2011年1月12日水曜日

おかず (トラウマ)




K.A.先生が言うように、生肉やレアステーキを生ニンニクと一緒に食べると体調が良いと感じ始めたのもこの頃です。 K.A.先生はレアステーキなら週に3~600g、ユッケや牛刺なら2~400g程度採るように勧めていましたが、この頃から馬刺を週に700g以上食べるようになりました。 食べたその日は体調だけでなく、「息子」も元気になったからです。 それ以外にも豚、鶏、魚なども多く採りました。 ただ「卵」だけはアレルギーの原因になりやすいとの事なので、週に1~2回に限定し、その時は5個位まとめて生で食べるようにしました。 映画「ロッキー」の1シーンと自分がダブる恍惚の瞬間です。
動物性タンパクだけでなく、植物性タンパクも取りました。 植物性タンパクの代表はやはり「大豆」でしょう。 「納豆」は勿論ですが、煮豆は砂糖を使うので避けて、黄粉を牛乳などで溶いてそのまま食べました。 「小豆」は発芽させ、蒸かしたり、アルファルファやラディッシュなどの種子も発芽させてサラダにして食べました。 「そば粉」と「オートミール」を牛乳で練り、フライパンにバターを引いてホットケーキのようにして食べました。
又、チーズも大量に採りました。 プロセスチーズではなくナチュラルチーズです。 当時はナチュラルチーズを知らない人も随分いたし、近所のスーパーに置いてあるナチュラルチーズは「ピザ用お得袋」だけでした。 輸入されたナチュラルチーズは高価だったので、新宿や四谷まで行って「チェダー」「ゴーダ」「モッツアレラ」の割安なものをまとめ買いして毎日食べました。 好きな「カマンベール」はちょっと値が張るので、特売があるとまとめ買いしました。 最初のうちはきつくてとても食べられなかった「ブルー」も、慣れてくるに従っておいしく感じるようになり、値段も廉価なことから、見かけが手作り石鹸とよく似た「チェダー」「ゴーダ」「モッツアレラ」のお得版は「日常食」の地位を「ブルー」に取って代わられました。
食生活と共に、勃起が維持できるようなマスターベーションのやり方もあれこれ試してみましたが、K.K.さんの事を思い浮かべながらするのが一番効果的でした。 高校の頃、マスターベーションするときに、何度もS.S.の事が浮かんできましたが、必死に打ち消してエロ本を見たり、他の女性を思い浮かべていました。 彼女をオナペットに使う事は、たとえ想像だけであっても「罪悪感」に襲われたからです。 次に会った際、いやらしい想像をした事をいつも心の中詫びていました。 それから数年、会った直後こそS.S.の時のように「ご免なさい」と心の中で謝っていましたが、すぐにそんな「罪悪感」も湧かなくなり、いつもK.K.さんをオナペットにしてするようになりました。 これまではあれこれと試行錯誤して、立てば喜び萎えれば落胆していた日々だったのが、K.K.さんでマスターベーションするようになってから、射精できる確率が上がってきましたし、一々紐で縛らなくても勃起を維持出来るようになったのです。 彼女は私のインポテンツを治してくれた「女神様」であり、最高の「おかず」でした。 そして、初めてトレーニングを受けて2年半以上経過した頃には、K.K.さんの事を思い浮かべるだけで自然に勃起し、マスターベーションをすれば萎えずに射精できるようになり始めました。 ただ、他の女性を思い浮かべてもこうはいきません。 K.K.さん以外では今まで通り、何をしても萎えてしまうのですから、症状の改善と比例してK.K.さんへの思いも募ってゆきました。 そして数ヶ月後には、K.K.さんをオナペットにすれば9割以上の確率で射精するようになりました。

2011年1月11日火曜日

射精した! (トラウマ)



