずり下ろしたと言われている人物で、この本を出版した後、製糖業界からもかなりの脅しを受け、轢き殺されかけた事も1度や2度ではないそうです。 その本の中に体内の白血球と砂糖についての研究結果が書いてありました。 普通、人間の血液1単位(単位名は忘れました)中に含まれる白血球数は14個だそうです。 記憶が曖昧ですが、体調が悪かったりして抵抗力が落ちていると確か半数程度の白血球が活動を停止している状態なのだそうです。 そして、角砂糖1つ、ティースプーン1杯の砂糖を摂取すると、14個の白血球全てが、約1時間活動を停止するそうです。
ですから砂糖を摂取するだけで身体の抵抗力が落ち、傷ができれば化膿しやすくなり、この状態が慢性化すればあらゆる病気の原因になるとして、厳しいほどの制限をしたのです。 ですが、砂糖を取らないというのはそんな簡単な事ではありません。 料理に「隠し味に」「ちょっとだけだから」と言って加える砂糖の量だけでも1日合計すれば相当な量になります。 缶入り清涼飲料水には普通、スプーン2杯以上の砂糖が含まれています。 炭酸入りになるとその量は更に増えます。 アイスクリームは氷より低温な為に舌があまり甘みを感じないだけで、非常に多くの砂糖を含んでいます。 これらを常温にして飲んでみれば以下に砂糖が多く含まれているか、数値を示さずとも直ぐに分かる事だと思います。
そして面白い事に、摂取を控えなければいけない人ほど、あれこれ理由を付けて甘い物を採ります。 高額なトレーニング代を払っておきながら、指導に従わないで我を主張する人達の気持ちが私には理解できませんでした。 こういった人達に対して、口の悪いK.A.先生は容赦なく「馬鹿」呼ばわりをしました。 渋々でも止めた人は止めている間だけは症状が回復していましたが、止めない人はなかなか良くなりません。 特にヨガやストレッチのような身体の筋肉を伸ばす事がいつまでも苦手でした。 砂糖を取ると筋肉本来の伸縮性がとても低くなるので、甘い物好きは身体がとても硬くなるのです。 K.A.先生は「甘い物が好きな奴は自分に甘くて精神的に脆い」とよく言っていました。
同時にカルシウムの摂取を勧めていました。 小魚を常食する事と、牛乳やチーズなどの乳製品を勧めていました。 このカルシウムは精神活動に特に重要だと主張していました。 日本の土壌はカルシウムが少ない為に野菜などからのカルシウム摂取量が少なく、何にでも加えてある砂糖の為に不足しているカルシウムを破壊しているから、充分な量を取るようにと指導していたのです。 又、トレーニングで、特に筋肉をほぐす際、痛がる人に対しては特に強調して砂糖を止める事と同時にカルシウムの摂取を勧めていました。 砂糖を摂取すると筋肉がほぐれづらくなり、ほぐす際の痛みも格段に強くなるからです。
又、精神発達に段階があるように、味覚にも発達段階があり、甘い物好きは一番最初に覚える味覚である「甘み」から次の段階に移行できておらず、精神の発達が未成熟であるとも言っていました。

2010年12月21日火曜日

タンパク質 (トラウマ)

K.A.先生に惹かれ、「一歩でも近付きたい」「認められるようになりたい」という思いから、頂いたアドバイスには可能な限り従いました。 金を貯めながら年に1回はトレーニングを受けていました。 トレーニング料金は毎年のように値上げしてゆくのできついものがありましたが、職人は身体が資本です。 元々身体が丈夫でない私にとって、定期メインテナンスのようなものでした。 自宅でも可能な限りはトレーニングで覚えた事を行って、身体の手入れはしていましたが、JA研究所にいるときのように徹底してはできません。 いつも1ヶ月のトレーニングを受け終える頃には、別人になったように身体が楽になっていました。
JA研究所は月に一回、K.A.先生の講演会がありました。 重病の人、経営が上手くいかない人、ダメサラリーマン、視野の狭い学生、トレーニングを受けた事のある人、ない人と、いろいろな人が来ていました。 毎回出席していた私は一番前の席で一言も聞き漏らすまいと耳を傾けていました。 高校2年の時にアルバイトをした金で業務用ポータブルカセットレコーダーとマイクを購入していましたので、毎回テープに録音して時間の許す限り聞き続けました。 講演内容は多岐にわたっていましたが、「食事」はK.A.先生が最も重要視していた分野で、毎回多くの時間を割いていました。 最も特徴的だったのは「タンパク質」と「砂糖」に関してです。 
先ず、高タンパク食を勧めていました。 特に牛、馬、鯨といった大型獣のレアステーキ又は刺身を1回300g、週に1~2回食べる事を勧めていました。 タンパク質と言うと直ぐに「プロテインスコアー」を思い出しますが、K.A.先生はあまり重視していませんでした。 いつもそうですが、K.A.先生は自分で試して良いと思ったものしか勧めません。 そして最も効果があると勧めたのが牛、馬、鯨などでした。 生命の起源はアミノ酸の再合成であり、そのアミノ酸が集まりペプチドに、そのペプチドが集まってタンパク質になり、それは人間の身体の主要構成成分である。 又、人間の身体は約3ヶ月で殆ど入れ替わっているのだから、主要構成成分のタンパク質を毎日摂取する事が大事だと主張していました。 レアステーキを勧めているのは、焼いてしまうとタンパク質は変質してしまい、身体が必要な成分とは異なってしまうからだそうです。 ですから「生食」も勧めていました。 熱を加えないと消化吸収できないものや身体に害を及ぼすもの以外、 生で食べられるものはなるべく加工せずに生で食べなさいと。 レアステーキを300gも採ると体温、免疫力、行動力、性力なども上がると言われても、当時の私は何も感じませんでした。 トレーニングを受けている他の人は食べた後、「身体が熱くなった」と言っているので疑問に思いK.A.先生に尋ねると、私はそれだけタンパク質が不足している状態なのだそうです。 これだけの量をお店で食べていたら食費が嵩んで仕方がありませんから、安い肉屋を探してまとめ買いし、約300gに分け、冷凍庫に保存し、1つずつ解凍して食べていました。 そのため、実家の冷凍庫は、いつも私が買ってきた牛肉で一杯になっていました。 又、レアステーキを食べる時にはパイナップルやパパイヤなど、「タンパク質分解酵素」を含むものを同時に採り、効率よく消化吸収させること。 動物性タンパク質と同量の植物性タンパク質も採る事、最低でも同量の野菜を採る事なども併せて勧めていました。 生野菜がちょっと不足気味だったと思いますが、できる限り指示通りに食べるようにしました。 それでもレアステーキを食べて体温が上がる事を感じるようになるには2年近くかかりました。

