2012年10月17日水曜日

「ケーオ」と「チャオクワイ」のネズミ捕り物

 10月14日の夜、「ケーオ」と「チャオクワイ」が物置場でネズミを見つけ、二匹で追い回して捕まえたビデオです。ずっと尻尾を振っていますから、捕まえるのが嬉しくて仕方がないのかも知れません。

 1ヶ月振りにバンコクに出てきたついでに、回線状態の良い場所でYouTubeにアップデートしてみました。

 やり方がよく分からなくてかなり手間取りましたが、何とかなったみたいです。







2012年8月27日月曜日

ヘルファイアー・パス 2 (タイの日常生活)

 7月22日(日)の記事「ヘルファイアー・パス 1」の続きです。


  


 鉄道の建設
 鉄道を建設するために曰本軍は、約270,000人のアジア人労働者と、60,000人を超えるオーストラリア人、イギリス人、オランダ 人、アメリカ人の戦争捕虜から成る多国籍の労働力を集めました。 線路の敷設作業は、1942年南ビルマで開始され、同時にタイでも建設が開始しました。 1943年10月16日、ビルマからの線路とタイからの線路が、タイのコンコイタで連結されました。
 鉄道敷設作業では、最新機器はほとんど利用できませんでした。 土と岩をシャベル、つるはし、くわで崩 し、バスケットやサックで 運びました。 石と土の土堤は人力で積み上げました。 手で岩を切断し、金属ねじタップと大ハンマーを使用して爆弾用の穴を掘りました。 鉄道沿いの橋の多くは、周辺のジャングルで伐採した木材から作った木造卜レッスル橋でした。
 1943年からは、8月完成の命令を受けた日本軍によリ工事のペースが一気に速められました。 これが 悪名高い「スピードー」期間です。 捕虜とアジア人労働者は夜遅くまで長時間の労働を強いられました。
 コンユウの切通しは、痩せ衰えた労働者を照らし出してゆらめくたき火の明かりにちなんで、この場所にへルファイヤー・パスという名前が付けられました。 「スピードー」期間は雨季に重なり、コレラの蔓延により多数の死者が出ました。
 1943年12月から1945年8月の間に、220,000トンの軍需品がこの鉄道で運搬されました。 連合軍の空襲が鉄道の運行を妨げましたが、日本軍はこのルー卜沿いで軍需品を運搬し続けました。 現在では、ノンプラダックからナムトッ クまでを結ぶ130キロメー卜ルの線路が使用されています。


 費用
 鉄道敷設の労働をした 60,000人の戦争捕虜のうち、12,399人(20%)が死亡しました。 70,000~90,000人の市民労働者も死亡したと考えられています。 これほど死亡率が高 かったのは、まともな食物の不足と不十分な医療施設が原因でしたが、近衛 と鉄道監督者による情け容赦のない扱いにより死者が発生したこともありました。
 戦争捕虜の基本食は、米と少量の乾燥野菜と乾燥魚でした。 日本軍から提供された乏しい食事に、多少地元の人々と取引きして得た食べ物で補足していました。 飢餓により、脚気やぺラグラなどの多数の病気が発生しました。 ひどい状態で生活し、衰弱した戦争捕虜はよくマラリア、赤痢、コレラ、熱帯腫瘍などの病気にかかリました。
 戦争捕虜は、ヤシの草ぶき屋根の小屋とタケの小屋に住んでいました。 小屋には大勢が押し込められ、キャンプの調理と衛生環境は原始的な状態にありました。 衣服と履物の不足により、病気にかかるリスクが高まりました。
 体罰は日本軍の規律の特徴で、戦争捕虜はよく激しく鞭打たれていました。 その他の懲罰もありました。 「スピードー」期間にはこれが最悪の状態にありました。
 「労務者」と呼ばれたアジ ア人労働者にとっては、状況はもっと過酷でした。戦争捕虜とは異なり、アジア人労働者に対して基本的な医療手当てを行う軍医はいませんでした。



  

 V組織
 タイはいやいやながら曰本と同盟関係を結んでおり、連合軍市民の被収容者 は、タイ人からいい処遇を受けていました。 被収容者は、戦争捕虜が置かれているひどい状態を知るようになりました。 被収容者のグ ループは、戦争捕虜のために食べ物や医薬品を密輸しました。


平和とその後
 鉄道の完成後、戦争捕虜はタイに残されたかまたは、シンガポールに送り返されました。 戦争が終わる と、戦争捕虜の生存者は 本国に送還されました。 彼らの多くは、適切な食事と医療手当てを受けてすばやく回復しました。 ただし、彼らの大多数はその体験から一生忘れられない精神的な傷を負っていました。
 鉄道沿いで死亡した戦争捕虜は、タンビュザヤ、力ンチャナブリー、そしてチャンカイにある英連邦戦争墓地委員会の墓地で埋葬し直されました。 アメリ力人死没者は、アメリカ合衆国に返されました。


 


 ヘルファイヤー・パス・メモリアル博物館
  JG(トム)・モリス
 写真提供AUSPIC


この史跡の保護と開発 は、オーストラリア人元戦争捕虜JG(トム)モリ ス氏によって提案され ました。
 JG(トム)モリスは、第二次世界大戦中にビルマ-タイ鉄道建設に使われた数千人もの戦争捕虜とアジア人労働者の中の一人で した。 トムは1941年、わずか17歳のときに志願兵として入隊し、22の大部隊で衛兵伍長を務めました。トムはA部隊と共に3年間戦争捕虜となり、ビルマ-タイ鉄道の建設に使われました。 その期間中、卜ムは10の異なるキャンプに収容され、マラリアや赤痢にかかりました。 後に、55キロ「病院」キャンプで彼は、他の戦争捕虜に対する医療伝令役として働きました。
 鉄道建設用地で働いてから40年後、トムはタイを再び訪れてコンユウ切通し( ヘルフアイヤー・パス)を 見つけようと決心しました。 1984年に、周辺のジャングルにほとんど覆われていたへルフアイヤー・パスを見つけただたけでなく、 ビルマ-タイ鉄道の建設中に苦しみ亡くなった全ての人々を追悼するために、この意義ある敷地を保存したいと考えました。

トムは、史跡としてへルフ アイヤー・パスを保存することをオース卜ラリア政府に提案しました。 当初、記念館の建設のために資金が提供され、1987年には正式に開館されてこの史跡へのアクセスが広がりました。 1994年には、歩行路と情報の表示を含むへルフアイヤー・パス・メモリアル博物館を建設するためにさらに資金が割り当てられました。 博物館は1998年4月25日に開館され、毎年80,000の訪問者が訪れています。


 寄付金

 ヘルファイヤー・パス・メモリアルへの寄付金 により、メモリアルの運営が継続的に支援されます。 メモリアルは、1942年〜1945年の間にビルマ-タイ鉄道工事で苦しみ亡くなった連合軍の戦争捕虜とアジア人労働者が体験 した苦しみと犠牲を追悼するものです。 メモリアルには、第二次世界大戦中、太平洋の他の場所で連合軍の捕虜が苦しみ、犠牲になった記録もあります。
 このメモリアルは、タイの人々およびオーストラリアやその他の国の人々にとって重要な教育施設となります。 メモリアルは、タイ、オーストラリア、そして国民がビルマ-タイ鉄道で働いたその他の国の間の密接な関係を永続的に示すものです。
 オーストラリア戦争墓地の事務所には寄付金受領の口座を設けており、メモリアルの建物入り口には寄付金箱が配置されています。 寄付者は特定の目的で資金を使用するオプションについて、スタッフと話し会うことができます。



ヘルファイアー・パス・メモリアル 連絡先

034-53-1347 (タイ国内一般電話)

081-754-2098 (タイ国内携帯電話)

081-814-7564 (タイ国内携帯電話)



2012年8月22日水曜日

ヘルファイアー・パス 1 (タイの日常生活)

 7月29日(日)、カーンチャナブリー県サイヨーク郡にある、「ヘル・ファイアー・パス」に行って来ました。 タイでは意外と有名な場所なのですが、知っている日本人はあまりいません。 過去、この場所には3回、直ぐ近くには2回訪れています。 私の人生の大きな転換点であり、このブログを書く動機とも深く関わり、今後も機会があれば訪れるであろう場所です。
 