直ぐに萎えてしまうとはいえ、やっと勃起できるまでには辿り着いたのですが、ここから先はなかなか進歩せず、この状態がかなり長く続きました。 ある日ふと思いついて、勃起した時にすかさずペニスの付根を紐できつく縛り、萎えないようにしてからマスターベーションしてみました。 この方法は紐を解くタイミングが遅れると射精できませんが、まだ勃起が続いているのなら縛り直して第2ラウンドに突入できます。 もしそのまま萎えてしまってウンともスンとも言わなくなると「欲求不満のピーク」だけが残ってしまい、その後は寝ても眠られず、本を読もうにも集中できない「蛇の生殺し」のような中途半端な状態がいつまでも続くという欠点がありました。 ですが諦めずに紐の種類や縛り方を工夫し、必要な時は直ぐにほどけるようになるに従って、射精出来る回数も増えてきました。 何度か輪ゴムでやってみましたが、これは外すのが大変でしたし痛いので直ぐに「不採用」となりました。 何でも、この方法は本来「早漏」の治療法らしく、ペニスへの血流を阻害する事からインポテンツの改善には不適切なようです。
こんな試行錯誤を毎日続けているうちに、紐で縛らなくても3~4分は勃起を維持出来るようにまで回復しました。 お風呂で石鹸を使うと勃起しやすく、持続しやすいと、いい事ずくめだったかったのでお風呂でマスターベーションするようになり、風呂が長すぎると父や母から頻繁に文句を言われるようになってしまいました。
「仕事で疲れているから風呂ぐらいゆっくり入らせてくれ。」
とは言っても、あまり湯船に浸かっていない事は水の音で分かりますから不自然な言い訳です。 ですが「『インポ』直すのにお風呂でセンズリすると具合がいいから、ゆっくり入らせてくれ。」とはさすがに言えませんから仕方ないと割り切っていました。 文句言われても、ちゃんと立つ方がずっと明るい人生が送れるはずです。
そして、初めてトレーニングを受けてから2年以上経過すると、 好転反応と思われる体調の悪さがある程度改善されてきたのと比例して、持続時間も長くなり、たまには紐を使わなくても射精できるようになりました。 インポテンツになってからずっと劣等感に苛まれていた私にとって、こんな当たり前の事が嬉しくて仕方ありませんでしたし、トレーニングの成果を「身体」で実感できました。 「信じて続けてきて良かった。」と素直に思え、今までにも増してトレーニングを実生活に取り込むようになりました。

2011年1月10日月曜日

勃起した! (トラウマ)



しかし、落ち込んだからといってインポテンツが治る訳ではなく、返って悪化さてしまうのですから、残された道は少しでも「性」と「精神」の両面を成長させる事しかなく、そうしなければ「自分の将来はない」という、半ば強迫観念に近い思いで必死に自分を「改造」してゆきました。 それでもなかなか成果が得られずに、疑問が湧いてきた事も1度や2度ではありませんでした。 今、こうして振り返っても、よく何年も我慢できたなと、自分に感心します。 それだけ集中力はあったのだと思いますし、ある意味では精神的に追い詰められていたのかも知れません。 同時に「盲信」し易い私は、1歩道を誤れば、取り返しがつかない所まで行かないと、行き着く所まで行かないと、気付かないという危険性も抱えているようです。
そんなある日、講演会にもトレーニングもほぼ毎月通っている人の中に、インポテンツを治したくて通っている人がいる事を知りました。 詳しい事は知りませんがマザコンだったようですから、K.A.先生の言葉を借りれば「マザコンインポ」という最悪パターンです。 トレーニングは「乳離れ」から始めたので、成果が出るまでにはとても時間がかかったそうです。 そして、風俗ならなんとかセックスができるまでになった事を知ってからは、たまに湧いてきた疑問も湧かなくなり、今まで以上に「精進」しました。
そんな生活を1年以上続けていると、エロ本などを見た時に多少大きくなるようになりました。 私はインポテンツ以外に、小さくなっている時は皮が被っている事も気にはなっていました。 そして「平常心」時の大きさは銭湯に行くと前をタオルで隠さなくてはならない程惨めなものでした。 「インポ」「包茎」「短小」と三冠王なのですが、「インポ」と「包茎」はそう簡単にばれません。 ですが学生時代、プールの授業では海水パンツを履くので簡単にばれてしまいます。
「お前、付いてるのかよ?」
と同級生からよくからかわれましたし、「嫌な奴」が隙を見ては「確認」する為に触ってきました。 中高校生時代に何度も物差しで測り直しましたが、勃起時には13㎝と日本人の平均並みになるですし、その時にはちゃんと皮もむける「仮性包茎」なのですから、気に病む事もないはずなのですが、勃起をしなくなってからは、小さくて皮を被っている幼稚園児と大差のない物しか目に映らない訳ですから、この2つも私を落ち込ませる一因になりました。 一回り大きくなると皮もむけるので、回復しているという「実感」が湧いてきて、涙がこぼれ落ちてきそうになるほど嬉しい出来事でした。 そのうちに大きくなるだけでなく、僅かですが「硬さ」も加わり始めました。 その「ふにゃチン」が次第に硬さを増してきて、刹那的にでも勃起をするようになった時には嬉しさの余りマスターベーションすることも忘れ、自分の一物を握り締めながらただじっと眺め入ってしまいました。 ですが、この段階ではまだ「朝立ち」はしませんでしたし、「体調」 「おかず」 「刺激」 の3拍子が揃わなければ「勃起」すらしません。 運良く勃起したとしても、最初は1分程度で萎えてしまう儚いものでした。 それが2~3分持つようになり、勃起する確率も上がってくると、センズリの真似事ぐらいは出来るようになりました。 しごけばちゃんと感じるのです。 ですが、いくら感じても「息切れ」するように萎んでしまいます。 「根性なし」のチンポコに腹が立つわ情けないわでしたし、女友達との「武勇伝」を友人から聞かされると怨めしいものがありました。