2010年12月19日日曜日

アドバイスに従って (トラウマ)

非常に幅広い分野に対する深い知識と、それらを実際の生活に生かして行く応用力。 問題に対する分析・洞察力と強い信念。 どれ1つとってもこれまで会った誰よりも優れているK.A.先生に惹かれてゆき、毎月行われる研究会は全てテープに取って何度も聞き返しました。 K.A.先生の語る内容の一つ一つが私にとって新鮮で魅力に溢れていました。
初めて受けた1ヶ月のトレーニングが終了した日、K.A.先生は家業を継ぐように勧めて下さいました。 私には将来性のない業種に思えたのですが、将来性がないと皆が思い込み、誰も継ぐ者がいなくなった時、その大切さが再認識される。時代は常に変わっているのに、百年一日昔のまま同じ事を繰り返していては、時代に取り残されるのは当たり前で、時代の変化を読み取る感覚、それに対応する行動力、そして他が真似のできない技術を持てば、どんな時代でも生き残って行ける。 先ずは父の元で仕事を覚え、きちんと技術を身につけるようにとアドバイスされたのです。
K.A.先生のアドバイスは、「コーチング」や「カウンセリング」のように「気付き」を促すような事はしませんでした。 勿論相手を見ながらですが、「取り敢えず言われた通りにやって見ろ。 今分からなくても、やっていればそのうち分かる」という強い態度のものでした。 こう言われるのは若い者、人生経験の少ない者が殆どでした。 早い人なら数ヶ月後に、私のように仕事に対する「基礎」がない者は数年かけないと結果が出ない事もあります。 そして実際に、真面目に「跡を継ごう」と思い、真剣に仕事に取り組むと、この仕事はとても難しいものでした。
「お前は親父の仕事を馬鹿にしていただろう。 その馬鹿にしていた仕事もろくにできない事が分かっただけ少しはましになったんだ。 これから先、どれだけ技術を覚えるかが最初の課題だぞ。」
と、トレーニングが終了して1~2ヶ月後に頂いたアドバイスに従いました。 建築業全体に言える事ですが、材料・道具・工法は進歩していますが、その分個々の処理に対する技術は退化しています。 既製品を購入して取り付けた方が安く早く見栄えがよいからと、わざわざ手加工など誰もしなくなったのに、私は20年以上前には当たり前にあった技術を一つ一つ身につけてゆきました。 「これからの時代は前に進む事が大事で、事後処理に過ぎない法律を学ぶ時間があるなら、自分の仕事に関係のある分野をもっと勉強した方がよい。 職人に必要なのはカンやセンスで、観念じゃない。」と言われたので 2年間学んだ法学部通信課程も辞めました。 頑固なほど世間の流れに逆らって仕事を覚えていきましたが、端から見れば「狂信」に近い状態だったのかも知れません。

2010年12月17日金曜日

好転反応 (トラウマ)

K.A.先生の説明によると、例え「右肩下がり」に症状が悪化しても、人はそのまま「右肩下がり」に症状が悪化しているとは感じないものなのだそうです。 例え症状が悪化しても、慢性化する事により、人の感覚は苦痛を和らげる為に、又は悪化が感覚にまで及ぶ為に「麻痺」して感じなくなってゆくので、「症状が改善された」と感違いする事も珍しくなく、この「麻痺」した感覚が「悪化」を察知できた時には、症状は既にかなり悪化しているのが多いパターンなのだそうです。 ですから症状自体は「右肩下がり」の悪化であるにも拘わらず、人の感覚は悪化と回復を繰り返しながらも長期的にみれば徐々に症状が進行しているように感じ、症状の改善には必ずこの「麻痺した感覚」の回復が伴うので、「返って症状が悪化した」と訴える者が大部分となります。 「好転反応」が起きるまでにきちんとラポールを築き上げてしておかないと、「悪化した」と勘違いしたクライアントが他のクライアントにまで不平を漏したりして、不安が一気に蔓延する事も「治療家」の悩みの種だそうです。 また、観察力が伴わないと、「好転反応」だと思っていた症状が、実は本当に悪化していた場合、悪化を加速させて取り返しの付かない事になるので、常に注意を怠らない事も必要なのだそうです。
JA研究所の「好転反応」は他で経験する「好転反応」よりも強い反応が現れるように思いますが、その期間中ですら、身体が本当に動けないほどしんどい場合を除き、いつもと同じトレーニングを行っていました。 頭がボーッとして、身体が言う事を聞かないにも拘わらず、ある程度仕事ができる人は、愚痴ったりしながらも何とか仕事をこなしていました。 「プロ」としてのレベルが高い人は、トレーニングによって実質の仕事時間が短縮されているにも拘わらず、普段以上の仕事量をこなせたり、仕事量が同じなのにいつもより遙かに短い時間で仕事を終えてしまい、周りも当人も不思議がっているケースをよく見ました。 「意識」のブレーキが外れ、本来の能力が発揮されたからだとK.A.先生は説明していました。 ただ、傘や鞄などを置き忘れる確率が非常に高くなるので注意が必要だともアドバイスしていました。
私の拙い「好転反応」の経験から、もし「好転反応」の苦痛の度合いを数値で表せるなら、「苦痛度」と「好転反応の期間」の積は等しいのではないかと感じています。 もしクライアントが苦痛を訴えるので、処置を弱めれば、「好転反応の苦痛度」は下がるかも知れませんが、その分苦痛を感じる期間も長引き、費用も嵩めば、精神的決意も鈍り勝ちです。 と言うのも、この「好転反応」が起きている時は、身体だけではなく、精神的に弱い部分が出てくる事が多いようなのです。病気になった人をよく観察すると、その病気になる人の「性格の傾向」があります。 糖尿病が「わがまま」とか、癌が「頑固」などです。 勿論、全員がそうだという訳ではありませんが、そういう傾向があり、好転反応が起きている間はその傾向や精神的な弱点が顕著に現れるのです。 ただでさえ精神的に不安定になっている時に周りから止めた方がいいなどと言われると、せっかく良くなっているのに途中で投げ出してしまう事がとても多いのです。 もしも反応を一気に出せるなら、2、3日から1週間、事故にでも遭ったと思って寝込んででも一気に出し切った方が、悩む暇もなく終わってしまい後々楽だと思います。
私はトレーニングを初めて受けてから3年以上、「好転反応」に苦しみましたが、その経験とJA研究所で受けた「感覚訓練」を初めとするトレーニングは、20年、30年と経過しても、私にとって「絶体絶命」の窮地を救う道標の役割を果たしてくれることになりました。