 ですが残念な事に、 今の私にはこの場所の関係を上手く表現できません。 書けば書くほど書きたい内容から遠ざかってしまうのです。 今回の記事は「ヘルファイアー・パス・メモリアル」の日本語パンフレットの写真とその文字おこしを掲載するだけに留めたいと思います。

 博物館には掲載許可をいただきましたが、「快く」と言うよりは「え!? 何で私に断るの?」とちょっと戸惑い気味の対応で、版権などには無頓着だったのがいかにもタイらしいなと思いました。




  





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 ヘルファイア—・パス・メモリアルは、第二次世界大戦中に、ヘルファイヤ一・パスと他のアジア太平洋地域で苦しんで亡くなった、連合軍の戦争捕虜(POW)とアジア人労働者を追悼する記念館です。

 
 ビルマへの鉄道
 1941年12月、日本軍のハ ワイ真珠湾攻撃とマラヤ侵攻により太平洋戦争が勃発しました。 1942年半ばには、日本軍はインドの防御を最終目標とする英軍とビルマで戦っていました。 ビルマでの軍隊を維持するために、日本軍はシンガポールとラングーン間の脆弱な海路のほかに、安全性の高い供給経路が必要でした。 日本軍 は、タイのバンボンからビ ルマのタンビュザヤまで、ジャングルと山を通過する長さ415キロメートルの鉄道を建設するという決 定を行いました。



  


  


 距離と所要時間
 所要時間はゆっくリ歩いた場合のおおよその目安 です。
 注意 : ヘルファイヤー・パスメモリアル博物館はヒントツク・ロードからの送迎サービスは行っていません。 送迎には事前の申し込みが必要で、ご希望 に沿えない場合もあります。

 おおよその所要時間
 博物館からクウェー・ノイ展望台(ストップ11)まで 往復1時
 博物館からコンプレッサ一・カッティングまで 往復3時
 歩きたくない方は、どこか日陰を探してオーディオ・ガイドの案内をお聞きください。
 ご自由に選んでお聞きいただけます。

 概算歩行時間 (オーディ オなし)
 博物館からヒントックロードまで(道路で送迎) 1時間半(片道)
 博物館からコンプレッサ ー切通しを経てヒントックロ一ドの送迎地点に戻る。 2時間半。



  


ヘルファイアー・パス 2 に続きます。







ヘルファイアー・パス・メモリアル 連絡先

034-53-1347 (タイ国内一般電話)

081-754-2098 (タイ国内携帯電話)

081-814-7564 (タイ国内携帯電話)



2012年8月15日水曜日

毒吹きコブラ 3 (タイの日常生活)

「ケーオ、あなたね、メーチーに会いに来た人を噛み付いたり、自分はお腹一杯なのにチャオクワイが御飯食べようとすると怒って食べさせないでしょ。 そうやって『罪業』を重ねたから、こうしら自分に返ってくるのよ。 よくわかったでしょ。」
 何と、彼女は犬に向かって「説法」をし始めました。
 T.W.さんは2ヶ月ほど前に10日間ほどの予定で出家しました。 10日後に一緒に出家した人達と共に還俗しようとしたのですが、急に全身の力が抜けてしまい還俗の儀に参加できませんでした。 その後も数回還俗しようしたのですが、その度に身体が動かなくなるので、今だに出家したままでいます。 この辺は後日詳しく書こうと思っています。
 いくらW.T.さんが出家したからと言って、毒吹きコブラに眼をやられた愛犬に「説法」するとは思ってもいませんでした。 「ケーオ」も「ケーオ」でしょげてしまい、下を向いています。



暫くの間、眼をこすったり、流れてくる膿を舐めたりしていましたが、
疲れてしまったのか、この格好のまま動かなくなりました。



 様子から察するに、やはり右眼は見えないようです。 それでも歩く時はいつもと同じように歩いているので、左眼をチラチラと開けて周りを確認できているはずです。 コブラの毒は神経毒で、2時間前後で分解すると、何かの本で読んだ記憶があります。だとすれば、これ以上症状は悪化しないと考えられます。 後は何処まで回復するかです。

 「今日は大変だったから疲れたでしょう? 私達ももう寝るから、『ケーオ』も寝なさいね。 ゆっくり休んで早くよくなるのよ。 寝る前に、『ケーオ』の為に『慈悲の瞑想』してあげるから、『ケーオ』も『チャオカムナイウェーン』に赦しを請うのよ。」
 W.T.さん、お婆ちゃんを始め実家からやって来た人達は寝床に付きましたので、私も寝る事にしました。 「ケーオ」もベランダで横になっていますが、腫れたまぶたが疼くのか、頻繁に目をこすっていました。



皆が「喜捨物」の果物を飾り付け、僧侶を招いて「喜捨」をしている間、
「ケーオ」は中央奥の祭壇の下にいましたが、気付いた人は殆どいませんでした。



 「慈悲の瞑想」は日本テーラワーダ仏教協会のHPで詳しく紹介していますから、私の説明などは要らないと思います。 ただ私には、タイ上座仏教はこの「慈悲の瞑想」を、日本テーラワーダ仏教協会以上に重要視しているように感じています。 又、「慈悲の瞑想」の中で「私を嫌っている人々」をタイ語で「チャオカムナイウェーン」と呼びます。 ただ単に「嫌っている」だけでなく、過去世の中でで何かの「因縁」があって「嫌う」ようになった訳で、タイ上座仏教では人生に於ける「苦」の大きな原因と捉えています。 この「チャオカムナイウェーン」についても、機会があれば詳しく書くつもりです。





1つの山には、9種の果物、9種の料理、9杯の水。 これが3山あります。
この「喜捨物」についてはいづれ詳しく書くつもりです。



 そしてこの日、私も「ケーオ」 の為に「慈悲の瞑想」をしました。  目が開かない状態のまま「お手」をしたり顔を舐めてくる姿を思い出すと、いたたまれなくなって涙が零れてきます。

 最近は持病の背中の痛みが強く、何をするにもしんどくなってきました。 「患部」に潜む「チャオカムナイウェーン」に「慈悲」を与えなくては症状は良くなりませんから毎日行いなさいと言われているのに、サボって殆ど「慈悲の瞑想」をしていない私ですが、この日は流石に真剣にやりました。  何とか右眼の失明にだけは至らないで欲しいものです。



何事もなかったように、夕日を浴びてゆったりと昼寝。



 翌朝、シャワーを浴びて外に出ました。 そっと隣のクティのベランダで寝ている「ケーオ」の様子を眺めていると、読経の時間を知らせる5時の銅鑼の音が響き、「ケーオ」もその音で目を覚ました。 ですが、両眼は昨日と同じく閉じたままです。 暫くは「キョトン」としていましたが、そのうち昨日と同じように目をこすり出しました。  心配なのでそばに居たい所ですが、そうも行きません。  朝の読経・瞑想をしに、お堂へ向かいました。

 瞑想が終わって朝食の時間、いつもなら知らない人の匂いを嗅いだり、慣れた人に餌をねだったりして皆が食事をしている所をうろついているはずの「ケーオ」の姿が見えません。  食事をさっさと済ませて探したのですが、やはり見つかりませんでした。  居たら居たで開けない眼を見ては失明しやしないかと心配になるのは分かっていますが、居なければ居ないでもっと心配になります。



強い日射しの中、焼けたコンクリートの上で
昼寝するのが大好きな、珍しい犬です。



 私は「小さなお寺」と呼んでいますが、正確にはタイ語で「サターナタム(研鑚所)」と言います。  お寺として登録していないので僧侶は居らず、必要があれば近所のお寺から招きます。


 この日、皆が僧侶への食事や寄進物を準備している合間をみて「ケーオ」を探したのですが何処にも居ません。 皆が準備をしているのに一人だけブラブラする訳にもいかず、お堂の中で喜捨物の「果物の山」を作る手伝いをしていました。
 「昨日の夕方、「ケーオ」はあそこで寝てたんだよな」
 そう思いながら祭壇を眺めると、「ケーオ」は昨日と同じように祭壇の下で小さくなっていました。 眼の具合を確かめようと近づき、真正面に座ると、慌ててその場を立ち去ろうとしました。 怒られて追い出されると思ったみたいです。
 「いいから休んでな、今日は何も言わないから。」
 そう言いながら、私が後退りして距離を取ると「ケーオ」はホッとしたように座り直し、今朝と同じように眼をこすり始めました。
 「気配を殺す」とでも言うのでしょうか、多くの人がすぐそばで座っているのに、「ケーオ」がいる事に気付いた人は殆どいません。  いつもはお堂に入って来ても直ぐに出されてしまうか、遠慮するように自分からさっさと出て行ってしまうですが、今日は誰にも何も言われずにゆっくりとしていられるせいか、時折辛そうに眼をこする事を除けば、とても気持ち良さそうです。 ずっとこうしてみたかったのかも知れません。