2011年1月9日日曜日

性及び精神の発達 (トラウマ)

K.A先生は講演会でいつも男にバイタリティーを求め、「サラリーマンなんて鎖に繋がれた飼い犬と同じだ」 「自分の力で金も稼げないような奴は男じゃない」 「組織の中でしか生きられないとか、女房の稼ぎがないと家族を養えないような男は『去勢』されているのと同じだ。」と、口癖のように言っていました。 まもなく不安定で先の見えない時代になり、自分の経験や感覚だけを頼りにどんな時代にも適応できる「野性的」な力を身につけない限り、これからの時代は乗り切れないという主張です。 私もそうありたかったので、食事、呼吸、運動、仕事、読書と、JA研究所で覚えた事を可能な限り実践していました。 K.K.さんのような素敵な女性に憧れられるような男になりたくて、周囲の目など意に介さず、ひたすらK.A.先生の言われた事を実践しているつもりでした。
甘い物好きは精神の発達段階が未成熟のままだというK.A.先生の言葉は随分気にかかりましたので、清涼飲料水の類は一切飲みませんでしたし、お菓子や飴・ガムの類にも一切手を付けなくなりました。 一時的にこういった事をするのは容易い事ですが、何年も持続するのは非常に難しい事です。 それでも続けられた最大の理由は、砂糖が「精力」を衰えさせると聞いたからです。 人間には身体の発達段階と比例して精神の発達段階がありますが、「味覚」もそれらと同様に発達段階がある事を主張していました。 最初に覚えるのは「甘さ」であり、叙々に「塩辛さ」や「酸っぱさ」を覚えてゆき、「辛さ」、「苦さ」へと発達してゆきます。 ですがこの発達が「甘さ」で止まっている者は自分に「甘い」し、「辛さ」や「苦さ」へと発達しない者は人生の「辛苦」を受け入れられない、つまり、「餌付け」が出来ていないのだそうです。 本能を失った生物である人間は、生まれた時から「学習」する必要があり、その「学習」の第1歩が「餌付け」続いて「躾」なのに、最初から躓いていては身体だけ大きくなっても精神的には全く成長出来ていない「大きな子供」になってしまう。 その典型が「マザコンインポ」なのだとよく言っていました。 
又、食事も勧められるままに、レアステーキを始めとする生食を心掛けていました。 K.A.先生が推薦する食べ物の大部分は、簡単に言えば「精の付く食べ物」でした。 K.A.先生は「性」エネルギーが人間を動かす点火剤だとして「性」のエネルギーを重視していたのです。 又、フロイト以上にフロイトらしいと言われた「フロイト左派」と呼ばれる学派の精神分析論を非常に詳しく研究していました。 ライヒが用い始めた「性及び精神の発達」という言葉を頻繁に例に挙げ、
「性の発育段階が未成熟なものは精神の発育段階も未成熟だ」
とよく口にしていました。 この言葉はインポテンツで悩む私の胸に深く突き刺さる言葉でした。 S.K.への思いを告げられずにいたのも、自分は精神的に幼いという劣等感からでした。 もう2度とこんな目には遭いたくない、自分を成長させたいという思いからJA研究所のトレーニングを受け、毎月開かれる講演会にも出席していたのに、そこで「インポテンツで幼稚」とあからさまに罵られたようなショックを受けました。 よく「馬鹿に『馬鹿』と言ったら洒落にならない」と言いますが、「インポテンツに向かって『インポ』と言ったら洒落どころか全く『使いもの』ならなくなってしまう」のです。