2010年12月15日水曜日

病弱 (トラウマ)

このおならを皮切りに、私は様々な「好転反応」を嫌と言うほど経験しましたから、それだけ健康を害していた訳です。 振り返ってみれば幼稚園に上がるまでは年に3~4回40℃以上の高熱を発し、42℃まで達することが殆どでした。 診断名は扁桃炎だったと記憶しています。 小学校入学直前にリウマチ熱という膠原病の一種にかかり、5ヶ月も入院していました。 別名心臓リュウマチとも呼ばれ、一般的な「関節リウマチ」とは別の病気です。 入学式は病院から通いましたが、1学期は登校できませんでした。 2学期に入り毎日1時間だけ登校が許され、3学期になると午前中だけになり、2年生になってやっと全時限の出席ができるようになりました。 本来は「落第」なのでしょうけれど、たまたま算数の足し算引き算と国語の「てにおは」つまり助詞の使い方だけはきちんとできていたので、進級しても授業について行けるだろうと校長が判断して下さったのです。 ですが「直射日光に当たってはいけない」「運動してはいけない」などいくつかの行動制限をされ、いつの間にか外に出る事が嫌いで、部屋で本を読んだりする事の好きな内向的な性格になっていました。
幼少時は病弱で、20歳前に身体をぼろぼろにしてしまった私はJA研究所のトレーニングで徐々にですが普通の健康を取り戻してゆきますが、一般の人より遙かに強い反応が出たようです。 この1ヶ月のトレーニングが終了して1~2ヶ月後、言いようのない疲労感や倦怠感が常に付きまとうようになりました。 その上、身体のあちこちが痛んだり自由に動かせなくなったりと様々な症状が現れ、これらの「好転反応が一通り治まるのに3年以上かかりました。

2010年12月14日火曜日

屁 (トラウマ)

この「トランス性運動」ができるようになるまでには、ちょっと他では味わえないような様々なトレーニングを受けました。 特に数人で1人の人間を抑え付け、身体全体をヨガのようなポーズに捻ったり伸ばしたり曲げたりする事は多くの人にとってとても苦痛だったようです。 この当時、ヨガをかなり真剣にやっていた私は身体が柔らかく、大して苦痛に感じませんでしたが、たまに気を失う人もいました。 痛がっている人には
「痛かったら身体の力を抜いて息を吐いて下さい。」
と言って手を弛めません。 叫び声を上げても、声を出しているときは息を吐いているのから、
「そうです、それでいいんですよ。」
と意に介しません。 トレーナーでもこれですからK.A.先生はもっと情け容赦ありません。 前屈なら踵を掴むまで、開脚なら胸が床に付くまで絶対に止めません。 床に大の字になり、片方の脚の膝を曲げ、太腿を胸に付けてから内側に捻ります。 胃や肝臓が弱っているとかなり痛いようで、酒が好きな人は皆嫌がっていましたし、抵抗して身体に力を入れてしまいます。
「ほら、抵抗すれば余計に痛いぞ、もっと力を抜いて。」
「いいか、これ以上抵抗すると骨が折れるぞ。 観念しろ。」
そう言われて力を抜いた途端に更に力を入れてもう一段捻るのです。
筋肉に強い緊張があると毛細血管を圧迫してしまい血行が悪くなりますから、細胞にも充分に栄養が行き渡らず、多くの病気の原因になります。 また、病気であれば患部に手を当てると血行が悪くなっているので冷たく感じます。 炎症を起こしていれば不自然な熱を持っています。 感覚訓練が進めばそれらを手を当てずに近づけただけで感じますし、慣れてくると見ただけで何処が悪いのかが分かるようになってきます。 自分の身体の悪い箇所も感じるようになります。 そしてトレーニングが進むと、私の身体はまだ19歳なのにボロボロだということが分かってきました。 最初はトレーナーに指摘されてもさほど気になりませんでしたが、毎日身体中に強い刺激を受け、その後で身体が動かなくなるほど弛緩させられているうちに、身体中が徐々に活性化してきたのかも知れません。 様々な変化が表れ始めました。 最初の変化は「腸」でした。 これまで経験した事などなかった便秘に悩まされました。 普通に食べていても排便できないのです。 ですがお腹を弛めて、腹式呼吸を行っているうちに腸が再び動き出し、普通に排便できるようになったのはいいのですが、今度は異常に臭いおならが出るようになってしまいました。 トレーニングルームはかなり変わった形をしていましたが、50〜60㎡はあったと思います。 それがたった一回の私のおならで、臭いが部屋に充満し、窓を開け放っても5分以上臭いが籠もっていました。 電車に乗って扉の前に立っていた時におならをした事もありました。 周りに顔をしかめた人が拡がってゆき、隣の扉に立っている人まで顔が歪んでいました。 これまで腸が充分に機能しておらず、異常発酵をしていたにも拘わらず排出できないので腸が発生したガスを再吸収していたようです。 そんな異常な状態からやっと働き出した腸が最初にした事は、腸内で異常発酵で発生したガスを排出することだったようです。 1ヶ月のトレーニングが終わる頃には臭いが多少軽くなりましたが、普通の僅かに匂う程度のおならが出るようになるまでには数年かかりました。