近所の犬4~5匹が群れになって縄張りを荒らしに来ても、
単身で飛びかかって行き、蹴散らしてしまいます。


 僧侶への喜捨を終え、昼食も終り、参拝に来た人達が銘々帰り始めた頃、私も帰り支度を整えました。 人によっては片付けを手伝ったり、関係者と話し込んでいます。 帰りの方向が同じ人達の中に、席が空いている車があったので同乗をお願いし、メーチーに帰りの挨拶をしました。 この時、祭壇の下を見たのですが、「ケーオ」の姿はありませんでした。 境内を見回しても見当たりません。 帰り際にはいつも必ずやって来て「別れの挨拶」をしていたので淋しく感じましたが、今はゆっくり休んで眼を治す事が先決です。  見送ってくれたW.T.さんに別れの挨拶をすると、何処からやって来たのか、何時の間に現れたのか、W.T.さんの後ろで「ケーオ」が大きなアクビをしています。  W.T.さんは待っていたかのように御土産に買ってきた "TARO" の封を開けて食べさせ始めました。 この "TARO"  は魚の身を薄く伸ばし、細く切って味付けをした、タイでポピュラーなおつまみです。 以前は皆が美味しそうに食べていると、「ケーオ」もそばで「お座り」「お手」をしてねだっていましたが、最近は化学調味料や油脂分の多いものは胸焼けをするみたいで、以前ほど量を食べなくなりました。

 具合が悪いので気が弱くなっているのでしょうか、普段よりも甘えるような仕草で食べされてもらっています。 "TARO" を食べている最中の「ケーオ」に、
 「帰るからね」
 と別れを告げて駐車場に向かうと、いつもより遅い足取りでついてきました。 眼が開かなくても、いつものように送ってくれる辺り、犬という動物は義理堅いものだなと感心しました。 もし私が片方の目は完全に見えず、もう片方の眼も辛うじて開き周囲の状況を確認するのが精一杯だとしたら、例え世話になった人が帰る時でも見送りはしないと思います。
 どうか「ケーオ」の眼が良くなって、元通り境内を走り回れるようになりますようにと祈って、「小さなお寺」を後にしました。




喧嘩したり有刺鉄線をくぐったりしてばかりいるので、生傷が絶えません。



 アパートに戻っても「ケーオ」の眼が気になってしまい、翌日の仕事は上の空でした。 水曜日、W.T. さんに症状を尋ねる為に電話をかけたら、実家に帰る為に「小さなお寺」を出たばかりでした。
 「ケーオ、治ったわよ。」
 その言葉を聞いてホッとすると同時に、余りに早い回復に驚きました。
 「え!、もう治ったんだ。 回復早いね。」
 「左眼だけだけどね。 今朝からちゃんと見えるようになったわよ。」
 「右眼は?」
 「未だ開かないわ。 もしかしたら、もう見えないかも知れないわ。 良くなって、元通り走り回れるといいんだけれどね。」
 「やっぱり右眼は未だ駄目なんだ 。」
 「あなたも『ケーオ』の為に『慈悲の瞑想』してあげてね。 私は朝晩やってあげているの。」
 「うん、毎日やってるよ。」
 自分の事では余り真剣にやっていないのに、何で犬の為にはこんなに一生懸命なんだろうと、自分でもおかしくなりました。



先週、失明しそうなほどえらい目に遭ったのに、
全く懲りずに「不審物」の発見に努めています。



 正確に言えば、左眼が「見えるようになった」訳ではなく、見えていたけれどまぶたが腫れしまい開く事が困難だっただけです。 そして、肝心の右眼は未だ見えているのかどうか分からないのです。 少し遠くても、「ケーオ」がどんなに嫌がっても、直ぐに獣医に診せるべきだったのではないだろうかと考えると、失明せずに済んだものを失明させてしまったのではないかと自責の念に駆られます。
 そんな不安な日々は更に2日続きました。 気になって仕方ないので、金曜日に厨房を預かっているK.N.さんに電話で「ケーオ」の症状を尋ねました。 
 「今朝、やっと右眼を開けられるようになって、もう今まで通りに走り回っているよ。」
 その言葉を聞いて、私はやっと気持が楽になりました。 結果的には皆が言っていた
 「大丈夫、なんとかなるよ。」
 が正しかったのです。



排水溝の中は薄暗く、何が居るのか分からないのに、
お構いなしに入っていきます。



 治ったと聞くと、今度は元に戻った姿をこの眼で確かめたくなったので、

 「明日、遊びに行くから」
 とK.N.さんに伝えました。 この時には私の眼から涙が零れ、声が上ずっていました。 ばれないようにさっさと電話を切りましたが、暫くの間、涙は止まりませんでした。 
 翌朝、始発バスに乗り8時には到着しました。
 タクシーが乗り付けるなり、「ケーオ」と「チャオクワイ」がいつもと変わらずに走って出迎えに来ました。 そして取り敢えず肩から荷物を下ろすと、直ぐ隣で「お座り」「お手」をしてきました。 いつもと同じその仕草・表情が、掛替えのない尊いものに感じられました。
 何気ない日常のごくありふれた一コマに、既に自分の元にあるものに、幸せを感じられる事が最も重要な「幸せになるコツ」だと言いますが、それを実感した1週間でした。



2012年8月1日水曜日

毒吹きコブラ 2 (タイの日常生活)

 取り敢えず「ケーオ」がいる洗面台の上に「聖水」と「蜜蝋」を置き蓋を開け、「ケーオ」の首根っこを押さえ付けようとしたら、N.N.さんがやって来ました。 彼女がいれば、「ケーオ」も逃げたり抵抗したりしないはずです。 右目は全く開かず、たまに開く左目は白濁している事を説明し、「聖水」で眼球洗浄、次にまぶたの内側に「蜜蝋」を塗る手順を簡単に話して、私が「ケーオ」の首を押さえました。
   無理矢理まぶたを開いて水を掛けられたので「ク~ン」と弱々しい泣き声をあげています。 でも、まぶたの開き方が中途半端で、充分な洗浄が行えていないような気がします。 タイ人はこういう事がとことん大雑把です。 「蜜蝋」もまぶたを開いて眼球とまぶたの間に塗り込むように言ったのに、まぶたの上に 「ベト~ッ」と塗りつけて
   「うん、これで大丈夫。」
   って、これじゃ、意味がないような気がします。


夫婦で近所の果樹園を経営しているお婆ちゃん。
手慣れたものです。






 私が塗り直そうと片方の手を「蜜蝋」が入った容器に手を伸ばすと、手が緩んだ隙をついて「ケーオ」は私の手から逃げてしまいました。


   「もう終わりだから。 もう大丈夫だからね。 ゆっくり休みなさいね。」
   そう言ってN.N.さんは「ケーオ」をなだめながら洗面台の下に寝かせました。 暫くの間前足で目をこすっていたので、前足にも「蜜蝋」を塗っておきました。 直接眼球には触れないかも知れませんが、まぶたの腫れを引かす事はできるでしょう。 これ以上は仕方ないのかなと思いながら眺めていると、疲れたのか寝てしまいましたので、私とN.N.さんはトイレを出ました。
  「ケーオ」の事が心配でしたが、私達がそばに居ると落ち着いて寝られないでしょうから、果物を摘みに戻りました。 皆は奥で成っているランブータンの実を摘んでいましたが私は手前にあるロンコーンの実を摘みました。 熟していない果実を摘んでしまうと、もうそれ以上熟さないの果実なので、樹上で熟してから摘め取る手間のかかる果実で、雨に当たると房が足の長い白カビだらけになってしまう、結構手間のかかる果実なせいもあってか、市場価格はランブータンより高価です。 ライチよりも水分が少なく、透明感のある果肉は種ごとに複数に分かれており、皮にはヤニを多く含んでいるので、皮を剥くときに爪を使うと、爪の中が黒くなってしまいます。 