2011年1月8日土曜日

出会い (トラウマ)

そんな生活を送っている最中、大学の通信教育課程のスクーリング(大学の夏休みに行われる通信教育課程のための授業で、これに出席しないと単位が貰えない)で知り合った1つ年上の女性、K.K.さんに一目惚れしてしまいました。 瞳の輝きがとても印象的なきれいな女性でした。 これまでどうしても断ち切れなかったS.S.への未練は、K.K.さんとの出会いと同時にあっさりと断ち切れました。
とても気さくな性格だったので、彼女とは不思議なほど自然に会話することができました。 女性とは上手く話せない事をすっかり忘れさせてくれるK.K.さんに私は夢中になってしまいました。 K.K.さんには彼氏がおり、その彼氏しか目に入っていないことは最初から分かっていたのですが、諦めようとすればするほど思いは募ってゆきました。 それはただ単にS.S.への片思いがK.K.さんへと代わっただけで、全く進歩がない同じ事の繰り返しに過ぎなかったのですが、その事に気付くには何年もかかりました。
それでも、それはそれで良かったのかも知れません。 S.S.の事を思い出すと塞ぎ込んでいた毎日が、電話で話をしている間だけでも気分が高揚したのです。 仕事が終わると怠くて仕方がなかったのに、K.K.さんと会う約束をした日だけは疲れなど全く感じませんでしたし、明け方までドライブしても眠気すら感じなかったのです。
初めてトレーニングを受けてから1年も経つと、好転反応は幾分治まり、仕事にも多少は慣れたとはいえ、K.A.先生の言うように「24時間365日闘える」ようなバイタリティーは出てきませんでした。 そしてK.K.さんに出会ったことでインポテンツによる劣等感も再燃してきました。 別にK.K.さんと交際している訳ではないのですが、K.K.さんを「女」として意識すればするほど、自分が「男」としてまともに機能していない事は苦痛以外の何者でもありませんでした。 必死に生活を変えてもなかなかインポテンツが治らないので、講演会が終了して出席者が全員会場を出た時にどうしたらいいかと相談しました。
「あ、それはただの神経疲労。」
と簡単な返事が返ってきました。 流行性耳下腺炎で右の睾丸が駄目になった事は関係あるのかと尋ねてみましたが、
「そんなの無関係。」
が答えでした。 その日から私はトレーニングで覚えた神経を弛める方法を再確認し、毎日神経疲労を取る事にも努めました。

2011年1月7日金曜日

疲労感 (トラウマ)

これら以外にも多くの事を学び、学んだ事は体験を通じて理解してゆきました。 1ヶ月のトレーニングを終了して最初にぶつかった問題は「体力」でした。 トレーニングを受ける前から感じていた事ですが、ほぼ毎日、午後3時頃になると身体が重くなって動きが急に鈍くなり、頭もボーッとして父の言う事がきちんと耳に入らずにトンチンカンな事ばかりしていましたし、仕事が終わると暫く何もしたくないほどぐったりしていたのです。 トレーニング後はそれに加えて激しい好転反応が起き、常に身体が怠くて仕方がありませんでしたし、夏でも手足が冷え、頭はのぼせていました。 仕事が終わると何もできないほど疲れているので、インポテンツの事など気にする余裕すらありませんでした。
思い返せば小学校低学年の時、運動する事を禁じられていたのでいつの間にか身体を動かす事が嫌いになり、小学校高学年で既に「理屈っぽく」なっていましたし、高校卒業時にはすっかり「口先ばかり世間知らず」に成長していたのです。 そんな人間が体力が資本の世界に入り、同時に自分を成長させようと思えば当然、時間がかかります。 何度も、と言うよりほぼ毎月へこたれていました。 そして「もう駄目だ!」と諦めそうになる頃に講演会があり、K.A.先生に会うと「このままじゃいけない!」と再奮起するのですが、1ヶ月も経つか経たないうちに又へこたれ始め、諦めそうになった頃に又講演会に参加するという綱渡りのようなサイクルが数年続きました。 激しい好転反応は3年近く続き、言いようのない怠さから解放される日はありませんでした。 「何故、自分の身体なのに、自分の思うように動かないんだ!」と叫びたくなるようなもどかしい日々でした。
私は甘い物が大好きでしたが、トレーニングを受けてから一切止めました。 母は肉が嫌いな為に、私の家はおかずに肉が少なかったと思います。 当時解禁された輸入牛が徐々に市場に出回り始め、よく探すと安い牛肉を扱う肉屋があったので4~5㎏まとめ買いして300㎏ずつ切り分けて冷凍保存しました。 肉が嫌いな母は肉の塊を見ただけで何かおぞましいものでも見るような顔をして私とその肉を睨み付けていました。 おかずに肉類がなければ自分でおかずを買ってきて食べていたので、母は面白くなかったのでしょう、食生活を変えて間もなくから、母は私を露骨に非難し出し、やる事一つ一つに干渉し出したので、関係が急に悪くなりました。 レアステーキや生肉を取る時にはニンニクも同時に取ると更に効果的だと言われれば、おろし生ニンニクを塗ってそのまま食べていました。 仕事先への移動中たまたま見つけた肉問屋にはいつも「馬刺」が置いてあったので、1回約250gの馬刺しに生ニンニクをたっぷり塗りつけて週2回は食べるようになりました。 家族を始め、周りの人達はとても臭がっていましたが、私は全く気にしませんでした。 身体を作り直す為には、他人の目など一々気にしてはいられなかったのです。