2010年12月13日月曜日

トランス性運動 (トラウマ)

私はこの「トランス状態」に入り、「トランス性運動」ができるようになりたかったのですが、全くできませんでした。 K.A.先生によれば私は「頭が硬いために、深い『無意識状態』に入れていない。」のだそうです。 逆に言えばもしこのトランス性運動ができるようになっときには、私も深い「無意識」に入れるようになった証拠だと言えるはずです。 例に挙げたトレーニング以外にも数多くのトレーニングを毎日12時間も繰り返しましたが、2週間経ってもこの状態には至りませんでした。 そしてできない事を「頭が硬いからだ。」と言われ続ける腹立たしい日々が続きました。 ところが3週間も経つと、頭が「ボーッ」としてきて考える事が面倒臭くなり出し、次第に「どうでもいいや」と投げ遣りになり、様々な「こだわり」がなくなってきました。 K.A.先生はトレーニングの合間に様々な事を教えて下さいました。 一言も聞き逃すまいといつも聞き入ってたのですが、この頃になると上の空でボーッと窓の外を眺めてトレーナーに注意されるようになりました。 別に聞きたくない訳ではなく、気が付くと呆けるようになってしまったのです。 数日後にはトレーニング中、みんなが指導を受けているのにボヤーッと天井を眺めるようになり、注意されても声が右から左に抜けて行きました。 トレーナは私の手を引っ張って、他の人の邪魔にならない場所まで引きずってゆき、そこで寝かされました。 寝ているか起きているか分からない、まどろんだ時間がどれぐらい続いたでしょう、さっき私を引きずって寝かせたトレーナーが私をトランス状態へと誘導し始めました。 これまでも何回かされたのですが、顔の前に手をかざされたのは分かっても、それだけでした。 でもこの日は顔が左右に揺れたのです。 その揺れは次第に大きくなり、身体が「芋虫体操」のように横に転がり始めました。 「あ~、身体が転がっているな。」とは意識できましたし、周りの人がぶつかるのを避けるのが分かりましたが、自分自身の事なのに他人事のようにしか感じませんでした。 転がっているうちに手や足を大きく回し出し、動きが激しくなるのが分かりましたが、そんなことは「どうでもいい事」「関係ない事」に感じました。
どれくらい転げ回ったかよく分かりませんが、気が付くとトレーナーの手が私のお腹に当てられて、
「はい、息を吐いて下さい。」
と言う声が聞こえました。 その声に合わせてお腹がゆっくりと押され、息を吐くと動きも治まりました。 そしてそのままボーッとしていた頭の意識は更に遠のき、ぐっすりと寝込んでしまいました。 起こされた時には一晩たっぷりと寝たような目覚めでしたが、確か30分程度しか経っていなかったと記憶しています。 「トランス性運動」ができるようになった頃から、K.A.先生が私を散々「馬鹿」呼ばわりした訳が「理屈」ではなく「実感」として分かるような気がしてきました。 同時にこれまで受けたトレーニングは一つ一つ独立したものではなく、全てが深く有機的に関連付けられている、とても合理的な教え方をしている事が分かってきました。 このJA研究所で教えている事は「観念」的に捉えたら絶対に理解できない「無意識」の世界を具現化したものだったのです。

2010年12月11日土曜日

印象深いトレーニング (トラウマ)

ちょっと変わった所では「無刀取り」を教えて貰いました。 最初は「刃物」に対する恐怖心を減らす為に刃物の性質を学びます。 刃物は押し付けただけでは肉を切る事はできず、引くなり押したりした際に始めて切れる事を理解する為に、出刃包丁を腕に押し付けるのです。 この時は呼吸法も重要になります。 身体が緊張していると思わぬ怪我をする事があるので、息をゆっくり長く吐きながら行います。 いくら強く押し付けても腕には刃の跡が残るだけで肉は切れていない事を確認後、「無刀取り」をします。 武道の経験がない人がやるのですから、スローモーションのようにゆっくりと行います。 相手が突き出してきた出刃包丁を素手でつかみ取り手首を外に回して、包丁の柄を持っている者の柄と掌の間に隙間を作ります。 この時、親指と人差し指の間から小指の付け根にできる掌の折れ目と包丁の刃をピッタリと合わせてから包丁をしっかりと握ります。 そして相手の掌と柄の間に隙間ができたらそのまま腕を大きく外回ししながら包丁を抜き取るのです。 これがスローモーションではなく実践と同じスピードで行われれば、武道で高段者が行う「無刀取り」になります。 刃物を扱うだけにびくびくしながらやる者が多いのですが、K.A.先生はトレーニングを受ける者に考える暇を与えないテンポと気合いで畳み掛け、気が付いた時には初めて行う者が「さま」になっているくらいきちんとできていました。 「考えたら『意識』がブレーキをかけてしまうから、簡単にできる事さえできないくなってしまう。」 といつも仰っていることを実感できる、印象的な経験でした。
受け始めた頃に印象的だったもう一つのトレーニングに「トランス性運動」がありました。 K.A.先生の本にも解説してありましたが、読んでもイメージが浮かんできませんでした。 「無意識」のレベルが深まると、身体が勝手に動き出すと表現されているのです。 トレーニングで心身の緊張がある程度取れた頃、K.A.先生やトレーナーが「トランス状態」へと誘導すると、横になって休んでいた者がゴロゴロと転がり始めます。 身体を捻ったり回したり跳ねたりと動きは人によって様々です。 身体の悪い箇所を無意識に動かす事によって治そうとする「自動運動」なのだそうです。 未開社会で定期的に行われる祭りなどでは、夢中になって踊っているうちにこの「トランス状態」に入り自然治癒力が発揮されるから病気などが治るのだそうです。 そしてこの「トランス性運動」を意図的に行える者が「シャーマン」と呼ばれた者で、K.A.先生は「シャーマニズム」をかなり研究されてきたようです。 K.A.先生によれば、「シャーマニズム」は「宗教」と同一視される事が多いが全くの別物で、「宗教」は「教団」を形成した組織の維持の為に「人心操作術」を発達させた「人工的」なものであり、「シャーマニズム」とは「黎明期の科学」であり、「人間研究の原点」なのだそうです。 宗教ではこの状態を「憑依」とか「神降ろし」と名付けて各教団が都合のいい解釈を加えているが、人間の身体は「無意識」状態が深まれば「トランス性運動」が起きるメカニズムが最初から備わっているだけで、それに意図的な解釈を加える事自体、宗教の欺瞞性を証明していると宗教に対して批判的でした。