こちらは「ローンコーン」の実。
木によって実の味がかなり違いました。



 気の合った仲間とワイワイやりながら食べる完熟果実の味は格別で、本来なら楽しい時間を過ごせた筈なのですが、「ケーオ」の事が気になってしまい、心から楽しめません。 こういう時、タイ人は心の切替えが上手だなと感心します。 N.N.さんは鋸でランブータンの枝下ろしをしています。 楽しげなその表情からは「ケーオ」の事が心配で仕方ない陰りは感じられません。 私はといえば、「椅子があった方が摘み取り易い」 「脚立を使うともっと摘み取り易い」と、あれやこれや理由を見つけては「ケーオ」の様子を見に行ってました。 
最初に椅子を取りに行った時、「ケーオ」はさっきのトイレにはいませんでした。 今日は月例瞑想指導会の日なので、いつもよりもトイレを利用する人が多くて落ち着かないのかもしれません。 あちこち探し回ると、厨房の隣にある「洗い場」に置いてあるテーブルの下で寝ていました。  「ケーオ」がここで休む事は先ずありませんが、外敵からは見付かりづらく、自分は周りの様子が良く分かる場所だと思います。 野生の血がさせるのかも知れません。 さっきと違って短い呼吸ではなく、注意深く観察しないと分からない位のゆっくりした浅い呼吸です。

   コブラの毒は1~2時間が山だと言われてます。  「毒吹きコブラ」ではなく、普通のコブラに咬まれたのであれば、「ケーオ」の生死はあと1時間程で決まる事になります。 又、タイに「毒吹きコブラ」はあまりいないとされています。 本当に毒吹きコブラにやられたのでしょうか? 兎に角、今の私にはじっと見守る以外に何もしてあげられません。 回復を祈りローンコーンの樹に戻りました。


私達が摘んだこの樹は甘みにほどよい酸味が加わった、
「完熟果実」だけがもつ豊潤な味でした。


 素人がああだこうだと言いながら摘むのですし、摘むより自分の口に運ぶ方が忙しいのですから作業は中々はかどりませんが、1時間も経たないうちに椅子で手が届く範囲は摘み終わりました。 今度は脚立を取って来ると言って「ケーオ」の様子を見に行ったのですが、さっきのテーブルの下にはいません。 どこへ行ったのかとキョロキョロ辺りを見回すと、何時の間にか来たのか、私の後ろに両目をつぶったまま座っています。  この時間に普通に動けるならば、咬まれた訳ではなさそうです。  取り敢えず命に別状がない事にホッとしましたが、両まぶた、特に右が大きく腫れ、膿が流れています。  症状を確かめたくて右側を覗き込むと、顔を逸らして見せようとはしません。  本能的に急所を晒す事を避けているのでしょうか?  その痛々しい姿を見ていると、居た堪れなくなって私も涙が溢れてきました。  もう一度眼球洗浄をして、「蜜蝋」を塗った方がいいだろうと思い、さっのトイレに置きっ放しにして出てきた「聖水」と「蜜蝋」を取りに行こうと腰を上げようとしたその時、「ケーオ」が突然「お手」をして来ました。 目は開かないけれど真っ直ぐにこちらを向き、何かをねだるように口を開いて舌を出すいつもの仕草が堪らなく愛おしいものに感じられました。

   「もしかしたら、お腹が空いているのかも知れないな。 厨房に何かある筈だ。」
 野生の動物は病気や怪我をした時には殆ど食事を摂らず、回復する迄じっとしているものなのだそうです。  以前、「ケーオ」が 「チャオクワイ」と骨の取り合いで大き喧嘩をした時、「ケーオ」はいつものように勝ったものの、左目の少し下にかなり深い傷を負った事がありました。 その時は傷口が塞がるまで殆ど何も食べずにじっとしていました。  食欲が有るならば、症状は大した事がないのかも知れません。  それに、空腹時に食べ物が目の前にあれば少しはおとなしくするだろうから、首を抱えてもう片方の手で「蜜蝋」を塗れるかもしれません。 できる事はできる時にやっておいた方がいいでしょう。


厨房脇の洗い場のテーブルの下でピクリとも動かずに寝ていました。



 そんな事を考えていたら突然、体の向きを180度変えてお堂の方へトボトボと歩いてゆきました。 「お手」をした直後に、向こうを向いて歩き出すなんて初めての事です。

   「ケーオ、何処行くの?」
   「一体どうしたの?」
   声を掛けながらも「お堂の裏口にある駐車場で休みたいのかな? でもそれならわざわざお手なんかしないはずだし・・・。」 と不思議に思いました。
お堂の入口の前で「ケーオ」は立ち止まり、「お座り」の姿勢で扉の中をじっと見詰めています。 目をつぶっているはずなのですが、ピクリとも動かずに中を見詰めているその姿勢はますます不可思議です。 というのも、もし扉を開けたければ、前足と鼻先を使って扉を開ける事ができるのです。 「中に何かあるのかな?」 と扉に近付いても、「ケーオ」は相変わらずピクリとも動きません。 「中に入りたいのかな?」 そう思いながら扉を少しだけ開けたのですが、中には誰もいません。
   「何? 中に入りたいの?」
 そう語りかけると、「ケーオ」は急に腰を上げました。 お堂の中に犬を上げてはいけない事になっています。 でも、あまりに真剣にお堂の中を見詰めているその姿を見て、「怒られてもいいや」と感じ、周りを見回しても誰もいない事を確認してからお堂の扉を開けてあげました。



祭壇下に隠れるように寝ていた「ケーオ」
右目からは膿が流れ落ちてくるので常に舐めて拭き取っていました。



   中に入ってビックリです。 「チャオクワイ」がグーグー寝ています。 自分で扉を開けられないはずなのに、いつの間に中に入ったのでしょう? 普段の「ケーオ」なら、「チャオクワイ」が中にいたなら自分も構わず入ってゆくはずです。 それが今日は扉を開けてもらうまでジッと待っていたのです。
   中に入ると真っ直ぐ歩いてゆき、仏前で「お座り」をしました。 もしも出家者が座っていれば、ちょうど「お手」ができる位置です。 そして暫くの間、仏像の方を向いてじっとしていました。 私も仏前に礼をすると、「ケーオ」は仏像の裏に廻り、目立たないように小さく丸くなって寝てしまいました。 余程この場所で休みたかったのでしょう、とても気持ちよさそうです。 いつもなら例えお堂の中に入っても、出家者に「お手」をして直ぐに出てゆくので、特別に目をつぶって中に入れてあげたつもりでしたから、私もちょっと戸惑いました。 でもさすがに今、「ケーオ」をここから出す気にはなれず、仏前に礼をして、そっとお堂を出てゆきました。


写真ではあまり分かりませんが、
両まぶた共にひどく腫れてしまい、とても痛々しい姿でした。



 その後もう一度「ケーオ」の様子を見に「お堂」の中へ行きましたが、さっきと同様小さくなって寝ていましたのでそっと寝かしておいてあげました。

 収穫も終わり、疲れたので「クティ(僧房)」でシャワーを浴び、仮眠を取り、目が覚めたのは読経の時間でした。 皆、お堂に集まっていますが、さっきの場所に「ケーオ」はいませんでした。 何処に行ったのか、どうしているのか心配でしたけれどどうしようもありません。 読経が終わり法話のまでの休憩時間中に探したのですが見つからず、法話も上の空で聞いていました。

   この日は「ケーオ」の世話係の T.W.さんが、実家からお婆ちゃんを連れて帰ってくる予定でした。 「ケーオ」の姿を見たらとても驚くはずです。 朝、実家を出たと聞いていたのに未だ到着していませんから、いつもより随分と時間がかかっています。 法話が終わると「クティ」に戻りました。 隣の「クティ」に灯りが付いていますから、T.W.さんとお婆ちゃんはもう到着していたのでしょう。 近付くと皆がベランダに集まって話をしています。 お婆ちゃんに挨拶をしようと覗き込むと、お婆ちゃんの前で「ケーオ」が「お座り」をしていました。
   「ケーオ、よくなったのかい?」
挨拶も忘れ、思わず声を上げながら覗き込むと、右目がさっきよりも大きく腫れ上り、涙に膿が混じって流れていました。 お昼よりも痛々しい 姿です。 お婆ちゃんは2~3ヶ月に1回程度の割合で、実家からこの「小さなお寺」にやってきます。 お婆ちゃんがじっと「ケーオ」を見詰めながら
   「可哀想にね」
  とつぶやくと、それに答えるかのように「お手」をしてました。