2011年1月6日木曜日

水分 (トラウマ)

仕事は屋根の上の仕事が6~7割でしたから、夏は暑く、冬は寒く、風が吹き付ける、雨が振り付ける、都会の暮らしで忘れ勝ちな「自然」を全身に受けながらの作業でした。 確か家業を継ぐと決めてから2年目の夏だったと思います。 その年の夏は記録的な猛暑だったので激しい夏バテをしてしまい、秋口を過ぎ冬になるまで疲れが取れませんでした。
よく水をたくさん飲んだ方が身体に良いと言いますが、K.A.先生は否定していました。 汗をかいた分の補給は必要かも知れないが、水分を取ればその分胃液が薄くなり、消化吸収力が落ちて食欲がなくなり、さっぱりしたものしか食べられずに水ばかり飲む事の繰り返しから、どんどん体力を落とす事になると、毎年夏になると勧めていた「夏バテ防止法」の第1項として「水分を控える」事を強調していました。 特に細胞が「水太り」のような状態になっていると、「水が水を呼ぶ」ように身体が水分を要求するようになるのだそうです。 この年の私はまさにその状態でした。 そうでなくても「好転反応」で体調が悪いのに、激しい夏バテで食欲が殆どなく、水ばかり飲んでいました。 それでも生肉は食べ続けていましたが、殆ど「口の中に流し込んでいる」ような食べ方でしたから、戻す事も頻繁で、一時は見ただけで吐き気を催しました。
1日毎に日が短くなり、朝、布団から出るのが億劫になって冬の訪れを感じ始める頃にやっと、夏の疲れが取れてきて普通に動けるようになりました。 これまでも自分の身体を作り直す為に生活を送ってきたつもりでしたが、その努力はまだまだ不充分である事を痛感させられる経験でした。
体調が戻ると水分を大幅に控え、生食を心がけ、野菜も多く採るようにしました。 翌年のゴールデンウイークからは休日や休み時間を利用して肌を焼きました。 少しでも身体を暑さに慣らす事が必要だと考えたからです。 最初こそサンオイルを塗ったりしていましたが、慣れてくるとそんな事もしなくなり、「直火焼き」をしていました。 また、3~4日に1回は近所のサウナがある銭湯に行き、汗をかいて身体の水分を絞り出しました。 普通、サウナに入り汗をかいた後は水分を充分に補給しなくてはならないと言われていますが、サウナから出ると翌朝の食事時間まで決して水分を採りませんでした。 喉がひからび、舌が上顎にくっ付くような気がしましたが、夏バテの苦しさと比較すればさほど苦痛には感じませんでした。 梅雨に入るとサウナに通う頻度を2日に1回に上げ、体内の水分をさらに絞りました。 夏に入るとさすがに水分摂取を控える訳にはいきませんでしたが、夕食後は翌日の朝食まで水分摂取を可能な限り我慢していました。 汗が大量に出る日中でも、水は一口ずつを口に含み、水温を体温に近づけてからゆっくり飲み込んでいましたから、コップ一杯の水でも5~10分もかかるゆっくりしたペースでした。 水分はかなり絞ったはずですが体重は前年と変わらなかったのですから、1年間で多少なりとも身体ができてきたのだろうと思いました。