2010年12月10日金曜日

感覚訓練 (トラウマ)

「感覚訓練」はかなり独特の訓練だったと思います。 よく「気功」の訓練の第1歩として、両手を向かい合わせて掌の中心に「気の球」を作りますが、JA研究所では2人1組で向かい合って正座をし、一方が目をつぶりもう一方が相手の顔に掌を近づけます。 最初は顔に付くか付かないかの距離でないと何も感じませんが、慣れてくると1~2m離れても「圧力」のようなものを感じられるようになります。 次に掌を引いたり押し出したりしてそれを感じ取れるようにします。 3人で組めるなら立って行います。 掌を押し出すと相手が後ろに倒れるからです。 引いた場合は掌をかざした者が抱き止めます。 一般的には「気」の一種だろうと考えると思いますが、K.A先生は「集中力」と呼んでいました。 掌で3m程度離れてもできるようになったら、2人とも目を開いて、掌でやった事を「視線」でも行いました。 
掌に意識を集中させて冷たくしたり熱くしたりする訓練もありました。 ある程度温度のコントロールができるようになった頃、人些細指と親指の股の部分に意識を集中させてて冷たくして針を刺したりもしました。 この部分がきちんと冷たくなっていれば、針を突き抜いても血が出ないのです。 これが上手にできるようになると、刃物などで手を切っても、出血する前にこの「止血法」を行えば、傷が深くない限りその場で止血が行えるようになります。 私は仕事で板金を扱っていましたが、素手でやっていたのでよく手を切りました。 そんなとき、この止血法で血を止めて傷口を寄せてからテープや接着剤で止めてしまえば、血が出ないので仕事を続けられましたし、傷の治りも早かったのでとても重宝しました。
「金縛り」の訓練もありました。 「緊張」と「弛緩」を毎日繰り返し、「感覚訓練」がある程度進むと、「催眠術」の導入としてよく行われている「人間ブリッジ」を自分の意志だけでできるようになりますし、人にもできるようになります。 「人間ブリッジ」は身体を反った一本の棒としてイメージしますが、床に張り付いたイメージをすれば「金縛り」になります。 「人間ブリッジ」や「金縛り」を自分の意志だけで行えるようになった頃には、「交感神経」と「副交感神経」をコントロールできるようになってきているので、自律神経失調症などはかなり改善されています。 肩凝りなどもただ揉みほぐすのではなく、1度強く緊張させてからその緊張を解き、その後揉みほぐすと緩みやすくなっています。

2010年12月9日木曜日

緊張と弛緩 (トラウマ)

又、「運動」と言ってもスポーツのようなものではありませんでした。 腹筋や脚力を鍛える為に基本的な筋力トレーニングを行いましたが、同時に血液の循環を促す事も重視していました。 そしてそれ以上に、鍛えたら「弛める」事を最重要視していました。 「弛める」とは言ってもマッサージやストレッチとは違っていました。 身体中の神経節に指を立てて強く握るのです。 腕に入れられれば暫く腕が動きません。 ですが、この状態は筋肉が緩んだ状態であることも事実です。 そして相撲の「股割き」のように全身の筋肉を無理矢理伸ばします。 最初の1~2週間は身体があちこち痛みました。 一見何でもない、「お遊戯」や「ヨガ」のような体操も、きちんとやるとかなりハードでした。 筋肉の「緊張」と「弛緩」を極限まで繰り返しながら「血液の循環」をよくさせられた毎日でした。
「腹式呼吸」も腹が硬いと正しくできないからと、仰向けになった腹の上に立って呼吸に合わせて足で腹を弛めたりもします。 正座をして息を長く吐く訓練は声を出して行いましたが、腹から息が出なくなって終わりではなく、身体を前に倒して頭が床に付くまで折ります。 ここで息が出なくなると、今度は腹に当てた拳で腹を押して息を出し続けます。 やってみると分かりますが、呼吸の長い人でも、声を出しながら息を吐くと30秒が精一杯です。 これを最低でも60秒は吐き続けられるようにするのですから、かなりハードです。 4~5回やると頭がボーッとしてきます。 どう頑張っても10回やる前に全身の力が抜けて床に寝転んでしまいます。

2010年12月8日水曜日

トレーニング内容 (トラウマ)