 皆の話では、果物を摘み終わった後でメーチーが「ケーオ」の様子を見たとき、「お座り」しながら涙をポロポロとこぼしていたそうです。



近くで見るとまるで涙を流しているようでした。



   消毒効果がある薬草を飲ませようとしても嫌がるので、T.W.さんは布に含ませて目の回りを拭いたり、目をこする前足を濡らしたりしていました。

 「久しぶりにケーオに会えるから、大好きな御菓子を沢山買ってきてあげたのに、それどころじゃなくなっちゃったわね。」
   そう言いながらT.W.さんは丹念に目の回りを拭いています。 「ケーオ」も黙っておとなしく吹いて貰っていますが、他の人だとこうはいきません。 誰か一人が押さえ付けていないと嫌がって逃げてしまいます。 慣れていない人なら噛み付かれるでしょう。 でも T.W.さんだけは例え顔を少し背けても 、逃げたりせず、まるで縫いぐるみのように大人しくしています。 やっぱり「飼い主」には忠実なのだなと思いました。

2012年7月25日水曜日

毒吹きコブラ 1 (タイの日常生活)

 6月15~17日は「小さなお寺」で月例瞑想指導会がありました。 この3日間、参加者は原則として「八戒」を守ります。  在家信者は普段は「五戒」を守った生活をするので「三戒」増える訳ですが、事実上は午後の食事を摂らないだけです。 


写真を撮られるのが大嫌いな「ケーオ」が、
この日は珍しくカメラを向けても笑顔でした。






 最終日の3日目に僧侶を招く際の中心的な喜捨物である「果物」は、いつも信者からの寄進物を主に、不足分を市場で買い足して来ますが、この時丁度、境内にたわわに実ったランブータンとローンコーンがあったので、2日目の午後は皆でその収穫をしようという事になりました。 ちょっと変わった「研鑽」ですが、心のこもった「喜捨物」だと思います。 樹上で完熟した果実ですし農薬は使っていないので、食べたい人は好きなだけ食べられるようにとわざわざ「八戒」を「五戒」に改めました。  私は前日の休憩時間に摘み食いしましたが、とても美味しいランブータンでした。

「瞑想指導会」がある日は知らない人も多数来るので、
苛々している事が多いのに、この日は珍しく上機嫌。




 市場に出回る果物は、各種の肥料を施す時期と量が厳密に決められており、その通りにすれば高品質の果実が実るそうです。 「小さなお寺」でもその肥料を用意しているのですが、行事に追われたり人手が足りない時には後回しになってしまい、近所の果樹園農家の人達が気を遣って手伝ってくれたりしていますが、結構杜撰な管理です。 まあ、本業ではないのですから仕方ありません。 ですから「糖度」は市販のものより低いかも知れません。 それでも完熟したもぎたての果実の美味しさは、市場で購入する高級品にもない豊潤なものです。


 数本あるランブータンの樹下には熟して自然に落ちた実が 一面に広がっています。 「枝切鋏に似た『果実収穫器』は先端が鋏ではなく『三枚刃鋏み』になっていて、小枝を掴んだら軽く捻ると、房ごとランブータンを摘み取る事が出来ます。 それを籠で受けながら、間を見計らっては手の届く高さに成っている実を口に放り込みます。  大半の人は、私と同様に始めての経験だったので皆、結構はしゃいでいます。

手が届く高さのランブータンはそのまま摘み取ります。



私はふと周りを見回して、「ケーオ」がいない事に気付きました。  この「小さなお寺」の関係者が林の中に入ると、呼んだ訳でもないのにいつも必ずそばにいました。  たまに蛇や蠍等の危険な動物を見つけると追い払ったりしてくれるので案外頼りになります。  隣家の土地を購入したばかりの頃、メーチーが林の中に入った時には大蛇を見つけたて追い払ったり、お腹に60以上の卵を抱えたコブラを見つけて、チャオクワイと共同で噛み殺した事もあります。  小さな蛇などは手慣れたもので、前足でペタンと踏み付けて息の根を止めてしまいます。



突然、弱気な泣き声で目が開かないとN.N.さんに訴える「ケーオ」




 そう言えば最近、以前より昼寝している時間が長くなっているようで、いくら呼んでも姿を現さないし、どこを探しても見つからない事が多くなってきました。  昨年末に「小さなお寺」が裏にある敷地を購入してからは、見廻る「縄張り」が倍近くに広がり、走り回る時間も量も増えたので、7~8歳の「ケーオ」には少しきついのかもしれません。


怖がりながら 眼の周りを拭いてもらっているところ


 暫くの間、ランブータンを摘んでいると、どこからやって来たのか「ケーオ」が首をうなだれながら世話係のN.N.さんの所に向って行くのが見えました。 いつもの覇気がないので気になって見ていると、
「どうしたの?、何したの?」
とN.N.さんの声が聞こえました。 近付いて見ると目の周りを濡れた布で拭いています。 更に近づくと拭った直後の鼻と右目の間に小さな赤い点が2つ見えたような気がしたのですが、次の瞬間には拭き取られて見えなくなりました。
「コブラ?」
嫌な胸騒ぎに襲われました。 勝気なケーオに似つかわしくない「クーン、クーン」という弱々しく小さな泣き声が聞こえました。 顔を拭き終わった後も目をつぶったままで、トボトボと食堂に向って歩いてゆきました。 真っ直ぐに歩いていますし、前を歩いていた人を避け、横をすり抜けて行ったのですから、目は見えている筈で、足取りもしっかりしていました。

「目にゴミでも入ったか蜂にまぶたでも刺されたのかも知れないな」
と思い、作業を続けようとしましたが、さっきの嫌な胸騒ぎが治まりません。 我慢出来ずに籠を放り投げて「ケーオ」の後を追いました。



私には一瞬、蛇が咬んだような2つの赤い点がみえました。


  「ケーオ」は厨房とその先にあるトイレの間の細い通路で体を丸めて休んでいましたが、私の声を聞くとこちらに向って歩いてきました。 両目を閉じ、向きや足元を確認するために時折開く左眼は白内障のように白濁していました。
「うわっ、これはマズイ!」
症状を確認しよう私が顔を近づけると、「ケーオ」は顔を背けて症状を見せようとしません。それでも構わずに覗き込むと、嫌がって女子トイレの中に逃げ込んでしまいました。 綺麗な総タイル張りのこのトイレの洗面台の下は、三方がタイルになって冷んやりと涼しいからでしょうか、「ケーオ」のお気に入りの休憩場所です。 誰にも邪魔されずにゆっくりと休みたい時は大抵ここにいます。 目の症状を確認しようと近付いて覗き込むと、立ち上がって又どこか他の場所へ行こうとするので、抑え付ける仕草を取りながら少し距離を取り、その場から動かないようにさせて暫くの間、様子をみました。  両まぶたともに腫れていますが、右の腫れが大きいようです。  それ程気温が高いとも思えないのに、かなり激しく舌を出して荒い呼吸を続けています。 暫く眺めていると冷たいタイルを舐め始めました。 炎症で身体が熱を持ち始めたのかも知れません。

木に登って摘み取る人もいました。



 「ケーオ」の様子が少し落ち着いてきたので、腫れているまぶたを観察しようと顔を近づけたら、舌を向けて舐める素振りをしてきます。 こんな時でも愛情表現をしてくるのか、こんな時だから甘えてくるのか、それは分かりませんが、兎に角何とかしてあげないといけません。
先ず応急処置として目を洗わないといけないはずですが、一人がしっかりと掴まえてもう1人が水を掛け洗わないと、嫌がって逃げてしまいます。 今日、ここにいるメンバーで、「ケーオ」を押さえられる人は多分、N.N.さんくらいです。 直ぐに戻って症状を説明しましたが、こんな時タイ人はとても楽天的です。
「多分、何とかなるから大丈夫よ。」
すると近所の人が、
「うちの犬もこの間、毒吹きコブラにやられたけれども、聖水で目を洗って1週間もしたら治ったわよ。」

