2012年2月11日土曜日

ラックムアン (タイ上座仏教)

 2011年3月25日(金)、又、小さなお寺にやってきました。 写真は翌日26日に撮影したものです。 前回来てから1週間しか経っていませんから、殆ど変化はありません。

先週から殆ど進んでいない現場


 それでも正面から見て左半分は梯子状の「梁受け」を渡し終え、鉄筋と仮枠を組み始めています。
 「何故、半分だけしか作業を進めないの?」
 と思うかもしれません。 実はビティ(建枠)も作業員も数が充分ではないので、片半分を先行させているのですが、お世辞にも「作業能率」がいいとは思えません。


正面左半分だけ作業を先行
 5月になれば、雨が降るようになります。 平らな場所を作り、余った生コンを計画的に捨ててゆけば、ぬかるまない「作業場」になるはずなのですが、そんな先の事までは考えないようです。 生コンの量もキチンと計算できないようで、バカみたいに余らせる事があります。


余った生コンを所構わず捨ててしまいます
 この日は「ラックムアン」に参拝に行きました。 かつての統治者が街の「中心地」として定めた場所をこう呼び、現在の県庁所在地の大部分と歴史のある市には「ラックムアン」が存在しているそうです。 又、この「ラックムアン」を作った統治者を「チャオポー・ラックムアン」と呼ぶそうです。


日本流に言えば「御神木」に相当するようです


 ただ、「ラックムアン」はお寺でなく、バラモン教の儀式に則って作られるものですから、ブログテーマの「タイ上座仏教」からはちょっと外れているのかも知れません。
 ですが、ゴータマ・シッタールダが大悟された際、この真理は人間には理解できるものではないと布教を諦めたそうです。 そこへバラモン教の創造神ブラフマンが現れ、布教を懇願された事が仏教の始まりという事になっていますし、バラモン教の神々も釈迦を尊敬しているそうですから「よし」とするか、民間信仰や他宗教の神々も抵抗なく受け入れてしまう寛容さと捉えて眼をつぶって下さい。

お参りに来ている人が結構いました。


 「ラックムアン」の直ぐ側には「タキアン・クー」と呼ばれる大きな樹があり、参拝している人が多数いました。 幹の根元を眼の高さで撮りたかったのです、人が絶えないので無理でした。
 皆、手を合わせ終わるとさっさと「ラックムアン」に行ってしまうので、由来を説明している立看板を読む事はできませんでした。


その名も「タキヤン・クー」 由来を書いた立看板が読みたかった。


 私事ですが、この前の年(2010年)の後半から、私の所属会社と派遣先会社の間で諍いが起き、雇用契約が打ち切られる事になりましたが、所属会社は新しい派遣先を見つける事ができませんでした。
 1~2月中は解約の時期について交渉する段階に入ったので、私は就職活動として人材派遣会社へ登録する為に休暇を申請したのですが、派遣先の次長からは「まだどうなるか分からないからもう少し様子を見てくれ。」と言われ、特に就職活動をしませんでした。


こちらは「サーンチャオ・ルアム」


 結局、雇用契約は4月末で解約になり、私は失業してしまいました。 「ラックムアン」に参拝に行ったのは、失業の約1ヶ月前の事になります。
 一番困ったのは「就労ビザ」「労働許可証」です。 どちらも所属会社から発行されていましたが、新たな派遣先がありません。 新たな就職先を見つけるまでの2〜3ヶ月間、給料は出せないけれど、会社に籍だけは置かせてもらう事で一段落しました。


バラモン教と中国の神様を一緒に祀っているので
「ルアム(混ぜる)」と呼ぶような気がします


 次に困ったのは「アパート」です。 当時は派遣先会社の寮に住んでいましたが物がとても多かったので、引越するのがとても大変です。 寮の決まりでは、雇用契約が解約された段階で寮を出なくてはなりませんので、直ぐに「アパート」を探して引っ越す必要があります。 もし新しい就職先が見つかれば、通勤に便利な場所にある「アパート」へ再度引越しなくてはなりませんし、費用も馬鹿になりません。 当時の貯金は10万バーツちょっとしかありませんでしたから、僅かな出費でも大きな痛手です。


一際派手な祠


 派遣先会社と何度も話し合い、「黙認」という形で2〜3ヶ月、寮に住み続ける事になりました。 直ぐにでも新たな就職先を決めて気持ちを入れ替え、生活を安定させたい所ですが、鬱病にかかってから集中力が極端に落ちてしまい、15〜20分も翻訳をすると頭がボーッとしてしまうし、1日経つと前の日の事ですら記憶が曖昧になってしまうので、その場で記録に残しておいた事以外はあてにできません。 3〜7日も経過すると殆ど何も思い出せないので、まともに働いてゆく自信がありませんでした。


祠の大きさに比べ、賽銭箱はとても大きい


 更に、3月11日の東日本大震災の影響もあって先行き不透明な状態の中、日系企業は一時的に雇用を見合わせている時期でもありました。
 どうしたらいいのだろうと途方に暮れているうちに、「失業」が目前まで迫ってきました。 この辺りの事は後日詳しく書く予定です。


この金色の柱が「ラックムアン」だそうです


 何故この日、突然「ラックムアン」にやって来たのかといえば、信者の一人が「月例瞑想会」中に「チャオポー・ラックムアン」の姿が見えたので、一度、お参りに行った方がいだろうという事になったのです。

この街を開いた当時の「国王」だそうですが、今なら
「知事」ではなく「町長」「市長」レベルだと思います。


 「チャオポー・ラックムアン」は華僑系であったようで、ここは中国色が強い場所でした。  「タークシン大王」も華僑系でしたが、その事で悩み、晩年精神錯乱を起こした原因でもあるとされています。


「タークシン大王」ゆかりの地でもある


 この日初めて知ったのですが、ここはトンブリー王朝を開いた「タークシン大王」ゆかりの地でもあるそうです。 ビルマ軍侵入の際、一旦現在のラヨーンまで兵を引き、その後この地方を抑えて兵を整え、チャオプラヤー河口のトンブリーでビルマのトーンインを討ち、チャオプラヤーを遡ってアユタヤーに向かったのだそうです。


直ぐ隣には兵営があります


  そんな歴史的背景があるからでしょうか、隣には「タークシン駐屯所」という名の兵営があります。
 ちなみに日本では「タクシン」と表記される事もありますが、名前が「シン」で、ターク国の王だったので「タークシン」と呼ばれており、元首相のタクシン・チンナワットとは発音も綴りも異なります。

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