JA研究所のトレーニングは「プログラム」としての形がありませんでした。 「意識」の世界のように理論や観念で覚えるものではなく、「感じ取り」「身体で覚える」のが「無意識」の世界だからと、トレーニングルームにいる人達に必要と思われる事をその時に応じて判断しながら教えていました。 その指導方法を「学校の授業じゃないんだよ。 プログラムなんて形があったら『無意識』じゃないだろう」とよく口にしていました。 料金は1回13万円で期間は1ヶ月間。 トレーニング時間は月曜日から土曜日の10:00~22:00 まで。 自分の都合の良い時間に来ればよいというものです。 高額だったのでトレーニング料金を無駄にしない為に、母に弁当を2つ作ってもらい、朝10:00から夜10:00まで「食事」「運動」「呼吸」「考え方」などに渡って、独自の理論に基づいた指導を受けました。 その詳しい内容はとても書き切れるものではありませんし、正確には表現できませんが、後日私ができる範囲で書いてみるつもりです。 
私は最初に「考え方」を徹底的に直されました。 直すと言っても丁寧に「教えてくれる」訳ではありませんでした。
「『馬鹿』に『馬鹿』と言って何が悪い! 『馬鹿』が『馬鹿』だと気付かなければいつ直すんだ。 誰も『馬鹿』だと教えてやらなければいつまでも『馬鹿』のままだぞ!」そう言って自分の考え方の未熟さを徹底的に「矯正」されたのです。 私が勉強していたものは飽くまでも「知識」であって、今の社会が「学歴・資格偏重」だからそれらに関係する「知識」が重要視されているが、勉強とはそんな表層的な事ではなく、「真実」を知り、嘘や欺瞞に惑わされることなく、生きてゆく為の判断材料を得る事だと言われました。 ですが、何が表層的で何が真実かが分からない私は、質問をする度に「頭が硬い」「馬鹿」「観念論だ」とコケにされ、何度も腹が立ちました。 ですが反論すればするほどぐうの音も出ないくらいにこてんぱんに言い負かされ、何も言えなくなると「何も知らない」「口先ばかりだ」ととどめを刺されます。 一日中いる訳ですから本当に面白くない毎日でした。

2010年12月6日月曜日

K.A.先生 (トラウマ)

振り返れば、愚かなサイクルに迷い込み、ムキになって出口を探していた訳ですが、もしかしたらわざとこんな迷宮に入り込んでいったのかも知れません。 もし精神的余裕があれば、当時の私の頭の中に浮かんでくるのはS.S.の事に決まっています。 リストカットなどの自傷行為をする者の心理が最近まで分かりませんでしたが、よく考えてみれば私が当時やっていた事も自傷行為と大差なかったのかなと思っています。
そのS.S.は後に、妊娠したので籍を入れました。 結婚式は行わず、お腹が大きくなる頃には互いの連絡もなくなりました。 ですが、私がS.S.の事を諦め切る事ができるまでには2年以上かかりました。 そして、コンプレックスに苛まれた冴えない時間を過ごしながらも、自分なりに試行錯誤を続けていました。 働き始めると学生時代のようにいくらでも時間がある訳ではないので、より効率的な学習法や新しい情報を求めて図書館によく通っていました。 
この当時は東欧諸国スポーツトレーニングイメージ法を用い、国際舞台で好成績を残していた事から、西欧諸国でもトレーニングに盛んに取り入れられていました。 そしてそれを自己啓発や能力開発に取り入れようという動きが出始めた時期でもありました。 高校在学中に興味を持った高速学習は望むような成果を得られなかったので、私の関心イメージ法に移ってゆきました。 ある日、近所の図書館で集中力の高め方とイメージ法について詳しく解説してある本を見つけました。 この頃私は独学でイメージ法のトレーニングをしていました。 残像を利用してイメージのコントロール法を身につけようとしていたのですが、形こそ浮かんでも色は上手くコントロールできませんでした。 これまで数名、読んだ本の著者の研究所やセミナーに直接出向いて指導を受けた事もありましたが、どこも要領を得ませんでした。 ですが、JA研究所のK.A.先生の本はこれまでの本とはちょっと違って感じました。 
集中力強化法、イメージ法以外にも、呼吸法や「超心理学」と幅広い分野に非常に興味深い解説をしていたので、私は早速連絡して、JA研究所に向かいましたが、トレーニング代が1984年当時で13万円と高額だったので直ぐにはトレーニングを受けられませんでした。 ここのトレーニングやシステムはちょっと変わっていて、表看板は「無意識」の世界でした。 人間は本来、無限とも言える能力を秘めており、車に例えるなら、整備が「運動」、燃料が食事、吸気が「呼吸」、エンジンが「無意識」、アクセル・ハンドル・ブレーキなどの操作が「意識」であり、いかに車を上手に操作するかに「意識」を向けるべきなのに現代人はブレーキを踏んでばかりで動き出そうとしないので、上手な「無意識」の使い方を覚える為のトレーニングをしていました。
学割がないのかと尋ねると、「そんなものはない、覚えたかったら働いて金を貯めろ!」と素っ気ないものでした。 ですが話をして感じた事は、幅広く且つ深い知識と、それを日常生活で実践する応用力、揺るぎない強い自信等、あらゆる面がこれまで会った誰よりも勝っていました。
「K.A.先生から指導を受けてみたい」
そう思った私は出費を抑えてトレーニング代を貯めました。

2010年12月4日土曜日

愚のサイクル (トラウマ)