枝は以外と柔軟性があるので、
手に届く枝は力一杯引っ張って摘み取ります。



ここのメーチーの「聖水」で長年苦しんだ症状が改善した人は沢山います。 私が鬱を始めとする様々な精神疾患特有の症状に悩まされたとき、最も効果があったのも、ここのメーチーから頂いた「聖水」でした。 メーチーに御堂に置いてある「聖水」を使う許可をもらい、「蜜蝋」も分けてもらいました。 タイのお寺には大抵置いてある「蜜蝋」は、蜂の巣を始め様々な植物を混ぜて作るようですが材料や製法はそれぞれ異なり、効能も大きく異なります。 ここの「蜜蝋」はある有名な高僧も「とてもものがよい」と気に入ったほど質の良いものです。 一説によれば、この高僧が住職を務めるお寺はタイで最も「金持ち」なお寺だそうで、タイ全国から最高級の喜捨物物が集まってきて管理しきれないので「博物館」を作ったほどです。 ちょっとやそっとの物を気に入ったりはしません。

高い所は「果実収穫器」を使います。


 「聖水」と「蜜蝋」を持って「ケーオ」が休んでいるトイレに戻りましたが、もし抵抗すれば目を洗う事は難しいので、どうすれば片手で押さえ付け、もう片方の手で目を洗えるか考えてしまいました。 誰に頼んでも、
「私じゃあ、『ケーオ』を抑え付けようとたら、噛み付かれちゃう。」
と尻込みしてしまい、手伝ってくれないのです。

2012年6月22日金曜日

アリの巣 2

 鞄の中の潰れたアリとその卵を拭き取りながら、ようやく状況が飲み込めてきました。 「小さなお寺」のクティは直ぐ後ろの山の麓にあります。 大雨が降りそうな時、よく観察していると、卵を咥えたアリが隊列を組んで山の中に移動します。 多分、木ノ上にでも卵を避難させるのでしょう。 そして、雨が止むと再び隊列を組んで山から降りてきます。 クティはアリの「巣」と「一時避難所」の間に位置している訳ですが、雨が降っても卵が安全な事が分かるのでしょう、ちょっと油断するとタンスの中や裏側に巣を作ってしまいます。 以前はベッドの中に巣くった事もありました。 そして私が丸2日間、タンスの上に鞄を置いていた間に、アリが巣を作ってしまったのです。 帰り支度を急いだので、鞄の中を見ずにパソコンや周辺機器を突っ込んでファスナーを閉めてしまったので、アリが逃げ出す暇がなかったのでしょう。

 そんな事を考えてふと足元を見ると、絨毯に
何十匹もの潰れたアリがからまっています。 私が鞄と窓の間を何度も往復している間に踏んづけてしまったのでしょう、捩れた体でピクピクしています。 社長が女性のこの会社は、「きれいな事務所にしたい」という思いで絨毯張りにしたのですが、そこに大きな赤アリが潰れて絡まっていては「台無し」になってしまいますし、露骨に「不快感」を私に向けてくるでしょう。 幸い、今日は月例の日本出張なので、一匹ずつゆっくりと摘み取る事ができましたが、こんな所を見つかったら、言い訳の常套句である

 「ここはタイですから、仕方ありませんね。」

 は多分使えないでしょう。
卵を咥えた大きな赤アリがウロウロしているバンコク事務所なんて、日系企業では聞いた事がありませんから。

  別にこの大きな赤アリに限りませんが、タイではアリは結構厄介な「害虫」です。 ほんの一瞬とはいえ、噛まれると強い痛みが走り、
種類によっては熟睡していても目が覚める程です。

 何故か「機械」が好きで、小さなアリはよく「壁掛け時計」の中に巣を作ります。 ギヤに引っかかって潰されてしまい、その死体が原因で時計が正常に動かなくなる事がたまにあります。

 又、パソコンの中に巣くう事もあります。 ハードディスクに入り込むと、動作不良の原因になります。 10年ほど前、中古ノートパソコン専門のパソコンショップでアルバイトをしていた事があります。 その時、ハードディスクの動作不良が原因らしいパソコンの修理現場に立ち会った事があります。 2.5インチハードディスクを取り出し、蓋を開けると中から無数のアリがウジャウジャと出てきました。 内部に殺虫スプレーを吹きかけて、天日干し約1時間。 その後もう一度殺虫スプレーを吹きかけて再度天日干しを約1時間。 最後にCRC-556の類似品を吹きかけ、ハードディスクを元に戻した所、そのノートは正常に動作するようになりました。 こんな事を2回も見ると、ノートパソコンのそばをアリが歩く事が許せなくなります。

 ですが、高級コンドミニアムにでも住んでいるならともかく、駅から歩いて3~4分の距離なのに部屋代が4,000バーツなんていう激安のアパートに住んでいる者には、アリと無縁の生活を送る事は夢の又夢。 部屋の中でゴキブリを目撃しないだけでも有り難いと感謝しなければなりません。

一度でいいから、バンコクに住む一般的な日本人の生活を謳歌してみたいものです。

 帰宅する前に、ベランダを覗き込むと、潰れた赤アリの死骸と卵が散在し、その周りには小さな黒アリが沢山たかっています。

 翌日出社してベランダを眺めましたが、昨日の出来事が嘘のようにきれいに片付いていました。

 バンコクにあるオフィスビルのベランダで起きた「食物連鎖」は、私に自然の力強さを感じさせてくれました。


2012年6月19日火曜日

アリの巣 1

 6月15・1617日の3日間、「小さなお寺」で月例瞑想指導会があったので、いつものように参加してきました。
参加者は庭にテントを張り、そこで休息を取ったり寝たりします。 それが嫌で最終日だけしか参加しない人もいます。
  私は大抵の場合、テントは利用せず、「クティ」と呼ばれる僧房に泊まっています。 ここには僧房が2軒あり、お坊さんが来られた時にはここで休息や睡眠をとって貰います。 それ以外にも、メーチーのお母さんが来られたときにも、ここに泊まります。 それ以外の時は厨房をまかなっているK.N.さんが寝泊まりしています。 とても温厚でメーチーの話をよく理解している方で、説法が難しかったりして私が理解できないとき、夜寝る前にK.N.さんからもう一度解りやすく説明して貰っています。

  ここに到着すると、いつものように「ケーオ」と「チャオクワイ」、2匹の飼犬に餌をあげ、それからクティで着替え、鞄をいつものようにタンスの上にのせてから食堂に向かいました。
3日間(実質2日間)瞑想指導会が終了し、お土産の果物を
いつもより多く貰って、バンコクのアパートに戻りました。 この日の果物は「小さなお寺」の庭で取れたランブータンやローンコーンです。 殺生になるからと殺虫剤を使用していないので、付いていたアリがいつもより多かったようです。 大きな赤アリがアパートの中をうろうろするのでちょっと閉口しました。 ですが、タイでアリの事をぼやいてもどうにもなりません。 私の部屋には餌になるようなものはないので、そのうちいなくなるでしょう。 疲れていたので、その日はそのまま寝てしまいました。

 翌朝目が覚めても、部屋の中を赤アリがうろついているのを見て、気分が少し萎えました。 最悪は「アリの巣コロリ」でも使う必要があるかも知れません。 そんな事より、早くしないと会社に遅刻しそうなので、鞄にパソコンを突っ込んで、慌てて部屋を出ました。
 会社に到着して、私用パソコンを取り出そうとすると、鞄からアリが2~3匹出てきました。 大きな赤アリが白い事務机の上をウロウロする様は私的には大きな「ミスマッチ」です。 そして鞄の中にはまだいるかも知れません。 それは幸先の悪い1日のスタートを予感さます。 こんな時に苛々しながら物事をすると、とんでもないミスを犯しそうですから、気を落ち着けながらノートパソコンを開きました。 次にACアダプターを取出して机に置いてコンセントに指すと、机の上をまた赤アリが歩いています。 ACアダプターをよく見ると、白いコードに赤アリが7~8匹たかっていました。 嫌な予感がしたので鞄の中を見ると、大きな赤アリが2~30匹ほど歩いています。 携帯用の充電器や予備バッテリーを入れたポーチを取出すと、フラップの下からもぞろぞろと出てきます。 中には「卵」を咥えているのもいます。 フラップを開き、中身を取出すと、卵を咥えて慌てふためいたアリが2~30匹ほど出てきました。 慌てて事務所の窓を開け、ベランダにはたき落としました。 ポーチの中には卵が沢山入っています。 何でこんな事になっているのか分かりませんが、兎に角アリと卵を出さなくてはなりません。 口を下に向け、鞄の底を何度も叩いて落とし、つぶれてしまった卵をティッシュで拭き取りました。