高校を卒業する頃には禅以上の奥深さを感じたヨガに関心が移ってゆきました。 ですがこの当時、ヨガといえばハタヨガが中心で、私の求めるものとは違っていたので独学で覚えました。 そしてある日、教えている事はハタヨガなのに、「何かが違うな」と感じさせる先生に出会ってから暫く、その先生の指導を受けました。 かなり後になって分かった事ですが、このK.S.先生はかなり本格的な巫女の修行をしていましたし、当時のサイ学会副会長の愛弟子でもありました。 又、当時募開始したばかりの女子競艇選手募集の最終選考審査まで残った活発な女性でもありましたから、違っていても当然でした。
K.S.先生は「自分の身体に尋ねる」という事を非常に重視していました。 身体が気持ちよく感じる事が身体にとって良い事な筈なので、本来の感覚を取り戻せるようにとヨガの指導をして下さったのです。 「超心理学」や「超常現象」に興味を持っていた私は、最初のうちはそちらの質問ばかりしていましたが、この身体が本来持っている自然な感覚を取り戻してから発達させなければそういった能力は得られないからと、常に各段階に合わせた指導をして下さいました。
いつからかははっきり覚えていませんが、この頃私は常に疲労感があり、電車で10分程立っているだけでもしんどく感じることがよくありました。 昼間実家の仕事を手伝い、仕事が終わると英語や法学の勉強をし、合間にヨガで身体と頭を休めていましたが、ちょっとでも油断をすると寝入ってしまうようになりました。 身体が疲れているのですからゆっくりと休ませなければいけないのに、私は時間が惜しくて濃いコーヒーや紅茶を飲んで無理矢理眠気を覚ましながら勉強をしていたのです。
当時は気付きませんでしたが、K.S.先生がせっかく身体の疲れを取れるようにと指導をして下さっているのに、疲れに拍車をかけるような生活をしていたのです。 元々身体が丈夫ではない私は、努力をすればするほど身体を壊し、それに比例してペニスも萎えるようになってしまったのです。 精神面でも英語や法学に集中すればするほど、僅かでも気を緩めた途端に、徐々に悪化するインポテンツが気になってしまい、目の前の事に集中ができなくなってしまいます。 ですから気を張りっぱなしにしていない限りまともに勉強ができないのです。 「真ん中の足」が自分の人生を歩もうとしている他の2本の足を引っ張っているように感じていました。
何をするにも「バランス」を取りながら継続する事が大事ですが、私のやる事はいつもこの「バランス」がかけています。 努力すればするほど体調を悪化させているのに、時間を惜しんで身体が要求している休養は取らない。 インポテンツを気に病んでいるのに勉強や瞑想で誤魔化す。 体調が悪いのを必死にヨガで治そうとする。 と馬鹿な事を繰り返していました。

2010年12月3日金曜日

関心 (トラウマ)

こんな人に言いづらい悩みを抱える少し前、高校3年の1学期に私は既に大学進学を断念して就職を選び、その後失恋しました。 このままでは社会に出る前から負け犬になってしまう、今いるこの地点から、何をどうする事が自分を最も成長させられるのかを、落ち込みながらも必死に考えました。 
最も関心があった事は、英会話でした。 今後国際化が加速してゆく中で、英語を使いこなす事は必要最低限の条件であろうと、大学進学を断念した時点から英会話をかなり真剣に学び始めました。 学校での英語の成績は余り良くなかったのですが、2年の英文法を担当してくれた講師の先生がとても良い先生だったので、随分相談に乗って貰いました。 ほとんど独学だったにも拘わらず、意外と覚えが良かったように思います。 卒業後に受けた英検2級は受験対策を殆どしなかったにも拘わらず合格することができました。 ですがさすがに1級には届きませんでした。 当時は準1級がなく、1級と2級のレベルの差が大きかったので、受験対策をせずに英会話だけしか勉強していない私が合格できないのは当然でしたが、苦手な英文法にもう少し力を入れた受験対策を普段からしていれば、合格圏に手が届く程度の点数は取れたと思います。
「超心理学」にはそれ以前からかなりの関心を持っていました。 きっかけはブルガリアで開発された「超高速学習法」とユング心理学の「集団無意識」の概念の二つを知った事です。 この2つはどちらも2年生の時に英文法の先生から教えてもらったもので、私にとってはかなり衝撃的なものでした。 小学校3年の時に、何かの本でブルガリアの「超高速学習法」を紹介していましたが、小学生向けの本でしたから「すごい! 先生の話を聞いても聞かなくてもテストは満点!?」みたいな紹介の仕方で、肝腎の学習方法については「クラッシック音楽を聴きながら、リクライニングシートで先生の説明を聞いても良し、聞かなくても良し。 でもテストをするとみんな満点近い高得点で、今までの勉強法の30~50倍のスピードで勉強ができる。」程度の説明しかなく、詳しく知りたくても参考資料になりそうなものは何も書いてありませんでした。 それが8年後、歴史、原理、方法などを詳しく解説した本が出版された事を知り、飛びついたのです。 この頃はまだ大学受験を目指していたので、苦手な英単語を覚えようと自分で教材を作りました。 後に大学受験用英単語のテープが市販されたと知ると直ぐに購入して試してみました。 また、その本を監修した教授(確か、平井富雄だったと思います)が禅と脳波の関係について興味深い研究発表をしていたので、近所の禅宗のお寺に座禅を組みに行ったりもしました。
超心理学については、最初はフロイト心理学に興味を持っていたのですが、次第にユング心理学、特に「集団無意識」に関心が移ってゆきました。 そのうちに「オカルト」「超常現象」を理論的に説明している「超心理学」は、人間の能力の限界を打ち破る可能性を秘めた学問のように感じ、 一時はこの世の全ての謎を解く秘密の合い鍵であり、無限の可能性手に入れたと錯覚していました。  この頃既に「精神世界」「スピリチャリズム」という言葉が使われ始めていましたが、この言葉を使っている著書を読むと、現在のように体系立ってはおらず、私には「お化け」「霊」を信じている人達が「本当にあるんですよ、科学で説明できない事が!」と声高に叫びながら、都合の良い所だけ「科学」を持ち込むん中途半端なカテゴリーにしか感じませんでしたので、私の中では明確に線引きしていました
3年の2学期も後半に入り、就職先も決まった頃には、大学に通信教育課程というものがある事を知り、法律を学ぶ事にしました。 決して法律自体に興味があった訳ではありませんが、知っていて損はないと思いましたし、法律に関わる事で「食いっぱぐれない」と思ったのです。 高校3年の間に自分の方向性がある程度決まったと言うよりは、大学進学を断念した事で自分のやりたい事がはっきりと見えてきたように感じました。

2010年12月2日木曜日

インポテンツ (トラウマ)

「中折れ」するようになった頃、自分が女性と話をする事が苦手になっていることにもようやく気付きました。 特にコンパなどに参加すると、周りが盛り上がれば盛り上がるほど、1人でポツンとする事が多くなりました。 性的コンプレックスが自分への自信を奪っていったかのようで、仲の良い数名の女友達以外は何を話しても直ぐに会話が止まってしまい、間が重く感じるようになくなってきたのです。
「中折れ」も女性との会話を苦手にした一因ではあると思いますが、まだ症状がなかった高校時代に女性と話をする機会があっても、S.S.以外の女性とは白けてしまう事が殆どでした。 恐らく、かなり前から女性が苦手だった事に気付いたのは、性的コンプレックスを自覚したからだと思います。 そして女性との会話が苦手だと意識した事は「中折れ」をさらに悪化させた一因になったのだろうと思います。 「中折れ」が悪化して射精できなくなってしまってからそれほど間を置かず、ついにはいくらエロ本を見ようと、強い刺激を与えようと、勃起をしなくなってしまったのです。 唯一の救いは朝起き抜けには勃起をする事があり、その時にすかさずマスターベーションをすることでなんとか射精まで漕ぎ着ける事ができました。 「朝立ちすると言う事は、機能的障害がある訳じゃなくて、精神的な問題が原因で起きる事だし、一時的なケースが多いのだから、心因さえ解決できれば元に戻るはず。」と自分に言い聞かせ、「朝立ち」を心待ちにしていました。 ですが「片金」になったことと「失恋」したこと以外に原因として思い当たる事はありませんので「解決」のしようがありません。 まごまごしているうちに「朝立ち」の回数まで減ってきました。 少ないチャンスを確実にものにしようと前の夜から構えているものですから、とうとう「朝立ち」すらしなくなってしまったのです。 毎朝しょぼくれた自分の息子を握り締めながらため息をつく事が多くなりました。
ですが良く気をつけると、起き抜けのまだ寝ぼけている間に勃起しているようなのです。 「あ、立ってる」と気が付くとすかさず、マスターベーションを始めるのですが、朝が弱いので直ぐに臨戦態勢を取れません。 大抵はしごき始めた直後に萎えてしまい、めったに射精できませんでした。 「また駄目だ」とがっかりした事ではっきりと目が覚めたました。 でもその時は既に、いくらいじろうが何をしようが、うんともすんとも言わなくなっているのです。 着替えたり風呂に入っているときに、情けない自分息子が市やに入ると、心の中も「情けなさ」で一杯になりました。 女性とは縁がない上に「インポテンツ」と「片金」というコンプレックスを抱え、私の性格はかなり「いじけた」ものになってしまったようです。
心が「いじけて」しまうと、ついには起き抜けのまだ寝ぼけている時でさえ「朝立ち」を確認できなくなるという「とどめ」を刺されてしまいました。 

2010年12月1日水曜日

中折れ (トラウマ)

S.S.はプロポーズされて間もなく妊娠し、その後お互いに連絡を取らなくなりました。
どうしてもS.S.と比較してしまい、他の女性に全く魅力を感じられなかった私は、女性と話をする事が次第に苦手になってゆきました。 ですが原因は失恋のショックからだと思い込み、最初はあまり気にもしませんでした。
その間に片方の睾丸を失った事に対するこだわりがトラウマとなり、私の心を徐々にですが確実に侵していたのだと思います。 それにはっきりと気が付いたのはS.S.とも連絡がなくなった高校卒業後です。 高校2年まではちゃんと「朝立ち」をしていましたし、視覚や聴覚又は物理的な刺激があれば普通に勃起をしていました。 3年の夏休み明けだったと思いますが、たまにマスターベーションの途中で萎えてしまうようになったのです。 ですが、何らかの刺激をもう少し強くすれば再び勃起したので、自分は「性力が弱い」くらいに考えていました。
ですが高校卒業後、その症状は徐々に悪化し、萎えてしまう回数が増え、マスターベーションをしても「中折れ」してしまい、射精できない事がたまにありました。 刺激を与えると再び勃起するのですが、射精する前にまた萎えてしまうのです。
睾丸の機能は片方だけでも精子を一生生産し続けるだけの能力があるそうなので、「片金」であろうが必要な役割は果たせますが、「インポ」になってしまったら、「使い物」になりません。 慌てて表紙に「医学博士○○監修」と書き込んである新書版の「早漏・インポテンツの治し方」「蘇る!○○○」といった書物を読みあさり、インポテンツになってしまわないようにできる限りの努力をしました。 ですが、どんな本にも一番大事な事は「気に病まない」と書いてあるのに、インポになってしまう事を怖れた私がこの類の本を読みあさった事は逆効果になったのかも知れません。 「中折れ」が起きる回数は徐々に増えてゆき、増えるに従い焦りがさらに昂じてインポテンツへの逆スパイラルに落ち込んでしまったのでしょう、マスターベーション中にちょっとでも手の動きをゆるめると「中折れ」するようになってしまいました。 そうならないように強い刺激を持続的に与えなくてはならなくなりましたが、そんなに長時間刺激を与え続けられるものではありません。 どうしても手が疲れてしまい、動きが鈍くなるとあっという間に萎えてしまいました。 刺激を与え続けられるように左手も使えるようして、充分に硬いうちは左手を使用して右手を休めました。 萎えそうになると右手で強い刺激を与えるようにしたので射精できるようになりましたが、勃起を維持する為に必要な刺激はエスカレートしてゆき、普通のマスターベーションでは射精ができなくなってしまいました。