 「もしかして・・・」
 そう思って、予備携帯やメモリーを入れてある小さな鞄を出すと、そこにも赤アリがたかっています。 さっきより数が少ないのですが、外側に潰れた卵が5~6個くっついています。 同様にベランダではたき落とし、ティッシュで拭き取りました。 イサーンでは赤アリの卵を好んで食べますし、私も好物ですが、自分の鞄の中にいる赤アリの卵は食べる気になりません。

 念のために他の中身も調べた方がいいだろうと鞄の中を見ると、そこはまるで「アリの巣」のようでした。 100匹以上のアリと、ほぼ同数の「卵」が私の目に飛び込んできたのです。 急いで鞄の中身を全部出し、鞄を逆さまにしてアリと卵をはたき落としましたが、布製の鞄なのでアリもそう簡単には落ちてくれません。 全部叩き落とすにはかなりの時間がかかりました。 ふとベランダを見ると、そこには何百匹ものアリが慌てふためきながら潰れていない卵を探し、咥えて、安全な場所を求めて歩き廻っています。 オフィスビルでは滅多に見る事のない不思議な光景に、私は暫く目を奪われてしまいました。




2012年5月30日水曜日

漢方治療 2 (タイの日常生活)

やっと漢方医がやって来て、診察室に入るなり診察開始です。 診察札1番の私が呼ばれ中に入ると医師は椅子に向かって手を伸ばし、無言で腰掛けるように促しました。 椅子にかけるなり今度は左腕を出すように言われ、脈を見始めました。

以前治療を受けた漢方医も同じ事をしたので特に不思議にも感じませんでしたが、腕の良い漢方医は、これだけで患者の全身の状態が手に取るように分かるのだそうです。 医師によっては脈を診るときに指を小刻みに振るわせます。 ある人からは、指先から「気」を放ち、全身を巡って返ってきた「気」の状態から患者の状態を診察するのだと聞いた事があります。



治療期間中の禁忌事項、新しい土瓶の使用前注意、漢方薬の煎じ方。
中国語・英語・タイ語表記してあり、初めて診察に来た人に渡されます。 


 左腕の次は右腕を見ました。 それが終わると紙に診断結果を書き込み始めました。

 「背痛と目眩。 目眩はそれ程重くはないけれど慢性的。 それと脂肪肝の初期。 血中脂肪がかなり高いですね。」
 「背痛と目眩はその通りで、取り敢えずこの2つの症状を改善して欲しいと思います。 でも、脂肪肝や高脂血症の自覚症状は特にありません(ある訳ないけれど・・・)。 それよりも階段を1階分登っただけでも息切れと動悸がします。 子供の頃「リウマチ熱」に罹ったので、弁膜の働きが少し弱いみたいですから心配なのです。」
 「心臓・腎臓、共に問題ありません。 高脂血症で血液循環が悪くなり、心臓に負担がかかりやすくなっているだけです。 取り敢えず1週間分処方しますから様子を見て下さい。」




処方箋。 漢字で書いてあるみたいです。 縦3列の筆跡と
右側の縦印刷の間に書かれている文字が「分量でしょうか?


  患者から症状を聞かずに診断を下すのはちょっと驚きでした。 ここ数年健康診断などの検査をしていないので、本当に高脂血症かどうかは分かりませんが、心臓に問題がないなら一安心です。

「診察料」として200Bを直接医師に支払います。 医師が書いた処方箋を薬剤師(らしき人)に手渡すと、慣れた手付きであっという間に処方が終了します。

後で分かった事ですが、ここは飽くまでも「漢方薬局」であって、中華街に散在する他の薬局と同じです。 違いは「正確な診断」を下せる医師がいて、症状に最適な処方をしてくれるのです。 だから処方箋を持っていれば、別に医師の診察を受けて200Bを支払う必要はないのです。

でも多分、そんな事をするならここには来ないと思います。 もっと安くて薬の種類が豊富な「漢方薬局」は中華街に行けばいくらでもあります。 多少高くても、効果が出るのが他より早く、治療期間が短いので、結果的に安く付く一流の診断が「売り」で、患者もそれが目的できているのですから。


製材所や漬物工場のクズをかき集めて乾燥させたような漢方薬


 その日は一度帰宅して直ぐに出社しなけらばならないので、のんびり薬を煎じてもいられません。 翌朝から煎じ薬を飲み始めるのですが、藁半紙のようなチープなものではなく、しっかりした紙で薬包み、弾力性のない輪ゴムを2本使って止めてあります。 開くと何種類もの訳の分からないものが入っています。 パッと目にはとても「うさん臭い」代物で、「鰯の頭も信心から」という故人
の教えを自分に言い聞かせながら煎じました。

1時間ほど弱火で煎じ、コップ1杯分ほどにまで煮詰まったら飲むのだそうですが、言われたように煮詰まりません。 コップ1杯になるまでに2時間以上かかりました。 念のためにと早起きしたからいいようなものの、いつもの時間に起きていたら出勤時間に間に合わない所でした。 もしこんな事を電磁調理器でやっていたら、いくら設定温度を低くしても、電気代が馬鹿になりません。 これから毎日早起きしなければなりませんし、夕方も何処にも行かずに「ピクニック」のそばで火の番をしなければいけません。

「厄介な事をはじめちゃったな。」

そう考えるとちょっと気が重くなりました。



煎じた薬を飲み終え、夕方もう一度煎じられるのを待つ漢方薬。


  3日ほどそんな事を続けてから、
処方箋の下欄に目を通したら、朝はコップ3杯の水が1杯分になるまで煎じ、夕方はコップ2杯半の水が1杯分になるまで煎じると書いてありました。
  「薬の煎じ方にも書いておけよな。」
  そう思いながら「薬の煎じ方」をもう一度よく読むと、土瓶一杯に水を入れるのではなく、薬が「ひたひたになるまで」水を入れると書いてありました。 私が良く読んでいなかっただけだったのです。 タイ語もまだまだだなと反省させられました。



2012年5月27日日曜日

漢方治療 1 (タイの日常生活)

私が突然、「ピクニック」なんて危なっかしいものを買ってしまった理由は「漢方治療」を始めたからです。 漢方薬は土瓶で煎じなければならず、金属製のヤカンを使用してはならないそうです。

 「電磁調理器」は「土瓶」も使えると勘違いしていたので、先日知人から譲り受けたばかりの「電磁調理器」と「土瓶」を使って煎じるつもりでいました。 周りから「無理だよ」言われて、間違いに気付き、慌ててピクニックを購入したのです。



一般の漢方薬局より薬の数がずっと少なく、タッパーを多用している。
後ろに 昔ながらの薬棚が見える。


 7~8年前にも一度、漢方治療を受けた事があります。 その際、医師からは、
 「気が殆ど回っていません。 まるで死人みたいです。 未だ若いのにこんな人は珍しいですし、こんな状態なのに毎日仕事ができる人も珍しいです。 治療にはかなりの時間がかかりますよ。」
  と言われた事があります。




受付兼看護婦? 一度話し出すと止まらない


 当時勤務していた会社が地方の工業団地に移転した為に、そこでの漢方治療を断念しましたが、その漢方医の言葉がずっと頭に引っかかっていました。 実際、程度の軽重はあれ、慢性疲労が治る事はありませんでした。

 昨年の9月から、久しぶりにバンコクで働き始めると、再び以前のような強い慢性疲労に悩まされ始めました。 その上、背痛と目眩で仕事に殆ど集中できません。 病院に行っても「鎮痛剤」「筋肉弛緩剤」「目眩止め」などの薬を処方され、「休養を充分にとりなさい」と言われるだけなのは分かっています。 知人に頼み、先月22日に漢方医を紹介して貰う事になりました。




全部で7包、7日分です。 真ん中に挟んである紙は「処方箋」。
薄いピンク色の紙の大きさは約30㎝ x 30㎝。


 到着するとシャッターが閉まっており、中には人がいる気配がありません。
  「日曜日は休みなのかな?」
  慌てて心当たり数件に電話確認をしていました。 分かった事は日曜日のみ休診なのだそうです。 仕方ないので翌日、会社に遅刻の連絡をして、再度漢方医を訪ねました。
  しかし、昨日同様シャッターが閉まっています。 早く来すぎたのかも知れないからと暫く辺りをウロウロしていると、隣の家の人が、
  「先生は今、中国に行ってるよ。 帰ってくるのは来月の3日だよ。」
  と教えてくれました。

 「張り紙ぐらいしておけよな・・・。 無駄足踏んだじゃないか。」


事務用コピー用紙より薄くてツヤと腰のある紙を使い、
大きめの弾力性のない輪ゴムで止めてある、イージーな包装。


経験上、こういった情報は誤っている事は珍しくありません。 念のために5月3日は電話で医師が帰ってきている事を確認 した上で、翌日、診察に行きました。
  腕が良いから患者が多いと知人から聞いていましたし、診察は 8:30 から開始と言われましたので 8:00 には到着するようにアパートを出ました。  まさかの1番乗りです。 これなら混んでいても診察が直ぐに終わるとホッとしました。
  所が、8:30 を過ぎ、9:00近くになっても漢方医はやって来ません。 患者は皆、ぼんやりと待っています。
  9:00を過ぎると少し苛々してきましたが、周りを見渡すと誰も医師が来ない事を気にしていない様子です。
  漢方医がやって来たのは9:30ちょっと前でした。
  後で考え直したら、「診察開始」が8:30と言われたのですから、「受付開始」が8:30と解釈してのんびり待っていなくてはいけなかったのです。 タイで10年以上暮らしているのに、直感的にそんな事が分からないなんて、未だにこの国に慣れてはいないなと反省させられました。


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ピクニック

2012年5月17日木曜日

ピクニック (タイの日常生活)


 ついに買ってしまいました。
 その名も「ピクニック」。

 タイの事を少しでも知っている人なら、つい顔をしかめたくなる危険な香りが漂うタイの日常生活品の1つです。 
お値段は1,600バーツ(約4,100円)でした。



「ピクニック」、日本人にはないネーミングセンス。


 LPガスボンベの口に直接コンロを乗せて、五徳と風防まで付けた逸品です。 私が購入したのはガスが4㎏、ボンペが6.3㎏の小型タイプです。 一人暮らしで料理が全くできない私には充分な大きさです。 また、ガスが無くなったら電話をかければ充填に来てくれます。 ガス補充費は160バーツ(約410円)。 長く使えば充分に割が合いそうです。

 塗装に傷が付かないようにでしょうか? 硬質ビニル製のネットが被せてあります。

 あまり火を使わない屋台でも、この大きさを使っているのを見かけますが、大抵はもっと大きなタイプを使っていますし、4~5人家族でももう一回り大きいのを使っています。 用途に合わせて何種類もの大きさの中から選べるのです。




見かけより遙かに安定していて、簡単には倒れません。


 一度、道沿いに並ぶ屋台で食事を注文しようとしたら、ノブの付け根の所からガスが漏れ、そこに引火したので一目散に逃げた事があります。 遠目に見ていたら、周りの人達も蜘蛛の子を散らすように逃げていました。

 屋台のおばちゃんも一度は慌てて逃げ出したのですが、気を取り直して屋台に戻り、濡れ雑巾でガス漏れ箇所をパタパタと叩いて消火し、ギュッとノブをねじって事なきを得た事がありました。

 以前から危ないと思っていましたし、実際にガス爆発で亡くなる人は毎年後を絶ちません。 




取っ手の取付角度が独創的な土瓶


 私が日本でワンルームマンションに暮らしていたとき、食費を浮かせる為に自炊していた事がありました。 牛筋を大きな鍋で煮込み、ビニール袋に小分けして冷凍保存をしていたのですが、煮込んでいる最中に居眠りをしてしまい、何度も焦げ付かせていまいました。

 一度は煮物の最中に近所に買い物に出かけ、火をかけっぱなしな事をすっかり忘れてそのまま知人の家に遊びに行ってしまいました。 戻ると換気扇から煙がもうもうと出ていました。 部屋のドアを開けて中に入ると煙で先が見えず、鍋の中の牛筋は真っ黒焦げでした。 近所の人が通報したので消防車までやって来て、大騒ぎになってしまった事があります。



乗せてみると、妙な取り合わせです。


  そんな私が、これまで避けていた危ないピクニックを購入したのですから、これは危険極まりない出来事です。 もし「ブログ」や「なう」の更新が1~2ヶ月滞っていたら、愚かな日本人がピクニックの爆発でいなくなったものと思って下さい。

 そうならないためには、余程心して取り扱わないといけません。




風防は取り外し可能


 前日に購入した土瓶を乗せてみました。 取っ手の角度が日本のものと異なり、とても使い辛いです。 新しい土瓶はバケツなどに水を張り、約2時間その中に沈めておいてから使うものなのだそうです。

 結構、準備が大変です。

2012年4月10日火曜日

イサーン マンゴスチン ? (タイの日常生活)

 前回の記事「『ケーオ』と『チャオクワイ』 1」、前々回の記事「仏像(ソムデットオンパトム)建立 8」と同日に撮影した写真です。



一見、マンゴスチンにも似ていますが、
大きなマンゴスチンの実よりも更に1回り程大きく、
外の「殻」は軟らかく、色は淡くて赤紫っぽいし、「ヘタ」も地味です。



 T.W. さん 暫くの間実家に帰っていました。 そしてこの日、お母さんと一緒に戻ってきました。 実はT.W. さんはこの「小さなお寺」のメーチーの妹です。 出家したのでお母さんの面倒を見る為に頻繁に実家へ帰る訳にもいかないので、メーチーはよくT.W.さんを実家に帰らせてお母さんの世話をさせています。 T.W.さんも実家の生活が一番気ままで楽なので、喜んで帰っています。




見た目はとても「果物」っぽいので、何となく美味しそうな気がします。


 田舎のたまたま寄った市場で見つけたからと、お土産に買ってきてくれた果物です。
 私が珍しがるのなら分かりますが、この日、「小さなお寺」に来ていた人全員が初めて見る珍しい果物です。 初めて見るのですから、当然誰も名前すら知りません。





果肉の部分はマンゴスチンよりも柔らかくて薄く、透明度も少し高い。


 「イサーン マンゴスチン て言うのよ」
 「何だ、知ってるんだ。 市場の売り子が教えてくれたの?」
 「今、私が付けたのよ。 イサーンで買ってきたけれど、イサーンじゃマンゴスチン採れないから、分かりやすい名前でしょ。」
 T.W. さんに真面目に尋ねた私が馬鹿でした。 興味のない事にはこれっぽっちも関心を示さない、彼女らしい返事です。 





何気なく手で割ったのですが、こうして見ると何となくやばいアングルでした。


 彼女の言う通り、名前なんて分からなくても、味は分かるのですから、早速食べてみます。 見かけと違って、「マンゴスチン」のように酸味はありません。 舌触りは「
シュガーフルーツ」に近いように感じますが、それほど強い甘みはありません。 どちらかと言えば、「ランブータン」「バナナ」「ドラゴンフルーツ」のようなクセのない甘みです。
ドリアンと同じように、種と果肉が綿状の繊維で繫がっています。


 残念な事に少し熟しすぎて、果肉の一部が痛み始めていました。 2日位前が食べ頃だったみたいです。 2個程虫が食っているものがありました。 かなり大きな芋虫でしたから、虫に食われやすいのかも知れません。 あまり見ないという事は実が成る数が少ないとか、生産の手間がかかる割に市場価格が安いとかの理由もあるかも知れません。



よく見ると、殻の左下側が少し痛んでいる。


 食べ終わると誰もこの「イサーン マンゴスチン」の話をしませんでした。 印象の強い味ではないので「記憶に残らない」のです。 それから1年以上経ちましたけれど、この果物の話は誰の口からも出てきません。 もしかすると、私はこの果物を2度と口にする事は出来ないのかも知れません。 タイという国は、そんな儚さが充ち満ちています。